真紅の泉~千年を生きた椿の樹、転生した『魂の恋人』を待ち望む~
――血のように赤いあかい泉。目の前の光景が信じられずに、僕は何度もまばたいた。
美しい。美しいが、恐ろしい。最上級の赤ワインもかくやとばかり、なみなみと赤い水をたたえて、大きな泉はそよ風にひらひらと水面を波立たせている。
旅人の僕は、地元の方にこの泉のうわさを聞き、せっかくだからと見に来てみたが……来なければよかったかと今は想う。それほど目に灼けつく赤だ、当分深夜に夢に見そうだ……とびきり美しい極上の悪夢を。血の赤に目を灼かれ身を灼かれ、冷や汗と涙を流して旅のベッドに飛び起きそうな。
大きな泉の真ん中に、ぽっかり小島が浮いている。島の真ん中には大きな椿の樹が生えて、ぽたり、ぽたり、と赤い花を水面に丸ごと落としている。花びらになって散ることもなく、生首のように丸ごと落ちる。ぽたり、ぽたり、花時計とも言いたいくらいに、じっと見ているとしばらく間を置いて一つひとつと落ちてゆく。
『落ちた椿の花で、池の水が染まるのではないか』と作品の中で述べたのは、どこの国の作家だったか……そう思いながら見つめていると、水面に落ちた花はしばらくじっと浮いていて、やがてふるふると細かく震え、ぽっと崩れて溶けて消えた。
――何ということだろう、本当に椿が溶けている! 花の赤色で本当に泉の水が染まっているんだ!
そういえばこのあたりの人は、みなこの泉を恐れていると言っていた。『魔性の泉、魔物が棲むからあの赤い色になるのだ』と、『泉の水には毒があるから、決して飲んではいけない』と。恐れのあまり地元の者はめったに泉に近づかず、したがってよく見もしないから、この事実にも気づかないのか!
でも……どうして? どうして椿の花が溶け落ちて、泉の水が赤くなるような、そんな事態が? 混乱しつつも目が離せない。花はぽたり、ぽたりと水面に落ち、落ちてはかすかに震えて溶けて、泉の水はますます赤く、赤黒く染まってゆくようだ。
赤いあかい泉の水面に、ふいに大きく波紋が浮かぶ。波紋がひらひら広がって、その中央に……ひとりの美女が姿を見せた。さらさらと長い白銀の髪、白い細身のドレスに、椿の赤もかくやとばかり、血のように赤い魔性の瞳。
その姿はすううと透けて、彼女の白いドレス越しに、血を吸った綿のようにうっすり赤く、背後の椿がにじんで映る。
声もなく口を開く僕に向かって、そのものは愛おしそうにその白い手をさし出した。そうして砂糖水のようにほんのり甘く綺麗な声で、こちらへかすかにささやきかける。
『待っていました。あなたのことを……』
何故だろう、ほんの小さな声なのに、耳にしみるようありあり響く。僕はますます混乱しながら、魔性の者に言葉を返す。
「――僕を? 何故? 僕らは初対面ですよ、これまでに逢ったこともない……」
『ええ、今世では。でも前世では、末を誓ったどうしでした……』
魔性の者は、ささやくように物語った。僕らの前世を、彼女の記憶を……。
『私たちは恋人でした。私はこのとおり、この泉に棲む魔性の者。そうしてあなたは人間でした。あなたは人間だったから、私よりずっと早く寿命が来て……しわだらけの目もとで微笑って、あなたは涙して言ったんです。また生まれ変わってくるから、と』
分からない、彼女の言うことが分からない。それは本当に僕の前世か? 彼女は誰かと、思い違っていやしないか?
『人間の魂は気まぐれで、どこに生まれるか分からない。でも私の、この赤い瞳を目印に、どこに生まれても旅をして、必ずここに戻ってくるから……あなたはそう言い残し、穏やかに世を去りました』
想い出せない、いや、想い出すって何だ? 昔から僕は何度も夢を見ていたのじゃないか、目の前の彼女のような、魔性の女性を、赤い瞳の美人を……、何度もまばたく僕の視界の真ん前で、彼女は静かに語り続ける。
『けれど瞳だけでは足りない。「どこか遠くの赤目の魔物」の話だけでは、目印の記憶としては頼りない……だから、椿の樹の精の私は、泉を赤く染めることにしたのです。赤い泉のうわさに魅かれ、転生したあなたが逢いに来てくれるかもしれないと……』
――そうだ。僕は小さいころ、きっと寝物語か何かで、赤い泉の話を聞いた。真っ赤に染まる血の色の泉の話を聞いて、『いつか見に行ってみたい』と想った……旅を始めるきっかけは、それだったんじゃないだろうか?
「……でも、まだ確信は出来ない……何か証がほしいんだ……僕が君の求める魂の恋人と言う、確かなあかしは……?」
『――ここに、あなたの胸もとに……』
言いながらふと気がつくと、彼女はもう僕のすぐそばにいて、白い腕を絡めてきた。ぼくのシャツのボタンをはずし、たくましくもない胸をはだけて、左胸の乳首の下、小さなあざに白く細い指をつけた。ひいやりとした感触に、逆に一気に体に熱が回ってゆく。
『……この、赤い花型のあざ。前世のあなたが持っていたあざを印に、あなたも生まれ変わってくると……あなたはそうおっしゃって……』
椿の精の瞳から、透けるしずくがひとすじ伝う。思わずそのしずくに口づけ、そのくちびるへと舌を伸ばす。
――受け入れてくれた彼女の口中は、ほの甘い蜜の香りがした。幼いころに麦のストローをつけて吸った椿の花の、かすかな蜜の香りがした。
その瞬間、僕は全てを想い出した。彼女のあごに手をかけて、しみじみ彼女の名を呼んだ。カメーリャと……異国の言葉だった、知らない言葉だったけど、この国の言葉で『椿』を意味すると、生まれる前から知っていた。
僕らは抱き合うように寄り添って、赤い泉に足をつけた。赤い波紋が足もとから広がってゆく。僕らはさまざまに広がる波紋とダンスするように、静かに、しずかに、泉の中へ歩を進めた。赤いあかい泉の中に、とぷん、とすべて身を沈めて、そのまま上がってこなかった。
* * *
泉の水は、やがて赤くはなくなった。当たり前の透んだ水の色に変わった。だが『ふたりの幽霊が出る』と言って、周囲に住む者は相変わらず泉を恐れる。
その幽霊は美しい男女で、女の方は白銀の髪に白いドレス、椿のように赤い瞳。男の方は旅の姿で、寄り添うように抱き合うように手をとりあって、泉の水面の上を散歩しているのだという。
かすかな風が小さなレースのように、水面を揺らす朝早く。はちみつのような日光のさす昼下がり。月の光が甘く水面を照らす夜半……。
もう誰も、この泉には訪れない。ふたりの姿を見ようとしない。ただひとり、幼い少年をのぞいては。
少年は仲間の悪ガキたちとつるんで『肝だめし』に行って以来、そのふたりに魅せられている。他の仲間は姿を見て肝をつぶして、もう二度と「泉に行こう」とは言わないが、少年だけは『人外のごとく美しい』姿が見たくて、人目を盗んでこっそりと泉に通っている。
初めは少年に目もくれなかった幽霊ふたりは、このごろは水面の上から少年の目を見て、微笑ってくれるようになった。少年もうっとりと微笑い返す。幽霊ふたりの出る場所は、少しずつ岸へ近づいている。
――いずれは泉に出る『幽霊』が、血のつながらない親子さんにんに変わるのだろう。
(了)




