08
それから再び数ヶ月、青年と彼女が火星にやってきてから一年と少しが経ちました。
火星全体の色合いが大分違ってきた頃です。
それぞれのエリアで担当者と『アニマ』が頑張っている証拠でしょう。
そして青年の担当するエリアも、ようやく桜の樹が植えられるようになりました。
彼女がとても頑張ったおかげで、植物が健全に育つ土壌がこのエリアには出来上がっていたのです。
芝生があり、花があり、そこはまるで庭園のようでもありました。
もちろん全体がそこまで緑豊かなわけではありません。
あくまでも青年が生活しているハウスの周辺だけです。
その他の部分はまだ雑草が生え始めた程度といったところです。
そして彼女は一本だけ、頑張って育てました。
彼女の記憶に残された桜の樹を。
青年の望んだ桜の樹を。
彼女に組み込まれたプログラム通りに。
彼女が望んだ笑顔の為に。
たった一本だけ、荒野に突き立つように咲き誇る満開の桜。
それはいっそ歪なほどに美しく、そして泣きたくなるほどに儚いものでした。
青年はその幹に触れて、こつんと額をぶつけます。
あの日と同じように、あの日とは違う想いで。
「空を舞う桜色。花の記憶は儚く散りゆく一瞬の輝きの中に」
青年は青い空を眺めながら、懐かしい歌を口ずさみました。
「巡りゆく季節を重ね、ひとひらの想いをこの手に遺す」
もうずいぶんと長い間、歌っていなかった気がする大切な歌を。
「その歌は……?」
彼女は不思議そうに首を傾げます。
「桜の歌だ。僕の好きな歌」
「マスターの、好きな歌……」
その歌はとてもきれいで、だけど儚くて、寂しくて、少しだけ温かい感じがしました。
そんな歌を好きだと言った青年を、彼女は同じ存在ではないかと考えました。
儚くて、寂しくて、少しだけ温かい。
青年が今まで好きな歌を口にしなかったのは、大切なものを自分の中だけにとどめておきたかったからで、今になって彼女の前で歌ってくれたのは、彼女に対するご褒美だったのです。
彼女がこのたった一本の桜を咲かせるためにどれだけ頑張ったのかを、青年は知っています。
本当ならまだここまで順調に植物が育つ環境ではないのに、彼女は失敗しそうになりながら、くじけそうになりながらも、それでも青年に桜の樹を見せたくてすごくすごく頑張ったことを、青年は知っています。
ずっと彼女の傍にいました。
ずっと彼女を見ていました。
失敗も成功も挫折も、喜びも悲しみも葛藤も、ずっとそばで見ていました。
「君にあげるよ。憶えておいてくれ」
青年は少しだけ笑ってから、そう言いました。
「はい。絶対に忘れません!」
初めて見ることができた青年の笑顔は、やっぱり少しだけ寂しそうで、だけど少しだけ幸せそうにも見えました。
そして何よりも青年が大切にしている、青年が大好きな歌を教えてくれたことがとても嬉しかったのです。
彼女はとても、幸せでした。
世界で一番、幸せだと思えました。
彼女の記憶の一番大切な部分に、青年の歌は保存されました。
彼女の恋は、少しずつ成長しています。
そしてそれは、彼女自身の破滅を意味していました。