06
それからテラフォーミング作業は順調に進んでいきました。
青年が調査したデータを元に、彼女が必要な元素を火星の大地に浸透させていき、彼女の接触により、彼女の中にある地球の記憶を大地に馴染ませていきます。
星規模の記憶の書き換え。
数千年前までは机上の空論でしかなかった幻想の果ての技術を、青年の父親は完成させたのです。
ほんの二ヶ月ほどでその結果は顕著に表れました。
赤い大地はほんの少しだけ茶色くなり、わずかながらも大地に雑草が生えるようになったのです。
しかし大地そのものの変化は青年の担当するエリア全体に亘っていましたが。雑草が生えた場所はごく限定的なものでした。
それは偶然ではなく、彼女が意図的にそうしたのだと分かります。
「どうしてここだけ雑草を生やしたんだ?」
不思議に思った青年は彼女に問いかけます。
「雑草を生やしたかった訳ではありません。土壌を作りたかったのです」
「?」
青年には彼女の言っていることの意味が分かりませんでした。
確かにテラフォーミングには土壌作りが大切ですが、それは全体的な課題であって、あえて限定的な範囲でそうすることの意味が青年には分からなかったのです。
「マスターに、一日でも早く桜を見せたいのです」
「………………」
彼女の言葉に、青年は今度こそ驚きました。
確かに青年は彼女の機能に手を加え、桜並木の完成を優先順位に置くことを設定しています。しかしそれはあくまでも青年が設定したことであり、実行されるのは基本的な環境調整が済んだ後のはずなのです。
しかし彼女は環境調整がまだ初期の段階でその優先項目を実行しています。これは青年の設定したことではありません。もしかしたら機能の不具合、故障しているのかと青年は疑いましたが、しかし彼女の他の仕事ぶりを見る限り、それはありません。
彼女は青年が指示したことは十全にこなしていますし、また青年が気付かない部分に関してもぬかりなくフォローしてくれています。
だとしたら、考えられる理由はただ一つ。
彼女自身の意志、ということです。
青年の命令でも、設定でもなく、彼女が彼女自身の意志で、青年のために桜を見せたいと思っているのです。
生体端末である彼女が、まるで人間のように自由意志を持ち始めているということなのです。
「君は……」
彼女は青年が作り出した『アニマ』です。
彼女のことは隅から隅まで、外側から中身まで知りつくしています。
ですが中身の中身、その心までを知る術はありません。
生体端末。
『生体』ということは『生きている』ということです。
『生きている』ということは『命がある』ということです。
そして『命がある』ということは、『意志がある』ということでもあります。
しかし青年は、彼女を作り出した青年は知っていました。
彼女は『意志なき命』であることを。
命があるのはその方が都合が良いからであって、意志を持たせたかったわけではありません。
彼女を製作した当初は、そして彼女と出会った当初は間違いなく、彼女は『意志なき命』でした。
彼女の生みの親であり、誰よりも彼女のことを理解しているはずの青年がそう確信していたので、それは間違いありません。
だからこそこの状況は青年にとって一つの驚きなのです。
今の彼女は間違いなく『意志ある命』です。
自らの意志で何かを成し遂げたいと願う、『魂持つ者』なのです。
それは本来、歓迎できることではありません。
人間に従うために、人間に都合の良い環境を作り出すための道具として生み出された存在。それが『アニマ』だったはずなのです。
その『アニマ』が自由意志を持ったりすれば、いずれ主であるはずの人間に従わなくなるかもしれません。
『アニマ』は人間よりもずっと万能なのです。
人間は『アニマ』に頼らなければ生きていけないのが現状ですが、『アニマ』は人間に頼らなくても生きていけるのです。
自由意志を持った『アニマ』がその事実に気付いた場合、人間を見捨てる可能性が全くないとは言いきれません。いえ、その可能性は高いでしょう。自分より劣った存在に尽くす理由など、本来はないのですから。
「……それが、君の望みか?」
「はい。それがわたしの望みです」
恐らくはここ数ヶ月の共同生活で芽生えたのであろう『意志』。
彼女は青年を真っ直ぐに見据えてからその意志を示しました。
「そうか」
青年はその事に対して何も言いませんでした。
本来ならば由々しき事態として彼女の再調整を行うべきなのでしょう。芽生えかけた意志を消去して、ただの道具に戻すことこそが『アニマ』の正しい在り方なのですから。
しかし青年はそうはしませんでした。
もちろん、ネットワークへの報告もしませんでした。
担当エリアと『アニマ』への異常があればすぐにでも報告するのが青年に課せられた義務の一つですが、そもそも彼女に関しては製作した段階から青年が全て責任を持っているのです。彼女に対するトラブルを青年以外が解決できるはずもありません。
しかし青年が彼女に対して意志を許容したのはそういう理由からではありません。
もちろん、生みの親としての情でもありません。
そもそも人間に対して情を持てなかった青年が、自らの手で生み出した存在とはいえ人間ではないただの道具に情を持てるはずもないのですから。
だからこれは青年にとってはほんの気まぐれだったのかもしれません。
自らが創り出した彼女。
意志を持たないはずの彼女。
その彼女が意志を、自我を、願いを持ったという厳然たる事実。
その行く末を、見届けたいと思ったのは。
青年の大好きな桜を思い起こさせる彼女に対する、ほんの気まぐれだったのかもしれません。
しかし青年は一番大切なことには気付いていませんでした。
彼女は意志を持って、自我を形成し、願いを叶えようとしています。
しかしその根幹にあるものは、女の子としての心だったのです。
青年の為に何かをしてあげたい。
青年の笑う顔が見たい。
彼女の願いはそこにあります。
そう。
彼女は青年に恋をしました。
その恋こそが、その想いこそが、彼女にとっての全てだったのです。