悪役令嬢卒業前夜
キーリアが見つめる夜の空は、その瞳と同じ紫色をしていた。
星ばかりが輝く夜だ、と彼女は思った。こうも光が鮮やかでは、その巡りすらもはっきりとわかってしまう。廻らないで、と願っても、流れ星だけはひとつも見当たらず、その望みが叶うことは、きっとない。
「パーティーには行かないのかい、お嬢さん?」
部屋の入り口から唐突に投げかけられた声に、彼女はゆっくりと振り返った。
その先にいたのは、黒い髪に鳶色の目の人物。輝くような金髪に紫目のキーリアと比べれば色彩こそ穏やかではあるが、しかしその顔立ちは高貴を隠しきることもできず、同じくらいに美しい。
キーリアはほんの少し、意地悪く口の端を上げて言った。
「あら、それはこっちの台詞よ、王子様? 卒業パーティーにあなたがいないなんて、きっと学園中の女の子が泣いてしまうわ」
「おいおい、勘弁してくれよ。君を泣かせた僕が、どんな顔してパーティーに出ればいいって言うんだい? それに、もう」
――僕は王子様じゃないしね、と。
そう呟いたのは、先日廃嫡されたばかりの、彼女たちの国の元第一王子、セルジュ。
そして今は、明日に学園の卒業を控えた、ただの学生の少女、サラだった。
*
「――思えば、随分と長い時間を過ごしたものだ」
「それは学園の話? それともあなたの人生の話?」
「どっちも、かな」
時計のない部屋だった。ここは明日には引き払われるキーリアの寮室で、九年近くの時間を共にした彼女の家具や日用品は、すでにそのほとんどが荷物として部屋の隅にまとめられてしまっていたから。時間を知るすべは、それこそ夜空の星月と、紅茶から上る湯気くらいしかない。
「とはいえ」
サラは紅茶を一口飲んで、それから続ける。もうこの部屋で自由になるのは、彼女たちが囲むテーブルと、三脚の椅子、それからそのティーセットくらいだ。
「十五年の生涯のうち九年をここで過ごしたんだ。学園は僕の人生と言っても過言ではないだろうね」
「……そうね」
「君にとってもそうだろう?」
「人の気持ちを決めつけるのはあなたの良くない癖だわ」
「確信がなきゃやらないさ」
そう言って笑うサラに、キーリアも微笑んだ。九年前に婚約者として初めて会ったときから、随分とこの王子様には親しんだものだ、と思いながら。少なくとも、言葉にしなくても伝わってしまうくらいには。
「それだけに惜しいものだ。素敵な婚約者と二度と会えなくなってしまうというのは、魂を半分に引き裂かれてしまうようにも感じるよ」
「随分気障な物言いね。王子様はやめたんじゃなかったの?」
「このくらい息するように言葉にできなきゃ、王子様の役なんてできなかったってことさ」
「大変ね?」
「慰めてくれるかい?」
「泥棒猫にやってもらうのね」
ぷん、とキーリアが拗ねたように唇を突き出すと、サラは小さく噴き出して、遅れてキーリアも笑顔になった。
「マルタにも申し訳ないことをしたなあ。あれじゃきっと婚姻の当てがなくなってしまう」
「元々でしょう」
「あー、そういうこと言うんだ。マルタに言ってやろ」
「残念ね。日頃からよく口にしてるもの。今更告げ口されたって、痛くも痒くもないわ」
「……へえ、そうなんだ」
この部屋で?、とサラが尋ねれば、キーリアはこの部屋で、と頷く。その言葉にサラは、すっかり生活の匂いを消してしまった部屋を見回した後、机の上にでろん、と突っ伏した。
「いいなあ、ふたり部屋。僕だって誰かと一緒に学生生活を過ごしてみたかったよ」
「こら、お行儀が悪い」
「放蕩息子だからね。このくらいでいいのさ」
嘯くサラに、キーリアはやれやれ、と諦めたように首を振る。それから思い出すように記憶を探った。
この王子様が私に対して気を許したのはいつの頃だっただろう、と。初めからある程度は開いていた気もするし、それともずっと長いこと馴染むことができなかったようにも思える。
考えながらじっとサラを見てみれば、彼女はその視線に気付き、それからにやっ、と無防備に笑って。
「なに?」
なんて言うものだから。
「……随分と、可愛くなったものね」
「おや? 王子様の交代かい、次期公爵家当主殿?」
「冗談。あんな綱渡り、まっぴらごめんよ。傍から見てるだけでも心臓が破れちゃいそうだったんだから」
「大丈夫さ。キーリアの心臓は三つあるからね」
「ないわよ」
ぴしり、と額を叩けば、サラはふふ、と笑う。
けれど、次の瞬間には表情を変えて。
「……寂しいね。もうこんなやりとりもできなくなってしまうと思えば」
「今更?」
「今更さ。いつだって悔いは後から湧いてくるものだからね」
紅茶を含んでキーリアはその言葉を噛みしめた。
後悔がない、と言ってしまえば嘘になる。けれど――。
「私たちが決めたことよ。あなたが死ぬよりはずっとマシだってね」
「それだよ」
ぴっ、とサラがキーリアを指さした。人を指で指さない、とキーリアが少し嫌そうに注意をする。
「結局のところ、あれは僕のため以外の何物でもなかっただろう?」
「自惚れね。国の問題よ」
「自惚れてるさ。君たちが国のことなんて眼中になくて、ただ僕のことだけを考えてくれてたって、そう思うくらいにはね」
キーリアは一度口を噤んだ。
国の問題だと言うのも嘘ではない。あれはきっと大きな背景を持っていて、少なくとも私たち三人は最善の選択を取ったのだと思っている。けれど、それはきっと本当にやりたいことをやり通すための理由づけに過ぎなくて、そして、その本当にやりたいことというのは――。
「愛されちゃって幸せだなあ、って。そう思うのは簡単だけどさ。けど君たちばかりが僕のために損をしていると思えばね」
「マルタの家はあれで持ち直すのでしょう? あなたのためばかりじゃ――」
「じゃあ君は?」
私のこと。
サラにまっすぐ見つめられて、キーリアは瞼を閉じた。そして思い出す。彼女たち三人が、この学舎で出会い、過ごした日々のことを――。
*
最初に出会ったのは、サラだった。当時の紹介で聞いた名前はセルジュ。王権の第一継承候補者。公爵家の令嬢である当時六歳のキーリアの前に、婚約者として現れた。
何の実感も湧かなかった。ただ、『あなたはあの方と結婚するの』という母の言葉だけを聞いて、何か得体の知れない『ケッコンアイテ』なるものとして、セルジュという人間を、記憶の片隅に置いただけ。
次に出会ったのは、マルタだった。学寮のルームメイトとして現れた男爵家令嬢の彼女。一体どんな子が同室なんだろう、と期待半分、不安半分で部屋で待ち構えていたキーリアの前に、いきなり泥だらけで野良犬を連れて現れたお転婆。
きっと、どちらも大した出逢いではなかった。
普通に出会って、普通に会話して、普通に日々を過ごして――。たったそれだけの、どこまでも普通の友情を育んでいた彼女たちは、それでもある日転換点を迎えることになる。
セルジュがサラだと知った日。第一王子が少女だと知った日。
彼女たちは秘密の共有者になった。継承権の混乱を避けるために、少女であるサラが、セルジュとして性別を偽っているということを知った日に。
サラがセルジュとして在るために、キーリアとマルタは協力した。あるいはそれは、少しだけ特別な関係の始まりで、けれど、長きに渡る学園の生活に比べてしまえば、ほんの些細なきっかけで。
人前では、周りに取り繕うための、役者が三人だけの秘密のお芝居を。
誰もいない場所では、ただの三人の学生として、ただの三人の友人として、無限に続くようにも思える日々を。
これがきっと、これ以上を望むべくもない最良の日々だと感じていたけれど、それを誰に言うでもなかった。言葉にせずとも、伝えたい人には伝わっていたから。
けれど、夢のような日々も、生きている限りは終わりが来る。
公式には、王族の直系次男の誕生。
真実は、直系唯一の男子の誕生。
きっと、これがずっと昔の、サラがセルジュになる必要のあった時代の頃なら問題はひとつもなかったのだ。第一王子は実は女性だったのだと、それだけ告げれば、多少の波乱はあれどきっと丸く収まった。
けれど、たった十五年の間に時代は動いた。
貴族家の当主を担う女性というのが、少しずつ社会に浸透してきた。そしてサラは、その時流の中で弟と対立して王権の継承争いを発生させることが可能な程度には、優秀な人間に成長してしまっていた。
もはや事態は、単なる真実だけでは抑えることのできない領域に突入していた。社会変革の進行とともに揺らぎ始めた貴族階級の権力闘争。第一継承権を持つサラと、新たに生まれた第二継承権を持つ弟。混乱を阻止するために講じた策が、今になって逆効果に働くだろうことは、彼女たち、そして王族関係者の目には明らかだった。争いが生まれる。きっと、犠牲を伴う争いが。
だから彼女たちは、いつものように秘密の劇を演じることにした。サラをセルジュとして成り立たせていたように。
シナリオを練ったのは、きっと三人全員。
いつも通りの、最後の計画だった。
*
「キーリア……?」
返答がないことに不安を感じたのか、サラが気遣わしげに声をかけてきた。この子はこういう、意外と繊細なところがある、とキーリアは少しだけ微笑んだ。きっと、私とマルタのふたりしか知らない隠された性格なんだろうけど。
最後の計画は、結局これ以上ないくらい上手くいったんだと思う。
王家と公爵家の茶番劇。格好の材料だったキーリアとセルジュの婚約事実。
キーリアとセルジュとマルタの三人の関係のもつれによる公衆の面前での婚約破棄。セルジュがマルタに恋焦がれて、公爵家との関係を軽んじたというシナリオだ。上手くいくか不安だったけれど、元々周囲からはどこか秘密めいた関係を築いているように見られていた三人だったから、大して怪しまれることもなくその劇はただあるがままに受け入れられた。
結果として、セルジュは政治バランスの著しい欠如と、王族としての意識の欠如を叱責され、継承権の事実上の剥奪。直轄領で飼い殺しにされて、今後権力闘争の場に担ぎだされることはないだろう。
自由恋愛の名の下に人の婚約者を篭絡したマルタも、貴族社会への復帰はもう見込めない。今回の計画への協力と引き換えに、傾きかけた実家に権力中枢から内々の援助を勝ち取っただけで、一生分ではきかないくらいの外交成果をマルタは持ち帰ったわけだけど。
そしてキーリア。心通わせたはずの王子様に裏切られ、マルタに苛烈な攻撃を加えた、嫉妬深い令嬢。しばらくは表には出られないだろうが、政治バランスの関係上、いずれは公爵家当主として復帰することになるだろう、というのが当面の予測だ。
「確かにね」
キーリアは静かに唇を震わせた。
「あなたを権力闘争から引き離すために、マルタはもう王都に来ることすら難しくなっちゃうし」
「……うん」
「私は私で、やりたくもない次期当主の役目なんてのを押し付けられることになったわけだし」
「ごめ――」
「でもね」
頭を下げようとしたサラを、キーリアは言葉と、それから手で以て制した。
戸惑うサラを見つめるキーリアの表情は、やがて緩やかに微笑んだ。小さく可憐な、ひっそりと咲く花のように。
「いいのよ。生きてるんだもの、思い通りにならないことなんてたくさんあるわ」
「……そんな、」
寂しいこと、と落ち込むサラに、キーリアは言葉を続けた。
「たとえそれが恣意的に狭められた選択肢のうちのひとつでしかなかったとしても、私たちは自分の手で運命を選んだの。もう私は、」
それだけでいいわ、と。そう言おうとして、けれどキーリアはまだサラに伝えていなかったことに思い至った。
「それにね」
だから彼女は、ちょっとだけ恥ずかしそうに、にっこりと笑って。
「私、あなたたちとお芝居するの、本当はすっごく好きだったの。だから最後まであんな風に一緒に遊べて、とっても楽しかったわ」
その言葉に、サラは不意打ちを食らったような顔をして、それから一瞬、ひどく泣きそうな顔を見せた後、顔を伏せて、
「……知ってるよ」
と。それだけ、掠れるような声で呟いた。
それからキーリアは、窓の外に目を向けた。夜空は未だに紫色のままだけれど、廻り続ける星と月は、先ほどまでと位置を変えている。
彼女は星を見上げたまま、顔を動かさなかった。泣いてしまわないように、目元に浮く涙の欠片を、サラが顔を上げたときに感づかれないようにするために。
それでもきっと、と。彼女は思った。
きっと、今、サラが顔を上げたら、私も泣いてしまうだろうと。自分にかけた、ちゃちな枷なんて簡単に壊してしまって。
それだけでいい、なんて嘘だ。本当はもっとずっとずっとずっと一緒にいたい。いたいに決まってる。だからこんなにも、夜空の巡りが疎ましい。
あなたが失われなければ何でもいい。そんなの嘘だ。ただ私の目の前から消えるのと、永遠にどこからも消えてしまうのとどちらがいい、なんて、望む未来をあらかじめ欠いた問いに対して、苦し紛れの答えを出しただけ。
すでに私は満たされていた。ただここから何かを失っていくことだけを運命と呼ぶのなら、そんなもの、決して巡らなければいいと、そう思ってしまった。
泣かないで、と祈った。顔を伏せたままのサラに、叶わぬと知りながら。
ならばせめて顔を上げないで、と願った。きっとその顔を見てしまえば私も。
けれど、そんな思いを知ってか知らずか、サラはゆっくりと顔を上げて――。
もう。
私も、もう、もう――。
夜が明ければ、たったひとり――。
バン、と扉が大きな音を立てて、キーリアとサラは飛び跳ねるようにしてそちらに目を向けた。
キーリアは、開いた扉の傍にある光景を見て、あの日に戻ったみたいだ、と。そう思った。
あの日、初めてマルタに会った日のこと。彼女はドアを乱暴に開けて、引き連れてきた野良犬を自慢げに見せつけて、屈託なく笑った。
今、扉を開けたのも、マルタだった。その光景に、彼女は過ぎ去った出会いの日を思い出した。けれど九年の歳月は、マルタの立ち姿を変えていた。
あの日ずっと短かった茶色の髪は、今は肩にかかるくらいに伸びていて。
あの日泥だらけだった服装は、今は美麗なパーティードレスに変わっていて。
あの日冒険心に輝いていた翠の瞳は、今は潤んでキーリアとサラを見つめていて。
あの日ドアの重さに負けてしまいそうだった身長も、随分と伸びて。
そしてあの日、連れていた野良犬の代わりに。
「いえぇーい!! 飲んでるかあー!?」
ワインボトルを持って現れた。
酔っ払いだった。
「…………」
「…………」
キーリアとサラは、マルタの言葉に、涙の浮いた目のままに一度ふたりで向き合って。それからふっ、とそれを笑い飛ばして立ち上がり、マルタの傍に歩いて行った。
「もう、また飲んだくれて。少しくらい加減を覚えなさいよ」
「いやいや~。今日はだってさ、パーティーの日だからってお高いのたくさん出してるもんだからね!」
「パーティーに行ってきたのかい?」
「おうですとも!」
驚くサラに、マルタは胸を張る。キーリアは呆れて溜息をついて、マルタの乱れた首飾りを直しながら言う。
「驚くべき厚顔ね。よくもまああんなことがあった後に、卒業パーティーに顔を出す気になるものだわ」
「でしょ~?」
「別に褒めてないわ」
「キーリアが私に向けるのは全部褒め言葉だもんね~」
えへへへへと笑うマルタに、キーリアは、酔いすぎ、と呟いて、彼女の赤くなった頬に手を当てた。驚くほど熱くなっていて、相当に飲んでいるらしいことがわかった。
「なに、もう寝に来たの?」
「寝るわけないじゃん! 今日はパーティーだよ? なのにふたりがいないもんだからさ、会場から一番高そうなお酒かっぱらって一緒に飲もうと探しに来たんだよ!」
そう言ってマルタが突き出したワインボトル。この国での飲酒の制限解除は一応十五歳からだが、最近誕生日を迎えたばかりのキーリアはあまり酒類に詳しくない。キーリアがどうなの?とサラに尋ねると、サラはうん、とだけ言って頷いた。よくわからないが、マルタの見立ては外れているわけではなさそうだった。
「ちゃんと許可は取ってきたの?」
「そんなん私のプリティなスマイルでちょちょいのちょいよ!」
「マルタがこういうことをするようになったのは、一体どこの誰の影響かしらね」
キーリアがサラをじとっ、と見つめると、サラは苦笑する。
「その事項については大変責任を感じております」
「よし! じゃあサラくんは責任を取ってグラスを出してくれたまえ!」
「はいはい……、って、荷物にしまっちゃったんじゃないの?」
「その一番手前の箱に入ってるわ」
キーリアが指さしたのは、ティーセットを収納するために、まだ封をしていなかった荷箱。ああ、とサラは頷いて、その中からワイングラスを三つ取り出す。それからそれをテーブルの上に置いて、三人は椅子の上に座る。ようやく、すべての椅子が埋まった。
荷箱の中に入っていたオープナーで栓を開けて、まずはサラがマルタのグラスに注ぐ。それからマルタがキーリアに。
「そういえば私が来るまで何の話してたの?」
「これから寂しくなるねって話をしてたんだよ」
「ぅえへっへへへ」
「何よその笑い方」
「私も同じこと考えてたよって笑いで~す」
そしてキーリアがサラのグラスに注ぐ。これで全員に行き渡る。グラスを持ち上げながらサラが言った。
「じゃあ、折角だし乾杯しようか。誰が音頭を取る?」
「三人で取ろう! 最初私ね!」
「じゃあ次は僕かな」
「……えっ、私が最後?」
「いえーっす!」
唐突な流れにわたわたするキーリアをよそに、マルタはにこにこと笑ってグラスを持ち上げてしまう。
「それじゃあ、我らの友情とー!」
元気よくマルタが言って。
「過ぎ去りし我らの輝かしき日々と」
穏やかにサラが言って。
「…………」
しかし、キーリアは続けられない。
「おいおい、君の番だよキーリア」
「しっかりしてよお嬢~」
「……だって、何も思いつかないわ。友情と青春の後に続ける言葉なんて、一体何があるの?」
むすっとした顔でそっぽを向きながらキーリアが不満を口にする。
「あなたたちはいつもそう。私のことなんてお構いなしに何でもそうやってすぐ……」
「あーあー! 聞こえなーい! 最後の日くらいは小言はなしで行こうよ!」
「マルタの言うとおりかな。キーリアもそんなに拗ねないで」
確かに、最後くらいはうるさいことを言わない方がいいか、とキーリアは不満を飲み込んだ。これも結局は彼女たちらしさだし、私らしさでもあるのだろう、と。
けれど何を言えばいいか、なんてキーリアには思いつかなかった。アドリブにそこまで弱いわけじゃなかったけれど、友情と日々、それが彼女には世界のすべてに思えたから。
一緒に考えようとしたらしいサラもマルタも案の定何も思いつかないらしく、乾杯の仕草の途中で宙にグラスを浮かせたまま三人揃ってうんうん唸っていると。
「ふっ」
と誰かが笑いを漏らして、それが誰のものだったのかわからないままに、全員に笑いが伝播した。
静かな夜に、けれどその静寂を忘れさせるような笑いが満ちる。
「最後まで変わんないねえ私たち!」
「いいじゃないか。最後まで変わらなかった、というのは何にも代えがたい尊さがある」
「……ま、そうね。きっと、私たち、これくらいの方が……」
その言葉とともに、結局何も付け足さないままにグラスを上げようとして、けれど、彼女に何か予感めいたものが浮かんで、ふと何気なく窓の外に目を向けて――、
「――あ」
キーリアが声を上げたとき、サラもマルタも、同じような声を出した。それは予期せぬ、けれどきっとここでしか絶対にありえない、そういうタイミングで、思いがけない幸運に出会ったときのもので――。
それは一筋の、瞬きの間に消えてしまった、流れ星。
「――何を」
夢見るように、キーリアの唇が言葉を紡いだ。
「何を、願った?」
窓の外からふたりに目を移せば、彼女たちは夜空よりも穏やかに笑っていて。
「聞くまでもー?」
「ないんじゃないか?」
その答えにキーリアは瞼を閉じて、心に染み込ませるように微笑んで。
それからゆっくりとグラスを持ち上げて――。
「我らの――」
――永遠に分かたれることのない絆に、と。
三人の声は、ひとつも乱れず重なって。それからグラスが合わさって。
「乾杯」
朝日が昇れば溶けて消えてしまう、月も星も巡り続ける夜空の下で。
彼女たちは、少なくともこのたった一瞬だけ、永遠だった。