うろこがあるから
貧しい教会のかたすみで、そのシスターは死にかけていた。
巻き毛の白髪、細い目もと、しわだらけの白い肌……年齢に年齢を重ね重ねて、今しも天に召されようと。
お決まりで呼ばれた青年医者に脈をとられて、シスターは弱々しく微笑を浮かべて、かすかに細い首を振る。
「もうよろしいの、そんなこと……分かっていますの、もうじき私は老いて死ぬ、それだけのこと……」
青年医師は大きなマスクをした顔で、水色の瞳にかすかな困惑をにじませる。その瞳をかすんだ目でじっと見つめて、シスターはしみじみつぶやいた。
「ああ、あなたの水晶を思わせるその瞳……昔のことを、想い出します……お医者さま、老シスターの想い出話、最期に聞いてはいただけませんか……?」
医者の青年は少しためらい、ためらいながらもうなずいた。老シスターは淡く微笑み、つぶやくように話し始めた……。
* * *
六十年前の、話です。
私はその時、まだ十七になったばかり……私は捨て子だったのです。この異教の教会の門前に生まれたばかりで捨てられていた、きっと貧しくて子を育てられない親が、やむにやまれずそうしたのでしょう。
そんな事情でこの教会で育てられた私には、もうシスターになる道しか残されていませんでした。私は良いも悪いも知らず、異教のシスターになりました。恋も愛も知らぬまま、一生を終えると思っていました。
……そんなある日、十七になったばかりの朝に、私は教会から少し離れた森の中へ、キイチゴを摘みに行きました。
ああ、「おかしなことを」とおっしゃらないでくださいね。……たいていの教会はシスターたちが外に出るのを許しませんが、そうしようにも、私どもの暮らしはあまりに貧しすぎるのです。
……ですから私は、一目で『異教のシスター』と分かる服で身を固め、蔓のかごを持ってキイチゴを摘みに行きました。異教徒の女と分かれば、『触れたとたんに身が腐る』と、このあたりの男たちは近づこうともしませんから……。
オレンジや赤のつぶつぶのベリーを摘んでいるうちに、かすかに何かが聞こえてきました。小鳥の歌でも、獣の息でもありません。誰かの歌う歌のようです。どこか異国の言葉のような、古いこの国の言葉のような……、
意味の取れないその歌は、何だかとても甘い調べで、優しく柔らかい若い男の方の声で……私は何だか魅せられたように、ベリーを摘んだかごも忘れて、ふらふらと声の方へと歩を進めていきました。
……巨きな澄んだ湖のほとり、ひとりの青年が歌っていました。不思議な紋様を織り込んだ白いオーバーを身につけて、この夏の日に長袖で……青年はふっと歌いやめて、水晶のような目を細めて、こちらをちょっとまぶしそうに眺めました。
あわてて身をひるがえし、おわびもそこそこに逃げ出そうとする私の手を、それは優しくつかまえて……青年はこう訊ねました。
「あなたは、歌は、お好きですか?」
「……は、はい……教会では、『賛美の歌』をソロで歌わせてもらうほど……」
「へえ! じゃあお好きなだけじゃなく、ずいぶんお上手なんですね!」
「――忌み嫌われる、異教の賛美の歌ですけど……」
言い残して手をふりきって逃れようとする私の肩に、青年はそっと手を触れました。……初めてでした。『異教徒の忌まわしい女』の私に、優しく触れてくださる男の方なんて、生まれて初めてだったのです。
「……歌いませんか。ふたりで」
言うなり青年は甘い声で歌い出し、私も我知らず誘われて歌い出しました。言葉も何も関係ない、意味も取れないリズムだけのような歌が、甘く絡まってあふれ出し、意味も取れないのに恋の歌だと分かりました。
……歌っているだけなのに、ふたりは手をとり、キスをして、そのうえもっと深いことをお互いにしているような心地になって……白昼夢のようでした、幻のような甘いあまい悪夢のような……いいえ、今こそ告白しましょう、私はその時天にも昇る心地でした。
――歌い終えたその時に、青年の白いほおはほんのり赤く色づいて……ああ、何ということでしょう、その時初めて気づきました、血の色をのぼせた薄桃色のほおに、かすかに透けるうろこが浮いているじゃあありませんか!
ああ、この方は邪教の方だ、蛇神を崇め、自身も魔術でうろこを身に浮かした方だ……! 絶望に身を切られる想いの私に、青年は水色の水晶のような目にこちらを映して、口づけるほどの近さから熱く問いかけます。
「……初めてです、あなたのように気の合う方は……あなた、またこの森に、この湖のほとりに……この僕に逢いに、いらしてはくださらないでしょうか……?」
私はめちゃくちゃに首を振り、その場からウサギのように跳ね飛ぶように逃げ出しました。
恐かったのです、邪教の彼より何よりも……今まで知らなかった自分、自分の中に眠っていた熱い感情を知ってしまって……波立たぬ水面のように無感情に生きてきた自分が、このまま彼と逢瀬を重ねたらいったいどうなってしまうのか、それが恐ろしかったのです。
……それっきり、ふたたび彼と逢うことはありませんでした。私は他の誰とも恋をせず、異教の教会でしめやかな青春を過ごし、独り身で老いていきました。
けれども私の胸の内から、あの方の面影が消え去ったことはありません。この心の奥深くから、あの美しい歌声が潰えたことはありません。
……これが、秘めたる恋を抱き、異教の教会で一生を終えんとするシスターの、せめてもの懺悔話です……、
ああ、つぶやきでやっとのことで語り終え、何だかもう目がかすんできたわ……ありがとうね、お医者さん……こんな話を聞いてくれて……、
……ああ、死んだら天上でまた逢えるのかしら……だめかしら……異教と邪教の天国は、違う所にあるのかしら……?
* * *
老いたシスターの細い目じりから、しわを伝って透けるしずくが流れ落ちる。
その涙を骨ばった指先で優しく拭い、青年医師はマスクを外し、塩辛いしずくを舐めとった。
――マスクの下から、白いほおと透き通るうろこが現れた。かすむ目を見開くシスターの手をとり、青年はしわくちゃの手にそれはそれは愛おしそうに口づける。
「……ああ、この日を待ち望んだ……魂の恋人よ、僕は邪教徒ではなくて……」
青年はふっと言葉を切って、美しい声でこう告げる。
「――邪教の神、そのものだ」
声もなくしぼんだ口を大きく開くシスターに、蛇神は二股に裂けた舌を踊らせ微笑いかける。
「なるほど、現世での肉体は異教の神のものだろうが、君の心は、魂はどちらも我のものだ。さあゆこう、魂の恋人よ、我は湖底の白い城には戻らずに、君と一緒に天へ昇ろう……」
言うなりきつく抱きしめられ、みるみるうちに枯れた体が若返り、ふたりで巨きな蛇になり、蛇は巨大な竜になって、天井を突き抜けて絡み合いながら天へ天へと昇っていき……、
オパールのように虹色きらめく透ける巨体が、リボンのように絡みからんで雲の向こうに姿を消した。
――それから後、その地に虹が出る時は、きっと大きいのと小さいの、二重の虹が出たという。
そうして地上の人々は、「ああ、またご夫婦の竜が出た」と雨上がりの空をうっとり見上げたという……。
どこかの星のどこかの国の、虹にまつわる話である。
(了)




