[短編版・改稿版]婚約破棄された気弱令嬢リリエラ・ライムブリュレは、選ばれるのをやめました 〜冷酷公爵は静かに立候補する〜
夜会というものは、つねに誰かの不幸を美しく飾り立てる場所だとリリエラは思っていた。
シャンデリアの光は等しく降り注ぐ。
けれどその下に立つ人間を、等しく照らしてはくれない。
「リリエラ・ライムブリュレ嬢」
アルフォンス・ミルフィーユ王太子の声が、ホールに響いた。
よく通る洗練された声だった。
けれどリリエラには、その声が会場全体へ向けられていることがすぐにわかった。
彼女に話しかけているのではない。
彼女を、見せているのだ。
「君との婚約を、本日をもって解消する」
周囲がざわめく。
扇が揺れる。
視線が集まる——全部、リリエラへ。
リリエラは笑顔を保ったまま、爪が手のひらに食い込むのを感じていた。
わかっていた。
‥薄々、わかっていた。
隣に立つ令嬢——ベリーナ・パンナコッタ侯爵令嬢——が王太子の腕に触れている。
その手が誇らしげに見えた。
おめでとう、と心の中で思った。
本当に思った。
この人が幸せになるなら、きっとそれでいい。
問題は——
私は、どこへ行けばいいのだろう。
「ライムブリュレ嬢、何か言うことは?」
王太子が言った。
答えを求めているのではないとわかっていた。
静かに頷いて「承知いたしました」と言えば、それで終わる。
今夜はそういう夜だとわかっていた。
リリエラは口を開いた。
閉じた。
また開いた。
「……私も」
声が震えていた。会場がしんと静まる。
「……私も、選びたいです」
小さな声だった。
自分でも驚くくらい小さな声だったけれど、会場には聞こえてしまった。
シャンデリアの下では、小さな音ほどよく響く。
アルフォンス王太子が眉を上げた。
「ほう‥選ぶ、とは?」
「……婚約を、解消していただくことに、異存はございません」
リリエラは続けた。震えながら続けた。
「ただ——次は、私が選びたいと思います。選ばれるのではなく」
沈黙。
それから、くすくすと笑いが漏れた。
どこからかはわからない。いくつかの方向から。
やはり変なことを言ったのだろう。
おかしいと思われたのだろう。
頬が熱かった。視線が痛かった。逃げてしまいたかった。
けれどリリエラは顔を上げたまま——震えながら、顔を上げたまま、その場に立っていた。
「……面白いことを言う」
低い声が、斜め後ろから聞こえた。
リリエラは振り向かなかった。
振り向く勇気がなかった。
けれどその声は続いた。
「彼女は物ではない」
静かな声だった。怒鳴っていない。
けれど会場の笑いが、すうっと消えた。
振り向いてはいけない、とリリエラは思った。
理由はない、ただそう思った。
振り向いたら、何かが変わる気がした。今夜だけでも変化は十分だった。
婚約を失って、笑われて、知らない声に助けられて——それだけで、もう十分すぎた。
「ショコラオランジュ公爵」
アルフォンス王太子の声が、わずかに硬くなった。
公爵。
リリエラはその名を、頭の中で繰り返した。
レオンハルト・ショコラオランジュ。
王家に次ぐ位を持つ大公爵家の当主。社交の場には滅多に現れないと聞いていた。
顔を見たこともなかった。
「久しいな、ミルフィーユ殿下」
足音がした。
ゆっくりとした足音だった。
急いでいない。けれど止まらない。その足音がリリエラのすぐ隣に来たとき——
「……っ」
視界の端に、深い紺青の燕尾服が入った。
男性はリリエラと王太子の間に、ごく自然に立った。
誰かを庇うような大げさな動作ではない。
ただ、立った。
そこに立つのが当然のように。
「場を盛り上げるご趣味は昔からでしたが」
声は相変わらず低く、静かだった。
「他者の尊厳を余興にするのは、いただけない」
王太子が笑った。
笑ったが、目が笑っていないことをリリエラは見逃さなかった。
人の表情を読むことだけは、長年の訓練で得意だった。
「公爵こそ、なぜこのような場に。あなたはこういった夜会はお嫌いでしょう」
「用があったので」
短い答えだった。
それ以上の説明はなかった。
王太子がさらに何か言おうとした——その前に、公爵がリリエラの方を向いた。
初めて、正面から顔を見た。
切れ長の目。感情が読みにくい顔。
けれどその目が、真っ直ぐリリエラを見ていた。
値踏みではなく。品定めでもなく。
ただ——見ていた。
「先ほどの言葉」
公爵が言った。
「選びたい、と言ったな」
「……はい」
「よかった」
それだけだった。
よかった、の意味をリリエラは問い返せなかった。問い返す間もなく、公爵は王太子へ視線を戻していた。
「殿下、今夜はこのあたりで。続きはまた別の機会に」
有無を言わせない言い方だった。
けれど怒鳴っていない。命令でもない。それなのに王太子は——わずかに口を引き結んで、踵を返した。
その背中を見ながら、リリエラはようやく息を吐いた。
知らない間に、ずっと息を詰めていた。
「……あの」
気づいたら、声が出ていた。
公爵が振り向く。
「……なぜ、助けてくださったのですか」
我ながら間の抜けた質問だと思った。けれど聞かずにはいられなかった。この人とリリエラには接点がない。利害もない。名前を知っていたくらいで、今夜が初対面に等しい。
公爵はすこし沈黙してから、言った。
「面白かったから」
「……は?」
「震えながら、ああいうことを言える人間はなかなかいない」
それは褒め言葉なのだろうか。リリエラには判断できなかった。
公爵はわずかに目を細めた。笑ったのかもしれない。よくわからなかった。
「ライムブリュレ嬢」
「……はい」
「今夜は、よく立っていた」
それだけ言って、公爵は歩き去った。
人混みに消えるまで、リリエラはその背中を目で追っていた。
追いながら、自分の心臓が——さっきとは別の理由で、うるさく鳴っていることに、まだ気づいていなかった。
手紙は朝食の前に届いた。
使用人がそっとテーブルに置いたとき、リリエラはまだ昨夜の夢と現実の境目にいた。
眠れなかったわけではない。
眠りが浅かっただけだ。
夢の中でも、ずっと誰かの視線を感じていた。
封蝋を見て、手が止まった。
深い青。押された紋章は見覚えがない。けれど脇に添えられた家名の略章で、すぐにわかった。
ショコラオランジュ家。
「……なぜ」
声に出てしまった。
侍女のマリアが小首を傾げる。リリエラは「なんでもない」と首を振って、手紙を開いた。
便箋は一枚だった。
書かれていたのは、一行だけだった。
明日の午後、時間があれば。——L
以上だった。
場所も、時間も、目的も、書いていない。
リリエラはその一行を三度読んだ。三度読んでも、情報量は変わらなかった。
「奥様にご報告しなくてよいのですか」
マリアが恐る恐る聞いた。
リリエラは少し考えた。
母に見せれば、大騒ぎになる。昨夜の婚約破棄でなくとも——公爵家からの手紙となれば、家中が動く。父は損得を計算し始め、母は令嬢としての身だしなみを確認し始め、リリエラの意思は三段階目以降に後回しになる。
いつもそうだった。
「……少しだけ、待ってもらえる?」
マリアは黙って頷いた。この侍女は、余計なことを言わない。それがリリエラには、ありがたかった。
手紙をもう一度見た。
明日の午後、時間があれば。
「時間があれば」というのが、気になった。
来い、ではない。待っている、でもない。「あれば」という、ひどく軽い言い方。断ることを、最初から許している言い方。
断ってもいい、ということだろうか。
リリエラは昨夜の公爵の顔を思い出した。感情の読みにくい顔。切れ長の目。それなのに、真っ直ぐこちらを見ていた目。
「よく立っていた」
声まで思い出してしまった。
低くて、静かで、褒め慣れていない人間の言い方だと思った。褒め慣れている人間は、もっと滑らかに言う。もっと型通りに言う。
あの言い方は——型通りではなかった。
だから、困る。
リリエラはため息をついた。
昨夜から、困ることばかりだった。婚約を失ったこと。震えながら変なことを言ったこと。見知らぬ公爵に助けられたこと。そしてその公爵が、翌朝に何も説明しない手紙を寄越したこと。
困ることは、ぜんぶ——
なぜか、悪い気がしない。
「……マリア」
「はい」
「返事を書きます。便箋を」
「……奥様には?」
「行ってから報告します」
マリアがかすかに目を丸くした。それからすぐに、何も言わずに便箋を取りに行った。
リリエラはペンを持った。
何を書くか、少し迷った。
迷って——短く書いた。
明日の午後、伺います。——R
一行だけ。
相手に倣った。
封をしながら、リリエラは自分が少しだけ——ほんの少しだけ——笑っていることに気づいた。
婚約を失った翌朝に笑うなんて、おかしいと思った。
でも、笑っていた。
ショコラオランジュ公爵邸は、街の中心からすこし外れた場所にあった。
馬車の窓から見えた門は、飾り気がなかった。権威を誇示するような彫刻も、威圧するような高さもない。ただ、静かに、そこにあった。
公爵家にしては、随分と。
思いかけて、リリエラは自分を止めた。
門構えで人を測るような真似はしたくなかった。
婚約者だった王太子の宮殿は豪奢で煌びやかで——中身は、知っての通りだった。
案内された応接室も、質素だった。
質素、というより——余分がない、という方が正しいかもしれない。
置かれているものはどれも上質だったが、必要以上に多くなかった。広い室内に、ソファと低いテーブルと、暖炉。
それだけだった。
リリエラは背筋を伸ばして座った。
五分ほど待ったとき、扉が開いた。
「来てくれた」
開口一番、それだった。
挨拶でも、着席の促しでも、天気の話でもなかった。
ただ——来てくれた、という、確認とも安堵ともとれる一言。
公爵はリリエラの向かいに座った。
昨夜と同じく、静かな所作だった。
「……呼んでおいて失礼ですが」
公爵は言った。
「目的を、まだ話していなかった」
「……存じております」
「怖くなかったか」
真っ直ぐな問いだった。
リリエラは少し迷って、正直に答えた。
「……少し」
「それでも来た、か」
「手紙を書いた後で怖くなりました。順番が逆でした」
公爵がかすかに目を細めた。昨夜も見た表情だった。笑っているのかもしれない、とリリエラは思った。確信は持てなかった。
「話があります」
公爵は続けた。
「昨夜のことを、正式に詫びたかった。私が口を挟んだことで、あなたの状況が複雑になった可能性がある」
「……いいえ」
「いいえ?」
「助かりました」
リリエラは言った。
「でなければ、あの場でどうしていたか、わかりません」
「震えていた」
「……見えていましたか」
「見えていた」
隠せていなかった、と思って恥ずかしくなった。けれど公爵は責めるような顔をしていなかった。
ただ、そう言った。事実として。
「それでも言えた。大したことだと思った」
「……大したことでは、ないと思います」
「なぜ」
「震えながら言っても、意味が伝わらなければ」
「伝わった」
公爵は短く言った。
「少なくとも私には」
リリエラは黙った。返す言葉が、すぐに出てこなかった。
暖炉が小さく鳴った。
沈黙が、不思議と苦しくなかった。この人との沈黙は、埋めなければならない種類のものではない気がした。
「もうひとつ、話があります」
公爵が言った。
「……はい」
「私は、あなたに申し込みたいと思っている」
リリエラは一瞬、言葉の意味を処理できなかった。
「……もうしこ、み?」
「婚約の申し込みです」
部屋の温度が変わった気がした。暖炉は同じ温度で燃えているはずなのに。
「……なぜ」
昨夜も同じことを聞いた気がした。
公爵はすこし考えてから、答えた。
「昨夜、あなたは言った。次は選びたいと。私はその言葉を聞いて——」
短い間があった。
「初めて、選ばれたいと思った」
リリエラは何も言えなかった。
何も言えないまま、公爵の次の言葉を待った。
「ただ」
公爵は続けた。
「返事は急がない。今日でなくていい、来月でなくていい」
「……」
「あなたが選ぶのであれば——私は、待てる」
静かな声だった。
圧がなかった。
迫ってこなかった。
ただそこに、揺るがない確かさとして、あった。
リリエラは自分の手を見た。
膝の上で、指が少し震えていた。
昨夜とは違う震えだった。
怖いのではない、とわかった。
ではなんなのか——まだ、わからなかった。
「……すぐには」
リリエラはようやく言った。
「すぐには、お答えできません」
「わかった」
「……怒りませんか」
「なぜ怒る」
「普通は‥」
「私は普通ではないかもしれない」
また、目が細くなった。
今度こそ笑っているのだと思った。
リリエラは小さく息を吸った。
「……考えます。時間をいただけますか」
「いくらでも」
その一言が、不思議なほど重くなかった。
軽くもなかった。
ただ——本当のことを言っている人間の、声だった。
帰り道、馬車の中でリリエラはずっと窓の外を見ていた。
選ばれたいと思った。
その言葉が、頭の中で何度も繰り返された。
「私なんて」と思いかけて——
なぜそう思うのだろう、と、初めて疑問に思った。
それから一週間、公爵からは何も来なかった。
手紙もない。
使者もない。
鉢合わせるような偶然もない。
リリエラは最初、待っていた。
が、次第に待っていないことにした。
待っていない、と決めたら——やけに、意識するようになってしまう。
今日も来ない、と思うたびに、来なくて当然だと思い直した。
あの人は待てると言った。
待っているのだから、急かすはずがない。
それはわかっている。
わかっているのに——
「お嬢様」
マリアが声をかけた。
「今日のお茶はいつもより濃くなっております」
リリエラは自分のカップを見た。確かに、色が濃かった。
「……少し上の空でした」
「何かお考えでしたか」
「……べつに」
マリアはそれ以上聞かなかった。
ただ、お湯を少し足してくれた。
社交の場では、何度か話題に出た。
婚約破棄されたライムブリュレ嬢のこと。
ショコラオランジュ公爵が庇ったこと。
それについて、貴族社会の舌はよく動いた。
「あの令嬢、よほど公爵に気に入られたのかしら」
「公爵家に収まれたら、御の字ではなくて?」
「でも気弱な子でしょう。王太子妃にもなれなかったくらいだし」
震えながらでも言える、と、あの人は言った。
それは気弱なのだろうか。
震えていることと、弱いことは——同じなのだろうか。
答えはまだ出ない。
けれど、問いが生まれたこと自体が、何か変わったことの証だとリリエラは思った。
その日の帰り道、馬車がいつもと違う通りを通った。
ふと、目が止まった。
店先に積まれた本の中に、帳簿管理の専門書が見えた。
王都では品薄で、もう半年近く探していた本だった。
「……少し、止めてもらえますか」
馬車を降りた。
店に入った。本を手に取った。
そこまでは、よかった。
問題は——
店を出たとき、道の向かいにショコラオランジュ公爵が立っていたことだった。
しかも、リリエラに気づいていなかった。
何かの建物を見上げていた。考え事をしているような顔だった。
リリエラは一瞬、そのまま馬車に戻ることもできると思った。
思って——
「……公爵」
呼んでいた。
公爵が振り向いた。リリエラを見つけて、一拍の間があった。
「……偶然だな」
「はい、私も今偶然に」
「本を買ったのか」
「あ、はい。ずっと探していたものが」
「そうか」
会話が止まった。
止まったが——おかしくなかった。
この人との沈黙はいつも、苦しくない。
「……お時間は、ありますか」
気づいたら、聞いていた。
公爵がこちらを見る。
「あの近くに喫茶があります。もし……よろしければ」
誘っているのは、自分だった。
一週間前まで、こんなことは言えなかった。言おうとしたことすら、なかった。
公爵はすこし目を細めた。
「それは光栄だ」
その一言が——随分と、温かく聞こえた。
夜、眠れなかった。
眠れない理由は、わかっていた。
わかっているのに、認めたくなかった。
認めてしまったら、何かが変わってしまう気がした。
変わることが——怖かった。
リリエラは天井を見つめた。
暗い天井だった。
何もない。それなのに、そこに誰かの顔が浮かんだ。
切れ長の目。感情の読みにくい顔。
でも言葉は、いつも真っ直ぐだった。
選んでほしいのだ。
また、その聞こえた。
頭の中で、何度も繰り返す。
この一週間、ずっとそうだった。
帳簿を見ているときも、食事をしているときも、眠ろうとしているときも——ふとした拍子に、あの声が戻ってくる。
これは、何だろう。
リリエラは自分の胸に手を当てた。
何か、がある。
暖かいような、苦しいような、落ち着かないような——うまく言えない何かが、ここにある。
名前をつけようとした。
これは——
「……」
言葉が、出てこなかった。
出てこない、のではなく——出てきた言葉を、自分で止めていた。
怖かった。
名前をつけたら、本物になる。
本物になったら、どうすればいいかわからない。
こんなことは、初めてだった。
王太子との婚約期間中、こんな感覚は一度も——
一度も、なかった。
それに気づいて、リリエラは少し驚いた。
二年間、婚約者だった。それなのに、一度もこんな気持ちにならなかった。
胸に手を当てたまま、目を閉じた。
その日はあまり眠れなかった。
翌日、マリアが不思議そうな顔で聞いた。
「お嬢様、今日は随分とぼんやりされていますが」
「……そうかしら」
「三度、同じ帳簿のページをめくっておいでです」
リリエラは手元を見た。確かにそうだった。
「……少し、考えごとをしていて」
「どのような」
「……」
マリアを見た。
この侍女は、余計なことを言わない。
聞いても、どこにも話さない。
そういう人だと、長い時間をかけて知っていた。
「……マリアは、恋をしたことがある?」
マリアが少し目を丸くした。
「……ございます。昔」
「どんな感じだった」
マリアは少し考えた。
「怖かったです」
「怖い?」
「はい。楽しいとか嬉しいとか、そういうことより先に——怖かったです。この人のことを好きなのかもしれない、と思ったとき」
「……なぜ怖いの」
「叶わないかもしれないから、だと思います。大事にしたいから、怖い、というか」
リリエラは黙った。
「……そういうものなのね」
「お嬢様は」
「……まだ、わからない」
わからない、と言いながら——少し、わかっていた。
名前をつけることが怖いのは——大事にしたいからかもしれない。この気持ちを、雑に扱いたくないから。
震えながらでも言える、とあの人は言った。
でも——これは。
これは、もう少し時間がかかると思う。
その日の夕方、来客があった。
ショコラオランジュ家の使用人だった。
小さな箱を持ってきた。
「公爵より、ライムブリュレ嬢へ」
箱を開けると、小さな手帳が入っていた。
革装丁の、上質な手帳。
中には何も書いていない。白紙だった。
一枚の紙が添えてあった。
帳簿管理にご不便があれば。
使い道は自由に。——L
二行だった。
リリエラは手帳を手の中で持った。
軽く、小さかった。
でも、革の質が良くて、手になじんだ。
リリエラは手帳を胸に当てた。
怖かった。
でも——悪くない怖さだった。
雨が降り始めたのは、昼過ぎだった。
朝は晴れていた。
出かけるとき、リリエラは傘を持たなかった。
王都の商業区に用があった。
ライムブリュレ家が取引している商会への書類の受け渡しで、大した時間はかからないはずだった。
ところが商会での話し合いが長引いた。
先方の帳簿に疑問点が出て、リリエラが指摘したら、
先方の担当者が顔色を変えて、確認に時間がかかった。
終わった頃には、外は本降りになっていた。
「馬車をお呼びします」と商会の者が言ったが、今日は馬車を使っていなかった。
天気が良かったから、歩きで来た。
「傘をお貸しします」
「ありがとうございます」
借りた傘を差して外に出た。
雨の王都は、静かだ。
人が少なくて、石畳が濡れて光っていた。
悪くない景色だ、とリリエラは思いながら歩いた。
三分ほど歩いたところで、雨が更に強くなった。
傘は小さかった。肩が濡れ始めた。
軒下で少し待とうかと考えたとき——
「ライムブリュレ嬢」
声がした。
振り向いた。
黒い馬車が、道沿いに止まっていた。
扉が開いていて、中から公爵が顔を出していた。
「乗りなさい」
「……公爵?なぜここに」
「商会の近くに用があった。通りかかったら、見覚えのある人間が雨に濡れていた」
リリエラは少し考えた。
馬車に乗るべきか、断るべきか。
断る理由がなかった。
「……お邪魔します」
乗り込んだ。
馬車の中は静かだった。雨の音が屋根を叩いていた。
公爵がリリエラの肩を見た。
「濡れたか?」
「少し」
「風邪をひくぞ」
「丈夫なので」
「丈夫でも、風邪はひく」
馬車の中の小さな収納から、折りたたんだ布を出してきた。膝掛けだった。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
受け取り膝の上に乗せた。
温かかった。
しばらく、ふたりとも黙っていた。
雨の音だけが続いていた。
「ライムブリュレ嬢」
「はい」
「最近、よく眠れているか」
唐突な問いだった。
リリエラは少し驚いて、つい、正直に答えた。
「……実はあまり」
「そうか」
「……なぜ聞くのですか」
「顔色が、先週より少し悪い」
「……よく見ていますね」
「見ているさ」
あっさり言った。
隠すつもりがない言い方だった。
見ている、と。それだけのことだ、というように。
リリエラは膝掛けを少し引き上げた。
顔が熱かった。雨で冷えた体に、温かい布と——温かい、なんと言えばいいかわからない何かが、重なった。
「……公爵」
「なんだ」
「私は今、少し——」
言いかけた。
怖い、と言おうとした。
この気持ちに名前をつけることが怖い、と言おうとした。
でも——
「……いいえ、なんでもないです」
まだ、言えなかった。
公爵は追わなかった。
「そうか」とだけ言って、窓の外を見た。
雨はまだ続いていた。
馬車は静かに、ふたりを乗せて走っていた。
ライムブリュレ邸が近づいたとき、公爵が言った。
「眠れない夜は——」
リリエラは顔を上げた。
「あの手帳に、何か書くといい」
「……手帳に」
「言えないことも、書けることがある」
それだけ言った。
馬車が止まった。
リリエラは降りながら、振り返った。
「……ありがとうございました」
「ああ、気をつけて」
扉が閉まった。
馬車が走り去るのを、リリエラは雨の中で見送った。
借りた膝掛けを、まだ手に持っていた。
返しそびれた、と気づいた。
でも——少しだけ、返したくなかった。
部屋に戻って、机の引き出しを開けた。
革の手帳を取り出した。
白紙のページを開いて、ペンを持った。
しばらく迷った。
それから——一言だけ書いた。
怖い。でも、嫌いじゃない。
書いたら、少しだけ眠れる気がした。
招待状が来たのは、三日後だった。
王太子主催の小さな夜会。
出席者は限られた顔ぶれで、リリエラの名前もそこにあった。
「行かなくていいのでは」
マリアが、珍しくはっきりと言った。
「……行きます」
「なぜ」
「逃げたくないので」
マリアは何も言わなかった。
ただ、今夜一番の礼装を出してきた。
夜会は王宮の小ホールで開かれた。
煌びやかだった。
シャンデリアが光を散らして、人々の衣装を照らしていた。
リリエラは入り口で一度だけ深呼吸して、中へ入った。
人垣をいくつかかわしながら、飲み物を受け取った。
「来てくれた」
振り向かなくても、声でわかった。
「殿下」
アルフォンスは今夜、よく整った顔をしていた。
礼装も完璧だった。完璧すぎて——何かを隠しているように見えた。
「少し話せるか」
また、その言葉だった。
今夜もそのつもりで来た。
リリエラは頷いた。
窓際の人の少ない場所へ移動した。
アルフォンスはしばらく、庭の暗がりを見ていた。
話し始めるまでに、間があった。
それがいつもと違った。いつもはすぐに話し始める人だった。
「リリエラ嬢」
「はい」
「私は‥」
また、止まった。
リリエラは待った。
「私は‥君を軽く見ていたと思う」
静かな声だった。
いつもの、よく通る声ではなかった。
少し——絞り出すような声だった。
「婚約期間中、君が何を考えているか、考えたことがなかった。君が何も言わないから、何も考えていないと思っていた」
「……」
「それは、傲慢だった」
リリエラは少し驚いた。
この人がこういうことを言うとは、思っていなかった。
謝罪の言葉は何度か来たが——それは体裁を整えるための言葉だった。今の声は、違った。
「……殿下」
「だから——もう一度、と言いたいわけではない」
アルフォンスが、リリエラを見た。
「君があの夜会で言ったこと。選びたい、と言ったこと。あれは——正しかったと思う」
リリエラは何も言えなかった。
「ショコラオランジュ公爵は、信頼できる男だ。私は好きではないが——信頼はできる」
「……」
「君を守れるのは私だけだ、と言おうとしていた」
「……はい」
「言えなかった。嘘になるから」
窓の外で、夜風が木の葉を揺らした。
リリエラはアルフォンスの横顔を見た。
脆いと思ってしまった。
体裁を重視する人間の内側は——案外、脆い。
鎧が重いほど、中身が心細い。
この人も——そういう人だったのかもしれない。
「殿下」
リリエラは言った。
「ありがとうございます」
「礼を言われることは、していない」
「本当のことを言ってくださったので」
アルフォンスが黙った。
しばらくして、小さく笑った。
自嘲のような笑いだった。
「君は——不思議な令嬢だな」
「よく言われます」
「……分かった、本当は圧力をかけてでも振り向いて欲しかったが‥無理そうだな」
アルフォンスは自嘲気味に告げた。
「幸せになれよ!」
それだけ言って、アルフォンスは歩き去った。
背中を見送りながら、リリエラは思った。
怒りはなかった。憐れみも、なかった。
ただ——終わった、と思った。
何かが終わった。
帰り道、馬車の中で手帳を出した。
暗くてよく見えなかったが、書いた。
終わった。
次を始める番だ。
手帳を閉じたとき、馬車が大きな通りに出た。
沿道の街灯が、窓から差し込んだ。
リリエラはそれを、少し眩しいと思った。
翌朝、手紙が来た。
公爵からだった。
今週の土曜日、時間があれば、領地の改善案について、意見を聞きたい。——L
三行だった。
少し増えた、とリリエラは思った。
最初は一行だった。二行になった。
今日は三行。
そう思ったら、なんだかおかしくなった。
声には出さなかったが、笑った。
「どうされましたか、」
マリアが不思議そうな顔をした。
「……なんでもない」
「最近、よく笑っておいでですね」
「そう?」
「ええ、以前より」
リリエラは少し考えた。
「……そうかもしれない」
土曜日、公爵邸を訪ねた。
今回は応接室ではなく、書斎に通された。
書斎は、公爵らしい部屋だった。
余分がなく、必要なものだけがある。
本棚は天井まであって、全部埋まっていた。
窓が大きくて、庭の緑が見えた。
「座ってくれ」
公爵は机の前に立っていた。
手に書類を持っていた。
リリエラは椅子に座った。
「先日の帳簿の件で、いくつか追加で確認したいことがある」
「はい」
「輸送ルートの変更について、現在の担当者が代替案を三つ出している。コスト面で見ると——」
公爵が書類をリリエラの前に置いた。
リリエラは数字を見た。
「……この二案目は、計算が合っていないと思います」
「どこがだ?」
「季節変動のコストが織り込まれていません。冬季の山越えルートは、通常期の一・四倍かかります。それを入れると、三案目の方が年間コストは低くなります」
公爵が書類を取り上げた。しばらく見た。
「……確かに。その通りだ」
「担当の方も、数字は合わせているつもりでいると思います。ただ変動費の扱いが——」
「わかった、修正させる」
公爵が椅子に座った。
リリエラと正面から向き合う形になった。
少し、近かった。
書斎は応接室より狭かった。
机を挟んでいても——応接室のソファの距離より、近い気がした。
「……他にも確認点はありますか」
「ある」
公爵が次の書類を出した。
リリエラは数字に集中しようとした。
集中——しようとした。
なぜか今日は、公爵の声が近く聞こえた。
書斎が狭いからだろうと思った。
窓から入る光の角度が、公爵の横顔を照らしていた。
横顔、が。
「……ライムブリュレ嬢」
「は、はひっ」
声が少し大きくなった。
公爵が僅かに眉を上げた。
「大丈夫か」
「……はい、失礼しました。続けてください」
「この収支表の——」
「はい」
「……ライムブリュレ嬢」
「はい」
「書類が、逆だ」
「……へ?」
手元を見た。
書類を逆さまに持っていた。
しかも気づかずに、数字を読もうとしていた。
「っ……」
リリエラは書類をそっと、正しい向きに持ち直した。
公爵は何も言わなかった。
ただ——口元が、確かに動いていた。
「わ、笑っていますか」
「笑っていない」
「笑っています」
「……少し」
少し、と認めた。
リリエラは恥ずかしくなって、書類に視線を落とした。
「集中していなかったのか」
「……していました」
「書類が逆でも?」
「……少し、ぼんやりしていました」
「何を考えていた」
聞かないでほしかった。
聞かないでほしかったが——この人は、待てる人だった。
待てるから、返事を強要しない。
「……横顔が」
言いかけた。
止まった。
言いかけたことに、自分で気づいた。
公爵がリリエラを見た。
「横顔が?」
「……な、なんでもないです」
「なんでもない、ではなさそうだが」
「なんでもないですっ」
「そうか」
引かなかったが、追わなかった。
リリエラは書類を、今度はちゃんと正しい向きで持った。
集中した。
今度は、ちゃんと集中した。
ただ——頬が、ずっと少し熱かった。
仕事が終わって、帰り際に公爵が言った。
「今日は助かった」
「いいえ」
「礼を受け取れ」
「……ありがとうございます」
「よろしい」
よろしい、と言った。まるで先生のようだった。
リリエラは少しおかしくなった。
「次も、頼んでいいか」
「……はい」
「楽しみにしている」
短かった。さらりと言った。
でも——楽しみにしている、という言葉は。
私も、そうだ、と思った。
言えなかった。
でも、そう思った。
ある日の午後、リリエラは再び公爵邸を訪ねた。
「よく来てくれた」
公爵が応接室に入ってきて、最初に言った言葉だった。
「……はい。お時間をいただいて、ありがとうございました」
「いくらでもと言った」
「はい」
リリエラは一度息を吸った。
震えていた。でも——もう、名前をつけることから逃げたくなかった。
「公爵」
「なんだ」
「私は——あなたのことを」
言葉を探した。正確な言葉を。自分の気持ちに嘘のない言葉を。
「私はあなたを、選びたいと思います」
公爵の目が、大きく動いた。
「……本当に?」
「はい。震えながらですが」
リリエラは続けた。
「でも、震えていても、この気持ちは変わりませんでした。何度考えても、何があっても——変わりませんでした」
公爵は静かに立ち上がった。リリエラの前まで来て、片膝をついた。そしてリリエラの手を取った。
「ありがとう」
低い声だった。震えていた。
この人も、震えていた。
「ありがとう、リリエラ」
初めて、名前で呼ばれた。
リリエラは気づいた。
震えることは、弱いことではなかった。
震えながらでも、大事なことは言える。
震えながらでも、選べる。震えながらでも——立っていられる。
「こちらこそ、ありがとうございます」
リリエラは言った。
「待っていてくださって」
「いくらでも待つと言った」
公爵がゆっくりと顔を上げた。
その目が、初めて見たときと同じように——いや、あのときよりもずっと温かく、リリエラを見ていた。
「選んでくれて、ありがとう」
窓から午後の光が差し込んでいた。
リリエラの手は、もう震えていなかった。
いや——震えていたかもしれない。でも、それでよかった。
震えながら選んだ。震えながら立った。
震えながら——ここまで来た。
それは、弱さではなかった。それは——リリエラ自身の、強さだった。
それから数ヶ月後、ショコラオランジュ公爵とライムブリュレ嬢の婚約が正式に発表された。
婚約の夜会で、レオンハルトがリリエラの手を取ってくれた。
リリエラは気づいた。震えていても、震えていなくても——大事なのは、立っているということ。自分の足で、自分の意志で、そこに立っているということ。
「ありがとうございます。あなたを選んでよかった」
「私もだ。選ばれたかった相手に、選んでもらえた」
その言葉が、リリエラの胸に温かく響いた。
選ばれたのではない。
選んだのだ。震えながら、自分の意志で、選んだのだ。
それが——今のリリエラには、何よりも誇らしかった。
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本編八話からが続きとなります。
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