わたしのことを書いてくれ
「どういうものだろうね、ネタがぽんぽん浮かぶんだ!」
興奮気味に語る夫は、もう三日まともに寝ていない。サラリーマンと兼業の若手作家だった夫は、二月前から作家一本に絞って掌・短編を恐ろしい勢いで書き出した。
それと並行し、月に一本長編小説もこしらえている。自分もアマチュア作家をしている妻は、そんな夫をかえって心配な目で見ていた。
――何だろう、今までと違いすぎる。ネタなんてそんなにぽんぽん浮かぶものじゃない。週末ふたりでそれぞれの部屋にこもり、夕方までまともなアイデアもつかめずに、あきらめて「気分転換に食べに行こうか」と近所のレストランへ向かうのが、今までの恒例だったのに……。
「いやあ、自分でもちょっと気持ち悪いくらいだよ! というか『今までの不調が何だったんだ』って感じだね!」
得意げにそう言いながら、夫のウィリアムはせかせかと夕食を口に詰め込む。せわしなく夕食を終えたなら、また執筆に戻るつもりだ。
「夜ベッドに入るだろう、そしたら夢はネタの欠片のオンパレード! 目覚めたらネタのキャラがこうせかすんだ、『早くわたしを書いてくれ』って! あとはその声に従って、ペンを走らすだけなんだ!」
「……ねえあなた、少しお休みになったら? ひどいわよ、目の下のくま……なんだか半分幽霊みたい」
「いやいや、冗談じゃないよ! 分かってるだろ、君も物を書く人間だ……こんな幸運な状態、いつまで続くか分からない! ネタが僕の夢の中でダンスを踊ってくれてるうちに、捕まえられるだけ捕まえて紙の中に閉じ込めないと!」
あまりにも正論を言う夫の瞳は、黒目が大きく開いている。興味関心がある時に瞳孔が開くのは、妻だって作家のはしくれ、本を読んで知ってはいるが……知っているから心配になる。
このごろのウィリアムの動向は、いささか常軌を逸している。ウィル本人の意思ではなく、ネタに急かされ、ネタに書かされているみたいだ。
「……ねえウィル? 最近わたしたち、どこにも遠出してないじゃない? 来週のわたしの夏季休暇、ふたりで海に行きましょうよ。三泊四日くらいで……」
「――それ、本気で言ってるのかい? 僕は二月前に専業作家になったばかりだ、売り出しが肝心だってのに、そんなとこ行ってられるかい!」
「ねえ、でも、ウィリアム……」
「僕は行かない、こもって小説を書いている。海に行きたいならひとりで行けよ」
ぴしゃりと言葉を締めきって、ウィルは黙々口を動かし、ものの三分で食事を終えて仕事部屋にこもってしまった。薄いドア越しに、かりかりかりとペンを走らす音までこちらに届く気がする。
……リリーは薄くため息をつき、黙ったままで自分の食事を口へと運ぶ。夫のためにこしらえた大好物のミートパイも、ネタに憑かれたウィルを思うと、ほとんど味がしなかった。
* * *
ウィルがおかしい。物をまともに食べなくなった。クッキーバータイプの携帯食料をかじりながら申し訳程度に水を飲み、見る間に『食事』を終えてそのまま机にかじりつき、インクで汚れた袖にもかまわず猛然と執筆を再開する。
トイレも極力我慢して、シャワーも浴びずにほとんど寝ないで書き続ける……いや、一応寝てはいる。夢がアイデアの源泉だからだ。
くまのべったり浮いた目を閉じ、気絶するように眠りにつく。眠りにつくと、ほどなく夢を見始める。殺される夢でも見ているのかと思うくらい、悲鳴のような呻きを上げる。
「止めてくれ……もう、もう書けない……眠らせてくれ!! せめて静かに眠らせて……!!」
夢の中で何者かに希い、自分の悲鳴で目が覚める。目覚めると赤く腫れた目から涙を流して仕事部屋の机に向かう。そうして出来上がる物語は、どれも珠玉の出来なのだ。
「あなた、ノイローゼなのよ。お願い、お医者に診てもらって……!!」
妻の願いに首を振り、ウィルは部屋にこもって書き続けた。リリーの目の前にいるのはもう夫ではなかった。物語を生み出すだけの、手書き式の機械のようなものだった。
……こうなる前、ウィルは日常を描く物語ばかりを書いていた。地味だが味わい深い物語を圧倒し、今彼の手から生み出されるのは、異星の、異世界のことばかりを花咲き誇るようにそれはリアルに描き連ねた『幻想文学』ばかりだった。
ウィルは、とうとうおかしくなった。ぱっくり開いた口からたらたらよだれを流し、洩れてくるのは意味の取れない「あああ」とか「ううう」とかいう言葉だけ。ゾンビのようにそこらをうろつき、ご近所さんに恐れられ……もう文字を書くこともかなわなくなって、今は精神病院にいる。
ひとりになったリリーは、たったひとりでごはんを食べる。もうろくに食べる気もしなくなり、クッキーバー状の携帯食料をもそもそかじり、申し訳程度に水を飲む。……『まるでおかしくなる前のウィルみたい』と思っても、もちろん全然笑えない。
家の中にひとりになってから三月後に、リリーは一枚の『遺書』を見つけた。薄い青い封筒で、無地の手紙が入っていた。手紙にはこう記されていた。
「愛しいリリー。僕はきっともうだめだ。もうじききっとおかしくなる。
もう頭が半分ぼうっとしているから、手短に言うよ。僕はきっと狙われたんだ。異星の人、異世界の人々の『憑代』にされたんだ。
きっとこの世界だけじゃなくて、いろんな星の住民や、いろんな世界の生き物がいて、語りたがっている、本にされたがっている。彼らは狙った相手の頭の中、夢の中で言うんだ……、
『わたしの人生を書いてくれ』『わたしのことを書いてくれ』って。
でも僕の頭と、肉体は、もうその要求に堪えられない。僕はもうじきおかしくなる。
気をつけて。君も物を書く人だ。何に気をつけたら良いのか分からないけれど、とにかく『やつら』には気をつけて。
愛しているよ。リリー」
リリーは手紙を読み終わり、何と言っていいかも分からず、青い封筒をきつく胸に抱きしめた。
――この内容が真実なのか、狂いかかったウィルの妄想かも分からない。ええ、でも、気をつけるわ、ウィル。何に気をつけたら良いか分からないけど、クッキーバーばかりかじるのはやめるわ。
いっそのこと、もうわたし、書くのもやめてしまおうかしら。そうしたら『やつら』に狙われることもない、聡明なあなたを奪った『書くこと』に別れを告げようかしら……、
そう考えた瞬間に、頭の中で声が聴こえた。重々しく博識そうな老人の声で、おかしな言葉をしゃべっていた。聴いたこともない言葉なのに、なぜか意味ははっきり分かった。
声はこうしゃべっていた。何度もなんども執拗に、重々しく繰り返していた。
――『わたしのことを、書いてくれ』。
それから長々自分の人生を語る声に、リリーは泣きながら首を振った。何度もなんども振り立てた。青い封筒と無地の便せんを胸に抱きしめ、涙しながら首を振った。
割れ鐘のように大きくなっていく声に、両手で思いきり耳をふさいだが無駄だった。『遺書』は胸から床に落ち、音もなく死ぬようにぺたりと青く横たわった。
――やがて、リリーはなすすべもなく部屋にこもった。ウィルの愛用していたペンを手に、しゃくり上げながら最初の一文を書き出した。書き出しながら、こう想った。
ああ、ウィル。わたしももうじきそっちに行くわ。
きっと何冊か作家として花を咲かせて、わたしも精神病院に……どうなっても愛しているわ。大好きよ、ウィル――。
そう想い、泣きながら笑いながら書き連ねる原稿に、ぽたぽたといくつものしみが出来てゆく。
書いてくれ、わたしのことを書いてくれと、頭の中で何重にもなって、いろんな声が響いていた。
(了)




