09
「…………あれ?」
異変に気付いたのは、もちろん彼女でした。
当然です。それは彼女自身の異変だったのですから。
元素タンクとエネルギータンクに必要な中身を補充し終えると、彼女はいつも通りにテラフォーミング作業に移行しようとします。
青年はまだ眠っています。
起こさないように、なるべく音をたてないように移動しようとしました。
「っ!」
移動しようとして、こけてしまいました。
「……大丈夫か?」
その音で青年は目を覚ましてしまいます。
無様に床へと転倒してしまった彼女に駆け寄るでもなく、ただベッドの上から声をかけます。
「大丈夫です。ちょっと躓いちゃいました」
彼女はきまずそうにはにかみます。まるで恥ずかしいところを見られてしまったとでも言うように。
「………………」
それはとても、人間らしい仕草でした。
そんな彼女を見て、青年は複雑な心境になります。
人間らしくありたいと願った彼女、しかしその願いは、一つの結末を示唆しているのだと、青年は気づいてしまったのです。
彼女の異変はそれからも続きました。
惑星への記憶転写作業の時も、それは顕著な症状として表れています。
与えられた仕事、テラフォーミング作業は万全に行えています。
しかしその一方で、彼女自身がそうありたい姿である人間らしい行動に支障をきたしているのです。
元素充填、エネルギー充填、記憶転写、惑星改造。
それら『アニマ』としての役割を果たすたびに、彼女は人間としての機能を退化させていきました。
彼女の身体は少しずつ、自分の思うように動かなくなっていきました。
最初はただこけてしまっただけで、大したことだとは彼女自身も思いませんでした。
しかしだんだんと歩くことも難しくなって、動くことすらままならない状況になってから、彼女は思い知りました。
これが『アニマ』として道を踏み外した自らの結末なのだと。
彼女の事を誰よりも理解している青年は、彼女の状態も理解していました。
彼女の不調に気づいてからは、頻繁に彼女の変化について調べていたからです。
「君自身の願いが、君の存在を崩壊へと導いている。これがどういう意味か分かるかい?」
動けなくなった彼女をベッドに寝かせてから、青年は淡々とした口調で言います。
「はい。理解しています」
彼女は頷こうとして、首が動かないことに気付いて、少しだけ残念そうに目を伏せながら言葉で応じました。
「人間のようになりたい。そう願ったことが、原因なんですね」
「その通りだ」
彼女の言葉に、彼は頷きます。
そこには失望も諦観もなく、ただ当たり前の事実だけがあるとでも言うように。
『アニマ』は記憶転写型生体端末であり、人間と同じ形をしています。
しかし人間と同じ形をしていても、決して人間ではないのです。
生きているから、命があるから、だから人間なのだと主張することもできるでしょう。
しかし『アニマ』と人間では決定的に違うものがあります。
人間は自らの願いの為に生きる存在であり、『アニマ』は人間の願いの為に生まれてきた存在だということです。
記憶を肉体に蓄積し、星と共鳴し、記憶を書き換えることができる。
それはある意味、『願いを叶える力』でもあるのです。
願った通りに、望んだ通りに状況を書き換えていく。
それが『アニマ』の機能であり、本質なのです。
そして叶えられる願いはどちらか片方だけなのです。
テラフォーミングは人間の願いであり、人間のようになりたいというのは彼女の願いなのです。
一つの願いしか叶えられない身体で二つの願いを叶えようとしているから、『アニマ』としての身体に無理がきているのです。
いえ、矛盾を孕んできたと言った方が正しいのかもしれません。
どちらかしか選べないものを、二つ選ぼうとしているからこそ、矛盾に満ちた彼女の存在は自ら崩壊に向かっているのです。
「君が人間のようにありたいという願いを捨て、本来の『アニマ』に戻れば、その崩壊は止まるだろう」
出会った頃と同じように、主の命令と自らの役割のみのために働く道具として。
それが『アニマ』のあるべき姿なのだと、『アニマ』としての彼女は痛いほどに理解しています。
「もしくは、『アニマ』としての役割を全面的に放棄して、人間のようでありたいとだけ願うことでも、その崩壊は止まるだろう」
その場合、彼女は『アニマ』ではなくなり、完全な人間にもなれない、人間にひどく近い『何か』へと変わっていくでしょう。
新しい命へと変わることが出来るでしょう。
「選ぶといい。どちらを選んでも、君の自由だ」
青年は彼女に言います。
彼女の意志を尊重します。
「……マスターは、わたしが『アニマ』でなくなったら、どうするんですか?」
「?」
問われたことの意味が分からず、青年は首を傾げます。
「マスターには『火星に桜並木を作る』という夢があったはずです。その夢はまだ叶っていません。わたしはマスターの願いを叶えるために、あなたに創ってもらいました。そのわたしがいなくなったら、マスターはどうやってその願いを叶えるつもりなのですか?」
「それは君が心配するほどのことじゃない。君が『アニマ』でなくなれば、新しい『アニマ』を創ればいい。君は君の望むように生きればいいし、僕も僕の望むように生きる。だから君が僕の夢に対して負い目を感じる必要は全くない」
青年は淡々と答えます。
青年にとって彼女は自分の夢を叶えるための道具でした。
しかし青年は意志ある者を、魂持つ者を道具扱いするような精神性は持ち合わせていません。
彼女が自分のために生きることを望むのならば、青年は協力したいと思っています。
道具として生まれながら自らの意志を手に入れた彼女に対する、それが青年なりの敬意でもあります。
「………………」
彼女はそんな青年の気持ちを、正確に読み取っていました。
そしてとてもイヤな気持ちになりました。
彼女にとって青年は唯一の存在でも、青年にとってはそうではないのです。
彼女が居なくなれば、代わりを創る。
彼女の代わりを、青年は用意できる。
彼女が居なくても、青年は夢を叶える。
それは、とても寂しいことでした。
「……わたしは、どちらも選びません」
「………………」
『アニマ』であることも、『人間に近いもの』になることも、どちらも選ばないと彼女は言いました。
彼女にはどちらを選ぶことも出来なかったのです。
「わたしは、この心を捨てたくありません。だからただの『アニマ』に戻るのは嫌です。だけどマスターの夢を叶えるのも、やっぱりわたしでありたいんです」
「どうしてそこまでする? この願いは僕の願いだ。君の願いじゃない」
青年には彼女のことが理解できません。
彼女が何を望んでいるのかを理解できません。
「わたしはマスターだけの『アニマ』です。だからマスターにとっての『アニマ』も、わたしだけであってほしいんです」
「………………」
それが彼女にとって精一杯の独占欲だということに、青年はまだ気付けていません。彼女から向けられる真っ直ぐな想いを、青年は測りかねているのです。
「きっとわたしは、そんなに長く生きられないでしょう。だけどわたしはマスターの願いを叶えるための『アニマ』であること、そして意志ある存在としてのわたし、どちらも捨てたくありません。だから……」
矛盾した存在は、遠からず自ら崩壊する。
その未来を、その現実を、彼女は静かに受け入れました。
彼女は自らの意志で願いました。
「……好きにすればいい。僕に君の意志を押さえつける資格はない。だけどこれだけは言っておく」
青年は少しだけ怒ったような口調で、彼女を睨みつけました。
本当に珍しいことに、青年は彼女に対して感情を抱いているのです。
例えそれが怒りであったとしても、青年にとって初めて他人に抱く積極的な感情でした。
「僕は君が命を捧げるほど価値のある人間じゃない」
ムキになっている、というのは自分でも分かりました。初めて抱く感情に、青年自身戸惑っているのかもしれません。
しかしそれでも彼女はゆらぎません。
「それを決めるのはあなたじゃない。わたしの命の使い方を決めるのは、他の誰でもないわたしなんです」
それは、強い意志でした。
そして、小さな願いでした。
彼女はきっと分かっています。
自分の想いは青年に届かないことを。
それでも彼女は思うのです。
想いが届かないことは、相手を諦める理由にはならないと。
この恋は彼女だけのものであり、青年と共有できるものではないとしても、それでも好きであり続けることは、彼女だけの権利なのだと。




