くじら
逢えばくじらの話ばかりした。
海蛇の精のケルテは、その話ばかり繰り返した。
「いいか、リィリ……くじらってのは、陸に棲む動物の仲間なんだ。それが太古の昔、魚から進化して、いっぺん海を出ていながら……海が恋しくなって、もういっぺん海に戻って来たんだよ! それほど海を愛していたんだ!」
「ふぅん……」
人魚のリィリの気のない返事も気にせずに、海蛇は熱く言葉を重ねる。深い緑色の海藻みたいな髪の毛が、海の水にふわふわ揺れる。
「そう、いっぺん海にさよならして、陸向けに進化していながら、昔の青いあおい世界が忘れられずに戻ってくる……『海への愛』がたまらんね!」
「……そんなにくじらが好きなら、くじらの精と結婚すれば良いんじゃない?」
人魚がそう言うと、ケルテは緑色の肌でも分かるほどほおに血をのぼせ、真顔でリィリの顔を見つめた。……それから何か言いたげに、なんだか何かに気づいたように、気の抜けた顔でうなずいた。
「――あ、ああ。そうだな……」
ケルテはその日はそれっきり、くじらの話をしなかった。でもその次に逢った時から、またくじらの話をした。その黒曜石のような深い艶を持った目は、こちらを熱っぽく見つめていた。人魚のリィリには、まなざしの意味が分からなかった。
そもそも海蛇の精のケルテは今年千歳、人魚のリィリは今年でやっと百二十歳。海蛇の千歳は『立派な若い青年』だけど、人魚の感覚で『幼い少女』の年齢をちょっと越したばかりのリィリに、ケルテはあまりにもおとなに見えた。
そんな『ちょっと歳の離れたお友だち』の関係は、やがて一気に変化を見せた。リィリに恋人ができたのだ。恋人はボートで海に遊びにこぎ出した、十七歳の青年だった。
――リィリが生まれて初めて海面から頭を出して、初めて出逢った人間だった。
「やめろ、どうせだまされてるんだ」
海蛇のケルテは口を酸っぱくして止めた。例の『くじらと結婚』の一件以来変わっていなかった顔色が、緑の肌色にも透けて見えるほど真っ赤に血の色が浮いている。
「人間との恋? は、どうせろくなことにはならん。人魚の肉はな、リィリ、人間にとっちゃ不老不死の薬なんだ。その男、おそらくお前の肉を狙って近づいてきたんだ。止めろやめろ、もうしばらく海面には姿を出すな。ものの百年も待っていれば、そいつは寿命でこの世を去るさ!」
「――うるさいわね!!」
急に声を荒げるリィリに、海蛇はこん棒でぶんなぐられたような顔をした。呆然とこちらを見やる相手に、リィリは珊瑚のような赤い目を見開いて言い放つ。
「もう会わないわ、もう絶交よ、二度と話しかけないで。あんたも、あんたのくだらないくじらの話も、もううんざりよ!!」
そう吐き捨てて、リィリはしゅるしゅると尾を動かし、海の奥の奥の方へとふり向きもせず潜っていった。水に包まれているはずなのに、体じゅうが火のついたように熱かった。
* * *
人間の青年は、甘い言葉ばかりをくれた。
彼の名はギルディー、漁師の使う道具を作る、十七の若い職人だった。
彼は「愛してる」を連呼した。「君みたいに綺麗なひとには、今までに逢ったことがない」と繰り返した。リィリは甘い言葉に溺れた。
――ケルテは、そう、海蛇のケルテはこんなささやきをくれなかったわ。
心の中でつぶやくたび、何故だか胸がちくっと痛んだ。
出逢って半年の満月の夜、海のただなかに浮いた岩場の上で逢おうと、ふたりは固く約束した。約束の日が来た夜に、リィリは胸をわくわくさせて、例の岩場へとのぼっていった。
――岩にのぼったリィリの見たのは、ボートでこぎつけた恋人だった。恋人の手には、大きなナイフが握られていた。
「……『不老不死』? あなたはあたしの、人魚の肉を狙っていたの……?」
「何言ってるんだ、魚肉なんてどうでも良い。迷信なんて金にもならねえ……俺はな、お前の腹をかっさばいて龍涎香を手に入れるんだ」
「りゅう、ぜんこう……?」
「何だ、お前人魚のくせに龍涎香も知らないのか? くじらの腹から採れる良い香りの塊だ! 俺はお前の龍涎香を手に入れて、恋人の父親に持っていくんだ! それが結婚の条件なんだ! あの欲深の父親は、それで大もうけしたいんだ!!」
目の前が闇夜みたいに真っ暗になる。月の光を浴びて目をつぶるリィリの耳に、ひゅっというナイフのうなりが聴こえ、血がしぶく。生温かい感触が体じゅうにくっついた。
――痛みも感じぬ自分に気づき、リィリがそっと目を開ける。悲鳴も上げず倒れ込む人間の青年、首すじに海蛇が食いついていた。ケルテだった。
「言わんこっちゃない……悪いとは思ったが、この半年のあいだお前を監視していたんだ。やっぱりそういうことだったか……」
深手は負ったが死んではいないギルディーが、さんざ毒づきながらボートで海へこぎ出した。海蛇はそれを見送って、それは冷静につぶやいた。
「大丈夫だ、あいつは二度とここへ来ない……海蛇は毒を持っている。俺に噛まれて毒が回って、こぎ手を失ったボートはそのうち沈んで、あいつはほどなく魚のえさだ……」
大丈夫だったか、と黒曜石の目で訊かれて、リィリは深くうなずいた。
――綺麗に見える。ケルテのぬるぬるの緑の肌、長い海藻のような髪、黒曜石の艶の瞳……みんなみんな、綺麗に見える。
「……ねえ、あたしはくじらの仲間なの? さっき人間がそんなようなこと言ってたわ……」
「ん? ああ、そうだ。くじらの精は、言ってみりゃあお前たち美しい人魚なんだよ」
リィリはじっと相手の緑色の顔を見つめ、年上の海蛇に問いかける。
「――あなたがいつも、くじらを褒めていたのは、だから?」
緑の肌の下からでもはっきり分かるくらい、海蛇はしばらくぶりにまたその顔を赤くした。黒曜石の目が泳ぎ、それからまっすぐこちらの目を見て、真剣そのものの声で応えた。
「――そうだ」
そのひとことで、リィリはくすくす笑い出した。分かったのだ、半年のあいだ時おり感じた、胸のちくちくが何なのか。
分かったから、海蛇のくちびるへちゅっと軽くキスをした。ケルテの海藻の髪が感電したように逆立った。酸欠さながら、口をぱくぱくさせるケルテに、リィリはぱちりとウィンクした。
「大丈夫よ。海蛇の精と、くじらの精……仲間には毒は効かないでしょ?」
だから、今のはほんのお礼。照れ笑いであっさり言い放つ人魚の少女を、ケルテは思いきり抱きしめた。
海蛇の体はぬるぬるしていて、何だかとっても心地よかった。
これが『惚れた弱み』ってやつかしら。おとなびて考えるリィリの体を、海蛇はますますきつく抱きしめる。
耳もとでささやく「愛してる」のひとことは、ギルディーの同じ言葉よりずっとずっと甘かった。
その後の沈黙に心地よく響く波のうつ音、空にはこぼれるような星々……、
丸い丸いお月様のこぼす光が、岩場のふたりを少しうがった絵画のように、白く美しく照らしていた。
(了)




