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地球の環境破壊がいよいよ深刻化した西暦四〇一二年。
地球国家共同体は本格的に人類移民計画を実行に移すことにします。
これは、孤独に生きたかった一人の青年と、二人で生きたかった彼女との、小さな恋の物語です。
「空を舞う桜色。花の記憶は儚く散りゆく一瞬の輝きの中に」
青年は灰色の空を眺めながら、歌を口ずさんでいました。遥か昔、大地に溢れていた花をテーマにした歌です。
「巡りゆく季節を重ね、ひとひらの想いをこの手に遺す」
青年は自分のことも家族のことも、そして他人のことも好きにはなれませんでしたが、それでもこの歌だけは気に入っています。
『桜』という名前の綺麗な花。
不毛の大地と化した今の地球では滅多に見ることの出来ない幻ですが、青年の家には一本だけ桜の樹が生えています。
密閉空間の中、完全な環境調整によって成長を許されているたった一本の桜の樹です。
今はつぼみの段階で、あと数日もすれば桃色の花を咲かせることでしょう。もちろん、環境操作によってもっと早く、今すぐに咲かせることも可能ですが、青年は敢えてそうはしません。
歪な環境でようやく命を保っているこの桜に、これ以上の無理をさせようとは思わないのです。
「うん。旅立つまでにはなんとか開花しそうだな」
青年は安心したように笑います。
青年は地球国家共同体が募集している人類移民計画、その先遣隊に志願しています。
火星を人が住める星へと改造する、その為の人員として地球を離れるのです。
たとえ青年が志願しなくとも、地球国家共同体は彼を招聘していたことでしょう。
火星のテラフォーミング、その根幹となるシステムを作り出したのが青年の父親だからです。
むしろ青年の父親の存在があったからこそ、人類移民計画は本格化したと言っていいかもしれません。
そんな世界にとっての重要人物である青年を、地球国家共同体が放っておくわけがありません。
青年は父親と共にそのシステムの研究を完成させた功労者の一人でもあるのですから。
もちろんシステムの大半は父親が手掛けていましたし、青年はせいぜいその手伝いをしていたに過ぎません。
しかし誰よりも父親の研究を理解し、把握しているのは世界でたった一人、この青年だけなのです。
もちろんシステムに関しての技術開示は青年の父親がすでに行っていますから、青年が絶対に必要というわけではありません。
しかし人員が圧倒的に不足している移民計画において、システムに関しての専門知識を持つ人間は一人でも多いに越したことはないのです。
彼の父親はシステムを完成させて一か月ほどで命を落としました。病気でも事故でもなく、ただの寿命だったのだろうと青年は思っています。青年の父親は研究一筋の人間で、子供を作ったのは随分と歳を取ってからだったので、青年が成人する頃にはかなりの老齢だったのです。
システムを完成させたことで自分の役割は終わったと思ったのでしょう。その死に顔はとても満足そうなものでした。だから青年も悲しんだりはしませんでした。もとより家族への愛情が乏しい青年にとっては悲しむという感情そのものが存在しなかったのかもしれません。
母親は随分昔に家を出て行きました。
結局のところ、子孫を残すという義務を果たしただけで青年の父親は家族を大切にしようというつもりは微塵もなかったのです。妻に対する気遣いももちろんなく、子供を遺すための道具程度にしか思っていなかったのかもしれません。三行半を突きつけられるのはむしろ当然の流れだったと言えるでしょう。
青年は母親の顔を知らないまま、孤独に育ちました。
父親は研究熱心でほとんど家に帰らず、青年の世話は全てお手伝いさんがしていたのです。お手伝いさんは仕事で面倒を見ていたに過ぎず、青年に対して一切の情を示したりはしませんでした。
青年は愛情を知らずに育ちました。
だから人を愛せないのかと自問したこともありますが、しかし庭の桜を見た時にそうではないと自覚しました。
見栄えがいいからというだけの理由で植えられたその桜は、まだ幼かった青年の心を虜にしました。
桃色の花びらも、長く咲いていられない儚さも、散りゆく美しさも、その全ての在り方が愛おしいと思えました。
自分にはきちんとした『感性』が備わっている。ならば人を愛せないのは何か別の理由があるだけで、決して自分が欠陥品なわけではないのだと思うことにしました。
成長して、知識を得て、青年は父親の研究を手伝うようになりました。
それは息子として父親の力になりたいとか、尊敬する父親の側にいたかったとか、そういった子供らしい理由からではありませんでした。
少年は父親の研究成果に一つの夢を見出したのです。
自らを愛してくれなかった父親、そして父親を愛せなかった自分。そんな二人がそれでも協力して一つの成果へと辿り着いたのは、その夢が二人を繋げてくれたからかもしれません。
青年の父親はその夢を聞いた時、一つの歌を青年に教えました。
何一つ父親らしいことが出来なかった代わりに、青年が大切に出来る歌を遺してやりたいと思ったのかもしれません。
――空を舞う桜色。花の記憶は儚く散りゆく一瞬の輝きの中に。巡りゆく季節を重ね、ひとひらの想いをこの手に遺す。
青年は父親が遺してくれたその歌をとても気に入りました。
桜の樹を眺めながら、そして桜の樹を思い出しながら、一日に何回も口ずさむほどに。
もしかしたら繰り返し歌っているのは、その歌が好きだからというだけではなく、唯一父親が遺してくれた繋がりを大切にしていきたいという人間らしい感情からだったのかもしれません。
そうだったらいいのに、と青年はぼんやりと思います。
そんな風に願わなければ自覚できないということこそが、決定的な解答を示していることにも、もちろん気付いています。
だからこそ青年は旅立つ決意をしました。
自分が唯一感情を動かされた、自分が唯一愛おしいと思うものを、あるがままの形で存在させたいと思ったのです。
青年が願い、そして父親が祝福してくれた一つの夢。
それは、大地に桜を根付かせること。
完全な環境調整が行われる箱庭の中の桜ではなく、空の下で大地に根付く自然の桜。
辺り一面の桜並木を、火星の大地で実現したいと夢見たのです。
過去の映像記録でしか目にしたことのない夢のような光景に、自分の足で立ってみたいと願っているのです。
夢は見ているだけでは叶いません。
願い、目指し、そして行動するからこそ夢は叶うのです。
「いつか、こんな狭い箱庭の中じゃなくて、広い大地の上で咲き誇れるようにするから」
つぼみのままの桜を見て、青年は語りかけます。
この桜は、青年が旅立てばたちまちに朽ち果ててしまうでしょう。
環境調整をしてくれる人間が居なくなれば、箱庭の桜はその存在が続くことを許されません。
人を雇って存続させることも考えましたが、青年は敢えてそのまま朽ちさせることを選びました。
桜の樹は火星で引き継ぐ。
そういう決意の表れなのかもしれません。
種はすでに回収しています。
たくさん、たくさんの種を青年はこの桜から回収しました。
なるべく多くの桜を火星の大地に植えるために。
この桜が朽ち果てても、この桜から存在を引き継いだ新たなる樹が火星で芽吹くように。




