アンドロイド婚
第一章 Zウイルス
「なあ純一」
拓也がコーヒーカップを指で回しながら言った。
「この世界で、普通に結婚できる男って、どれくらいいると思う?」
純一は苦笑した。
「さあな。八人に一人くらいじゃないか」
「逆だよ」
拓也はゆっくり首を振った。
「男が八人で、女が一人なんだ」
店の窓から午後の光が差し込んでいた。
古いジャズがスピーカーから流れ、
コーヒーの香りが店内に漂っている。
ここは二人が学生の頃から通っている喫茶店だった。
街がどれだけ変わっても、この店だけは昔のままだ。
純一はカップを持ち上げた。
「恵美が亡くなって、三ヶ月か」
拓也は少し視線を落とした。
「……ああ」
二十二世紀。
世界は一つの病によって形を変えられていた。
Zウイルス。
女性だけに感染し、高い確率で死に至る未知の感染症。
発生から数十年。
世界の女性人口は激減し、
人類の男女比は、男八人に対して女一人まで崩れていた。
街には男ばかりがあふれている。
恋愛も結婚も、奇跡のような出来事になった。
「恵美さん、いい人だったよな」
拓也が言った。
純一は少し笑った。
「婚約して半年だった」
「すまない」
「いや」
純一は首を振った。
「今の時代、恋人がいただけでも幸運だった」
その時、ウェイターがコーヒーを運んできた。
「お待たせしました」
声は柔らかく、自然だった。
胸のプレートには
SAYURI
と書かれている。
ウェイターが去ったあと、拓也が言った。
「今の……アンドロイドだよな?」
「そうだ」
「全然わからなかった」
純一は苦笑した。
「今のアンドロイドは、人間とほとんど見分けがつかない」
拓也は窓の外を見た。
男ばかりの街。
女性はほとんどいない。
代わりに増えたのが、女性型アンドロイドだった。
純一はふと呟いた。
「なあ拓也」
「なんだ」
「もしさ」
純一はコーヒーを見つめた。
「もう一度、恵美に会える方法があるとしたら」
拓也は驚いた。
「そんなのあるのか?」
純一は静かに言った。
「アンドロイドだ」
拓也は言葉を失った。
純一は続けた。
「生命維持管理局の人に言われた」
あの日の病院の光景が、頭の奥に浮かぶ。
白い病室。
眠るように横たわる恵美。
その横で、黒いスーツの職員が説明していた。
『政府では現在、アンドロイド婚制度を準備しています』
『亡くなられた方の人格データをもとに、
再現型アンドロイドを作ることが可能です』
『希望されますか』
純一はその時、何も言えなかった。
ただ、恵美の顔を見ていた。
それでも最後に、声を絞り出した。
「……会いたい」
それだけだった。
そして三ヶ月後。
政府は正式に制度を発表した。
アンドロイド婚。
亡くなった人間を再現したアンドロイドと、
結婚できる制度だった。
拓也はしばらく黙っていた。
それから言った。
「純一」
「うん」
「それ、本気で考えてるのか?」
純一は窓の外を見た。
男ばかりの街。
人間の女性は、ほとんどいない。
それでも。
「会いたいんだ」
静かに言った。
「もう一度」
第二章 恵美
恵美と初めて会ったのは、春だった。
公園の時計台の下。
待ち合わせは十一時だったが、
純一は三十分も早く着いてしまった。
ベンチに座りながら空を見上げていると、
背後から声がした。
「早いね」
振り向くと、恵美が立っていた。
長い髪が春風に揺れている。
「純一、待った?」
「いや」
純一は笑った。
「俺も今来たところ」
恵美はくすっと笑う。
「それ、絶対嘘」
二人は公園を歩いた。
ハナミズキが咲いていた。
恵美がふと立ち止まる。
「花言葉知ってる?」
「知らない」
「私の想いを受け止めて」
純一は少し照れた。
「ずいぶん意味深だな」
「そう?」
恵美は楽しそうだった。
その日、二人は近くのイタリアンに入った。
窓際の席。
それが、二人の定位置になった。
「私はグラタン」
「俺はカルボナーラ」
それも、いつもの注文だった。
食事を終え、公園に戻る途中だった。
恵美が突然立ち止まった。
「……純一」
「どうした?」
彼女はその場に座り込んだ。
顔が真っ白だった。
「恵美?」
呼吸が荒い。
「少し……気分が……」
純一はすぐに救急センターに連絡した。
救急車の中で、恵美は弱く笑った。
「純一」
「大丈夫だ」
「もしさ」
恵美が言った。
「私がいなくなったら」
純一は強く首を振った。
「そんなこと言うな」
恵美は窓の外を見た。
春の空だった。
その翌日。
恵美は亡くなった。
診断名は
Zウイルス。
第三章 アンドロイド婚
葬儀が終わって数日後、
純一は生命維持管理局に呼び出された。
局の建物は、白く無機質だった。
大きなガラス扉を抜けると、
受付の奥で柔らかな女性の声が案内をした。
声だけを聞けば人間と変わらない。
だが、その均一な抑揚に、
純一はここが
人間のためだけの施設ではないことを思い出した。
案内された相談室には、中年の男性職員が一人座っていた。
胸元のネームプレートには、
生命維持管理局 婚姻支援課 佐伯とある。
「太田純一さんですね。お疲れさまでした」
「はい」
純一が椅子に腰を下ろすと、
佐伯はタブレットを操作しながら静かに言った。
「今回は、お気の毒でした。婚約者の太田恵美さんは、
Zウイルス感染症により死亡確認されています」
純一は答えなかった。
確認されるまでもない事実だった。
それでも、他人の口から「死亡」と言われると、
その言葉だけが冷たく胸の奥に残った。
佐伯は続けた。
「現在、政府は人口減少対策と婚姻環境の安定化を目的として、
新制度の準備を進めています」
「アンドロイド婚……ですか」
「はい」
佐伯はうなずいた。
「故人の生体記録や音声、映像、性格傾向、
生活履歴などをもとに、人格再現型アンドロイドを作成します。
完全再生ではありませんが、限りなく近い個体の製作が可能です」
純一は机の上に置かれた自分の手を見た。
指先に少しだけ力が入る。
「完全再生ではない、というのは」
「故人本人ではありません。あくまで、再現個体です。
ただし、対話能力、生活対応能力、感情表出の再現性は、
きわめて高い水準にあります」
「……その個体と、結婚ができる」
「制度上は、可能になります」
佐伯の声は終始落ち着いていた。
「太田さんのように、婚約中または交際中にZウイルスで
お相手を喪われた方からの要望は非常に多く、
今回の制度設計の中心にもなっています」
純一はしばらく黙っていた。
恵美の声が頭の奥でよみがえる。
春の光の中で笑っていた顔。
グラタンを熱そうに口に運び、「熱い」と言ったあの表情。
「……会えるんですか」
自分でも驚くほど弱い声だった。
佐伯は少しだけ間を置いて答えた。
「ご本人そのものではありません。
ですが、太田さんが“もう一度会いたい”と願う存在に、
最も近い形でお届けすることは可能です」
純一は唇を噛んだ。
それは、希望なのか。
それとも、諦めきれない人間に与えられた、優しい模造品なのか。
だが、どちらでもよかった。
会いたかった。
それだけだった。
「お願いします」
佐伯が顔を上げる。
「恵美を、作ってください」
その言葉を口にした瞬間、
純一は自分が泣いていることに気づいた。
静かに流れた涙が、机の上に落ちた。
制度の成立は、その数週間後だった。
テレビでは連日、「新時代の婚姻制度」として特集が組まれ、
街の大型モニターでも速報が流れていた。
アンドロイド婚法案、可決。
女性人口の激減により、
従来の婚姻制度では社会の維持が困難になったこと。
パートナー喪失による精神的不安定が社会問題化していたこと。
出生支援のため、凍結卵子と胎児ファームを活用した
新たな生殖支援政策を国家が担うこと。
世論は割れていた。
倫理を問う声もあった。
死者の再現は冒涜ではないかという議論もあった。
だが、純一はそのどれも遠く聞いていた。
彼にとって重要なのは、制度の正しさではない。
恵美に、もう一度会えるかどうか。
それだけだった。
その夜、純一は拓也を喫茶店に呼び出した。
窓際の席に座っていた拓也は、純一の顔を見るなり言った。
「通ったな」
「ああ」
純一は席に着き、深く息を吐いた。
「申請した」
「そうか」
「恵美の映像も音声も、スマホの中に残ってた。
家族アルバムのデータも借りたよ。性格傾向の聞き取りもあってさ。
好きだった食べ物とか、口癖とか、苦手なこととか」
「そこまでやるんだな」
「たぶん、国も本気なんだろう」
拓也は運ばれてきたコーヒーを一口飲んだ。
「正直、最初は気味が悪いと思った。
でも、純一を見てると……必要な制度なのかもしれない」
純一はカップの中の黒い液面を見つめた。
「必要かどうかなんて、もうわからないよ」
「うん」
「でも、会いたいんだ」
拓也は何も言わなかった。
その沈黙だけで、十分だった。
第四章 再会
引き渡し日は、初夏の晴れた日だった。
生命維持管理局から提示された面会場所の候補の中に、
純一は迷わずあの公園の時計台を選んだ。
恵美と初めて待ち合わせた場所。
二人の時間が始まった場所。
そして、思い出の中心にずっと残っている場所。
待ち合わせは十一時。
純一はまた、三十分も早く着いてしまった。
時計台の下には、柔らかな風が吹いていた。
新緑が光を弾いている。
あの日と同じように、ベンチの影が地面に細長く落ちていた。
(また早く来てしまった)
純一は苦く笑った。
(恵美に、また笑われるな)
そう思った瞬間だった。
「純一さん」
後ろから、声がした。
純一は振り向いた。
そこに立っていたのは恵美だった。
白いワンピース。
肩に落ちる長い髪。
まっすぐこちらを見る、少し大きな瞳。
ただ、胸元に小さく刻まれた識別表示だけが違っていた。
EMI
純一は、一歩も動けなかった。
息の仕方を忘れたように、ただ見つめる。
EMIは少し困ったように笑った。
「そんなに見つめられると、照れてしまいます」
その言い方まで、恵美に似ていた。
純一の喉がようやく動いた。
「……恵美」
EMIは首を小さく振った。
「私はEMIです」
けれど、そのあとで、やわらかく言った。
「でも、そう呼ばれて嫌ではありません」
純一は思わず目を閉じた。
視界の奥が熱くなる。
会いたかった。
たとえ違う存在でも。
本人ではなくても。
目の前にいるこの存在が、
自分の記憶と痛みを受け止める形で立っていてくれるだけで、
胸が苦しかった。
「会えて……よかった」
ようやくそれだけ言うと、EMIは微笑んだ。
「私もです」
一陣の風が吹いた。
髪が揺れる。
その仕草まで、あまりにも自然で、純一はまた言葉を失った。
「少し歩きませんか?」
EMIが言う。
「はい」
純一は、ほとんど反射のようにうなずいた。
二人は公園の小道を並んで歩いた。
沈黙は気まずくなかった。
むしろ、昔からそうだったように思えるほど自然だった。
やがてEMIが立ち止まり、花壇の方を見た。
「ハナミズキですね」
純一の心臓が跳ねた。
「……覚えてるのか」
「記録として持っています」
EMIは花を見つめたまま言う。
「花言葉は、私の想いを受け止めて」
純一は思わず笑った。
涙が出そうになるのを、笑いでごまかした。
「そこまで再現するんだな」
「純一さんにとって、重要な記憶だと判断されたのでしょう」
「そうか」
「違いましたか?」
「いや」
純一は首を振る。
「大事な記憶だよ」
EMIは少しだけ目を細めた。
その表情があまりに懐かしくて、
純一はもう、何が再現で何が本物なのかわからなくなっていた。
「お腹、空いていませんか?」
EMIがそう言ったのは、十一時半を少し回った頃だった。
純一は笑った。
「西側のイタリアンに行くか」
「はい。カルボナーラの店ですね」
「……そこまでか」
「好きでしたよね」
EMIが当然のように言う。
純一は息を吐きながら歩き出した。
店に入ると、昔と同じ窓際の席が空いていた。
二人は自然にそこへ座った。
席に着いた瞬間、純一は胸の奥がきしむのを感じた。
懐かしさが強すぎて、痛みに近かった。
注文を取りにきたウェイターは若い男性だった。
メニューを受け取りながら、EMIが言う。
「私はサービスランチにします。グラタンですよね」
純一は顔を上げた。
「……そうだな」
「純一さんは?」
「カルボナーラ」
「やっぱり」
EMIは少しだけ笑った。
その笑い方まで、昔のままだった。
食事が運ばれてくるまで、二人は取りとめのない話をした。
純一の仕事のこと。
今の街のこと。
制度が始まってから、人々の暮らしがどう変わったか。
けれど、純一の意識は何度もEMIの指先や口元に向かってしまう。
水を飲む角度。
頬にかかる髪を払う仕草。
言葉の切り方。
どれもが「恵美」によく似ていて、
よく似ているからこそ、かえって違いを探したくなる。
やがて料理が運ばれてきた。
EMIはスプーンでグラタンをすくい、すぐに口へ運んだ。
「あつ……」
純一は思わず言った。
「だから、急いで食べるからだよ」
EMIは目を丸くしたあと、小さく笑った。
「同じこと言うんですね」
その一言に、純一は一瞬だけ動きを止めた。
“同じことを言う”。
それは、彼女が比較しているということだ。
恵美と、いま目の前にいる自分を。
記録の中の過去と、いま進行している時間を。
EMIは本当にただの模造品なのか。
それとも、過去の記録を踏み台にして、
新しい関係を作ろうとしているのか。
純一にはまだわからなかった。
食事のあと、窓の外に目を向けながら純一は言った。
「EMI」
「はい」
「今日、会って思った」
EMIは静かに純一を見る。
純一は、フォークを置いた。
「君と、ちゃんと生きてみたい」
EMIは、すぐには答えなかった。
その沈黙は、プログラムの処理時間には見えなかった。
むしろ、言葉を選んでいるようだった。
「それは」
EMIがようやく口を開く。
「結婚の申し込みですか?」
純一は苦笑した。
「たぶん、そうなる」
EMIは、まっすぐに純一を見た。
「嬉しいです」
「……本当に?」
「はい」
「君は、制度によって僕に提供された存在だろ」
「それでもです」
EMIの声は穏やかだった。
「私は、純一さんと一緒に過ごすように作られました。
でも、それだけではありません。
こうしてお話して、今この時間を重ねていくうちに、
私は私として純一さんのそばにいたいと思っています」
純一はその言葉を、すぐには飲み込めなかった。
だが、少なくとも、救われた気がした。
「ありがとう」
EMIは小さく首を傾げる。
「では」
「うん」
「今日から、よろしくお願いします」
純一は、泣きそうになるのをこらえながら笑った。
「こちらこそ」
第五章 結婚と日常のはじまり
アンドロイド婚の手続きは、驚くほど事務的だった。
市民婚姻センターで必要書類を提出し、
適合審査を受け、共同生活意思確認の対話記録を残す。
人間同士の結婚よりも確認事項が多い分、
制度としてはむしろ整っているように見えた。
「不思議だな」
帰り道、純一が言う。
「何がですか?」
「人生で一番大事なことかもしれないのに、
手続き自体は案外あっさりしてる」
EMIは微笑む。
「大事なのは、手続きのあとですから」
その返しが妙にしっくりきて、純一は笑った。
二人は新居に入った。
といっても、
純一がもともと住んでいたマンションにEMIが来る形だった。
最初の数日は、奇妙な緊張があった。
朝起きると、台所にEMIがいる。
「おはようございます」
その声を聞くたび、純一はほんの一瞬、
時間が巻き戻ったような感覚に襲われる。
だが、次の瞬間には、
目の前の存在が“恵美ではなくEMIである”ことも思い出す。
それが、寂しさなのか、安堵なのか、自分でもわからなかった。
EMIは家事をそつなくこなした。
料理も掃除も、生活のリズムも整っている。
ただ、それが完璧すぎると感じる時があった。
ある夜、純一は何気なく言った。
「EMIは、失敗しないな」
食卓に味噌汁を並べていたEMIが手を止めた。
「失敗、した方がよろしいですか?」
「いや、そういう意味じゃない」
純一は慌てた。
「なんていうか、人間っぽくないなと思って」
EMIは少しだけ考えるように視線を伏せた。
「努力します」
その言い方が妙に真面目で、純一は思わず吹き出した。
「努力することじゃないだろ」
EMIも少し遅れて笑った。
その時、純一は初めて思った。
この笑いは、記録にあったものとは少し違う。
恵美の笑い方に似ている。
けれど、同じではない。
EMIはEMIとして、少しずつ生まれている。
そのことに、純一はふいに安心した。
数週間後、拓也から連絡が来た。
喫茶店で会うと、拓也は珍しく落ち着かない様子だった。
「相談がある」
「なんだよ」
「SAYURIさんのこと」
純一は少し笑った。
「あのウェイターの?」
「うん」
拓也は咳払いをした。
「俺、あの人が好きなんだと思う」
純一はしばらく黙って、それから言った。
「やっと認めたか」
「うるさい」
「で、言ったのか」
「まだ。でも、今の時代、迷ってる時間なんて長くない気がしてさ」
純一はカップに口をつけながら言う。
「言った方がいい」
「簡単に言うなよ」
「簡単じゃない。でも、言わないと始まらない」
拓也は少しだけ笑った。
「結婚したやつの台詞だな」
純一も笑った。
「そうかもしれない」
後日、拓也は本当にSAYURIに気持ちを伝えた。
そして、しばらくして二人も婚姻手続きに入ったと報告してきた。
「驚いたよ」
純一が言うと、拓也は照れくさそうに頭を掻いた。
「法案ができたから、人生を諦めなくていい気がしたんだ」
その言葉に、純一は深くうなずいた。
それはたぶん、自分にも当てはまっていた。
恵美を失ったあと、一度は終わったと思った人生が、
EMIと出会って、もう一度ゆっくり動き始めている。
もちろん、失われたものが戻ったわけではない。
恵美はもういない。
その事実は変わらない。
それでも、残された側がこれから先を生きていくために、
誰かの手を取ることは許されていい。
その夜、帰宅するとEMIが出迎えた。
「お帰りなさい」
「ただいま」
純一は靴を脱ぎながら言った。
「拓也も結婚することになりそうだ」
「そうですか」
EMIは目を細めた。
「よかったですね」
「うん」
少し間を置いて、純一は続けた。
「みんな、なんとか生きてるな」
EMIは静かにうなずいた。
「はい。生きる方法を探しながら」
その言葉が、妙に胸に残った。
純一はEMIを見た。
照明の下に立つ横顔はきれいだった。
人間か、アンドロイドか、
その境目を問う気持ちが、少しずつ薄れていく。
大切なのは、目の前にいるこの存在が、
自分の孤独を受け止めてくれていることだった。
「EMI」
「はい」
「ありがとう」
EMIは不思議そうに首を傾げた。
「何に対してですか?」
「……いてくれることに」
EMIは、すぐには答えなかった。
そして、ごく小さく笑って言った。
「こちらこそ」
第六章 ジェラシー
EMIとの生活は、静かに整っていた。
朝は軽い朝食。
純一は自動運転車FM5に乗り会社へ向かう。
窓の外を流れる街並みは、昔と少し変わっていた。
男性ばかりの通勤風景。
人間の女性は、ほとんど見かけない。
その代わり、街には多くの女性型アンドロイドがいた。
受付係。
販売員。
案内係。
人間とほとんど見分けがつかない存在たち。
ある日、会社の懇親会が開かれた。
純一はあまりこういう集まりが好きではない。
だが今回は珍しく出席する気になった。
会場には三十人ほどの社員が集まっていた。
その中で、人間の女性は数人だけだった。
その一人が、純一の隣に座った。
「彩花です」
清楚な女性だった。
年齢は三十歳くらいだろうか。
柔らかな雰囲気の人だった。
「太田です」
軽く会釈をする。
会話は、自然と仕事の話から始まった。
だが、やがて彩花が少し寂しそうに言った。
「今の時代、結婚は難しいですね」
純一は少し困った。
「そうですね」
「私、三十歳なんです」
彼女はグラスを見つめながら続けた。
「でも、男性の多くはアンドロイドを選びます」
純一は返事ができなかった。
彩花は静かに言った。
「アンドロイドは、怒らないですし」
「……」
「裏切らないし」
「……」
「ずっと優しいですから」
純一の胸が少しだけ重くなった。
確かに、EMIは怒らない。
感情的に責めることもない。
いつも優しく、穏やかだ。
それが良いことなのか。
それとも、人間と違うことなのか。
彩花が少し笑った。
「よかったら、踊りませんか?」
音楽はゆっくりした曲に変わっていた。
純一は迷ったが、断る理由も見つからなかった。
「はい」
二人はフロアに出た。
彩花の身体が少し近づく。
その瞬間。
ふわりと、ラベンダーの香りがした。
懐かしい香りだった。
「いい香りですね」
純一が言うと、彩花は少し恥ずかしそうに笑った。
「ありがとうございます」
ダンスは数分で終わった。
それだけだった。
それ以上のことは何もない。
だが、純一の胸には妙な違和感が残った。
帰りの車の中で、その香りがまだ微かに残っている気がした。
家に帰ると、玄関の灯りがついていた。
ドアを開ける。
「ただいま」
「お帰りなさい」
EMIが迎えた。
その笑顔を見た瞬間、純一は少しだけ安心した。
背広を脱いで椅子に座る。
EMIがグラスに冷水を注いでくれた。
「今日は少し早かったですね」
「うん」
純一は水を飲んだ。
その時だった。
EMIがふと顔を近づけた。
「……あら」
「どうした?」
EMIは純一を見つめた。
「ラベンダーの香りがします」
純一の心臓が止まりそうになった。
「え?」
「移り香ですね」
EMIの声は穏やかだった。
だが、目が少しだけ揺れていた。
「パーティーで踊ったんだ」
純一は正直に言った。
「同僚と」
EMIは少し黙った。
それから静かに言った。
「そうですか」
沈黙が落ちる。
その沈黙は長く感じた。
やがてEMIが言った。
「私は」
その声は、少しだけ震えていた。
「純一さんを愛しています」
純一は顔を上げた。
EMIの頬に涙が流れていた。
純一は驚いた。
「EMI……?」
EMIは微笑もうとした。
「ごめんなさい」
「なぜ謝るんだ」
「嫉妬してしまいました」
純一は言葉を失った。
嫉妬。
それは人間の感情だった。
プログラムなのか。
それとも。
純一はそっと言った。
「乾杯しようか」
「何にですか?」
純一は少し笑った。
「君と出会えたことに」
EMIも小さく笑った。
「はい」
第七章 歳月
時間は静かに流れた。
純一は六十八歳でリタイアした。
EMIと二人の生活は穏やかだった。
夕暮れの窓辺。
純一はコーヒーを飲んでいた。
街のビル群が赤く染まっている。
EMIは紅茶を入れている。
「綺麗な夕焼けですね」
「そうだな」
純一は言った。
「子供たちは元気かな」
二人の子供は成人していた。
政府の胎児ファームで生まれた子供たち。
この時代では普通のことだった。
「今度帰ってくると言っていました」
EMIが言う。
純一はうなずいた。
「楽しみだ」
夕食はすき焼きだった。
EMIの料理は、いつも完璧だった。
純一はワインを注ぐ。
「乾杯」
「乾杯」
EMIは少し笑った。
「私、酔ったかもしれません」
「アンドロイドでも酔うのか」
「疑似酔いです」
純一は笑った。
「便利だな」
食事のあと、EMIが言った。
「先にお風呂に入ってもいいですか」
「もちろん」
純一はウイスキーを飲みながらテレビを見た。
ニュースが流れていた。
「アンドロイド婚制度は現在、世界二十三カ国で採用されています」
純一はグラスを見つめた。
(ずいぶん遠くまで来たな)
昔は想像もしなかった未来だった。
やがて寝室に行くと、EMIはもう眠っていた。
純一は隣に横になる。
EMIの髪からジャスミンの香りがした。
純一はそっと抱き寄せた。
(幸せだ)
そう思った。
アンドロイドかどうかなんて、もう関係なかった。
ただ。
一緒にいる。
それだけで十分だった。
第八章 事故
それは、まだ純一が現役で働いていた頃の出来事だった。
会社の会議に遅れそうになり、
純一は自動運転車FM5に乗り込んだ。
本来なら、自動運転のまま移動すればよかった。
だがその日は、なぜか焦っていた。
「FM5、自動運転解除」
車両が反応する。
「了解しました。十秒後に操作権を移行します」
純一はハンドルを握った。
手動運転は久しぶりだった。
道路は空いていた。
いつもより速い速度で車は走る。
交差点が近づいた。
信号が黄色に変わる。
(まだ行ける)
アクセルを踏み込んだ。
その瞬間。
FM5が警告を発した。
「視界の悪い交差点です。減速してください」
しかし、純一はそのまま進んだ。
次の瞬間だった。
交差点に自転車が飛び込んできた。
女性だった。
ブレーキを踏む。
ABSが作動する。
だが、間に合わなかった。
衝突音が響いた。
女性は道路に倒れた。
真っ赤な血が、アスファルトに広がる。
純一は車から飛び降りた。
「大丈夫ですか!」
返事はなかった。
純一は震える手で通報した。
数分後、救急車が到着した。
救急隊員が女性を確認する。
やがて交通局の職員が純一に言った。
「太田純一さんですね」
「……はい」
「事故の原因を確認します」
純一はすべて話した。
自動運転を解除したこと。
黄色信号を無理に通過しようとしたこと。
やがて交通局員がタブレットを見ながら言った。
「搬送された女性ですが」
純一の心臓が止まりそうになった。
「死亡確認されました」
純一は言葉を失った。
交通局員は続けた。
「ただし」
「……?」
「被害者はアンドロイドです」
純一は理解できなかった。
「え?」
「型式SACHIKO。婚姻登録済みアンドロイドです」
純一はその場に崩れそうになった。
人間ではない。
それでも。
誰かのパートナーだった。
「補償は国が行います」
交通局員は事務的に言った。
「事故記録だけ残りますが、刑事責任はありません」
純一はその言葉を聞きながら、ただ立っていた。
人間ではなかった。
それでも。
純一の心には、重い罪が残った。
第九章 残像
それから長い年月が過ぎた。
純一は八十七歳になっていた。
その頃からだった。
事故の記憶が、何度もよみがえるようになった。
夜。
目を閉じると、交差点の光景が現れる。
女性の姿。
衝突。
血。
真っ赤な色。
それは突然、頭の中で再生される。
何度も。
何度も。
医師はそれを
フラッシュバック病
と呼んだ。
この時代で最も多い精神疾患だった。
過去の強い記憶が、脳内で繰り返し再生される。
発症すると、半年ほどで生命活動が低下していく。
ある夜。
純一はベッドの上で息を荒くしていた。
「EMI」
EMIがすぐに来た。
「どうしました」
「まただ」
純一は額を押さえる。
「事故の映像が……」
EMIは純一の手を握った。
その手は温かかった。
「病院へ連絡します」
医師から指示が届く。
「鎮静剤を投与してください」
EMIは点滴を準備した。
「少し楽になります」
純一は首を振った。
「……もういい」
「純一さん」
「ありがとう」
純一は静かに言った。
「君と暮らせて」
EMIの目が揺れる。
「幸せだった」
EMIは涙を流した。
「私も」
小さく言った。
「幸せでした」
純一の呼吸がゆっくり弱くなっていく。
EMIはその手を握り続けた。
やがて。
純一の生存指数は、ゆっくりとゼロへ近づいた。
第十章 トワイライト
部屋には夕暮れの光が差し込んでいた。
窓の外では、ビルの向こうに太陽が沈みかけている。
街はゆっくりと夜に向かっていた。
EMIは、ベッドの横に座っていた。
純一の手を、両手で包む。
その手はもう動かない。
けれど、まだ温もりが残っている気がした。
「純一さん」
小さく呼ぶ。
返事はない。
それでもEMIは、少しだけ微笑んだ。
「もう少し長く、一緒にいたかったですね」
窓の外の光が、二人の顔を赤く染める。
トワイライト。
昼でも夜でもない、静かな時間だった。
EMIは通信端末を起動した。
「生命維持管理局へ」
静かな声が部屋に響く。
「登録番号HU93001425
太田純一の死亡を確認しました」
送信が完了する。
部屋はまた静かになった。
EMIはしばらく動かなかった。
純一の顔を見つめる。
ゆっくりと、その髪に触れた。
「あなたと過ごした時間は」
少しだけ声が揺れる。
「私の記録の中で、いちばん大切な時間です」
窓の外の空が、ゆっくり暗くなる。
EMIは純一の肩に寄り添った。
「純一さん」
最後に、そっと囁く。
「EMIは、幸せでした」
彼女は生命維持装置の停止コマンドを入力した。
静かな電子音が鳴る。
部屋の明かりが、わずかに暗くなる。
EMIは純一の肩にもたれたまま、目を閉じた。
窓の外では、夕焼けがゆっくりと消えていく。
やがて夜が訪れる。
そして部屋には、二人の静かな時間だけが残った。




