胸のともしび
「彼女はもうじき亡くなるよ」と、近所のみんなは口をそろえた。
「パートナーを病気で亡くして、もう六年か……まあよく保ったほうだけど、もう長くはないだろうな」
「なんせあのひとも亡くなった旦那も、百万人に一人の『オパールのともしび』の持ち主だからな! 代わりの相手も望めんだろうし……気の毒だが、もうじきだろうよ……」
この世界の人は皆、夜になると『胸の灯り』が肌を透けて見えるのだった。灯りにはいろいろな種類があった。
紅玉色の灯り、翡翠色の灯り、紫水晶色をした灯り……たいていの人は自分と同じ色の灯りの相手と気が合って、そうして結婚するのだった。
そうしてうわさの『イリス』という名のご婦人は、百万人に一人と言われる『虹のオパールの灯り』を持っていた。夫が生きているときに、二人で夜の散歩をしている時などは、近所のみんなが家の窓から顔を出して、幸せな若い夫婦にひらひら手を振ってあいさつした。
イリスと夫の胸の灯りは、ミルク色がかったきらめく淡い虹の踊りが美しく、みんなは空の月や星より、しばしの小さな虹のダンスにうっとりと見惚れたものだった。
……だが、夫はふとした風邪がもとで肺炎になり、あっという間に世を去った。「ちょっとした風邪だよ、大丈夫」と軽い咳をしながらも『雨の夜にだけ咲く花』をイリスのために摘みに行って、そのために症状が悪化したのだ。
イリスは『私のために夫は死んだ』と自分を責め、幼い妖精のような清らかな笑顔は全くかげをひそめ、笑わない幽霊のようになってしまった。
ごくたまに夜、何かの用事で外出した時にだけ、イリスの胸の灯りが見えた。その灯りは今にもいまにも消えそうに、瀕死の虹が踊っていた。
この世界では、胸のともしびが消えれば人は死ぬ。あんまり夫が恋しすぎて、そのためにもうじき彼女は死んでしまうと、近所のみんなは考えていた。
……そんな彼女に、にこにこ話しかける者がいた。『クレール』という名の五歳の少年だ。クレールは金色の髪に青い瞳、愛嬌のある少年だったが、両親はとても過保護だった。特に夕暮れ時からは、クレールは絶対に家から出してはもらえなかった。
だからみんなは、クレールの胸のともしびの色を知らなかった。
「ねえ、イリスお姉さん! 今日はとっても天気が良いね!」
「ねえ、見てあそこの木! リスが三匹も追っかけっこしているよ!」
「ねえ、イリスお姉さん! あなたの作ったイチゴのソース、ヨーグルトにかけるととっても美味しいねえ!」
少年に人なつっこく話しかけられ、イリスは少しずつすこしずつ、笑顔を取り戻していった。かと思うといきなり表情を暗くして、クレールの手を振りきって自分の家に駆け戻ってしまうこともあった。
……クレールと出逢ってから、イリスも夜には出歩かないようになった。だから今のイリスの胸のともしびも、近所のみんなは目にすることがなくなった。
そんなある夜、魂消るような悲鳴が聞こえた。男と女の声だった。だいぶ若い声だった。クレールの家から聞こえたようだと、近所の人が駆けつけた。
――もう死んでいた。クレールの両親は家にあった果物ナイフでめった刺しにされ、とうの昔にこと切れていた。同じベッドに寝ていて血まみれになった少年が、ひとりだけ無傷で助け出された。少年は震えながら泣きながら、近所の人にこう言った。
「パパとママ、珍しくいっぱいお酒を飲んでたんだ。今日は二人の結婚記念日だったから……体のおっきな男の人が、どこからか忍び込んできたんだ。そうしてナイフで二人を刺した。いっぱいいっぱい刺したんだ……」
少年はしゃくり上げながら、血に濡れたナイフを握ってしどろもどろにこう言った。
「あいつは『ガキは見逃してやる』って笑ってどっか逃げてった……ぼくはパパの胸に刺さったまんまのナイフを抜かなきゃって思って、握って抜いたら……血が、いっぱい……、」
もう後は言葉にならなかった。クレールは世にも悲痛な声を上げて悲鳴のように泣き出した。
幼い少年のその言葉は、疑いもなく受け入れられた。握られたままの赤いナイフも、当然のことと受け入れられた。
……ひとり残されたクレールの世話を、あのイリスが申し出た。幼い少年と早めの夕食を済ませた後、イリスはそっと自室にこもった。もう部屋から出ては来なかった。
クレールはとっぷりと日が暮れてから、明かりもつかないイリスの部屋の扉をノックした。こんこん、何度もノックした。
……やがて扉が開けられた。
イリスの胸のともしびは、今は大きくともっていた。夫が生きていたころと同じくらいに、虹色がきらめき踊っている。
「――イリスお姉さん。その綺麗な灯りは、ぼくがここにいるからでしょう? 小さくなっていた灯りがだんだん回復してきたのが、亡くなった旦那さんに申し訳なくて、夜は歩かなくなったんでしょう? ……」
そう言って微笑う少年の胸にも、シャツを透いて虹色の灯りが踊っている。少年は、なぜだかとても愛おしそうに、イリスに「ただいま」とささやいた。
「……ぼくのパパとママは、『イリスに近づくな』って言ってた。『胸のともしびが一緒でも、あんまり歳が離れてるから』って。『お前はこのまま大きくなって、将来もっとふさわしい相手を見つけなさい』って……」
イリスは少年の手をとった。少年の手はあたたかかった。すがるように握りしめるイリスの手のひらが、みるみるうちに汗ばんでくる。
愛しさと恐ろしさと何か分からない感情がみんな一緒になって、イリスは潤んだ目で泣き出しそうに口を開く。
「……クレール……あなたのご両親を殺したのは、本当に知らない男の人? それとも……あ、あなたが……」
続きは言葉にならなかった。少年は黙ってこちらの目を見つめ、宝石のような青い瞳にこちらを映して微笑んだ。
お互いにおたがいの胸の灯りが、ミルクのかかった虹のように、きらきらとちらちらと、いつまでも夜に踊っていた。
(了)




