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天使の純潔

 よし、今度はあいつを抱いてやろう。


 道の向こうから歩いてくる美人を眺めて、『人たらし』はそう思った。人たらしは男女かまわず、『あいさつ代わり』のふいのキスからとりこにして、出逢った晩にベッドインしては思う存分相手を味わい、しかも『一夜の恋人代』として大金を払わせ、次の相手を探すのだった。そうして各国を旅しては、面白おかしく過ごしていた。


 彼は職業を訊かれると、とろけるような甘い笑顔で「人たらしさぁ」と答えるのがつねだった。人間ではなく亜人なので、年齢によって容色みためが衰えることもない。


 さあ、今度は目の前の美人の体をたっぷり味わって、「とろけるような体験をどうもありがとう!」と相手に極上の笑顔をもらって、また大金をいただくか!


 ……それにしても、ずいぶん中性的な美人だな? 少年のようで少女のよう、青年のようで乙女のよう、金髪の巻き毛に海のような青い瞳……素晴らしく美しいのに、不思議なくらいに性のにおいが感じられない。天使みたいだ、この生き物は!


 そう思いつつ、人たらしはいきなり美人の肩を抱き寄せ、くちびるのあいだに舌を差し入れ、口を吸う。――甘い、花の蜜みたいに甘い。何だこいつは? 舌が溶け落ちるようなうっとりする異様な甘さ、こいつは人間じゃないのか? 俺と同じ亜人の一種か……?


 びっくりして口を離すと、美人はうっすら微笑んだ。感情をほとんど感じさせない、淡いあわいだった。


「……あなたは、わたしを誘惑するおつもりですか? 無駄なことです、わたしは天使なのですから……」


 そう言いつつ、美人はふっと人たらしの手をふりきって、背中をふるっと震わせた。とたんに白い大きな花の咲くように、美人の背に白鳥を思わす翼が咲いた。


「ははあ、なるほど……『けがれを知らぬ天使さん』かい! 快楽を知れば神さんに怒られちまうってかい? でもあいにくな、こっちも職業『人たらし』、そう簡単には手を引けねえのよ!」


 天使はかすかに呆れたように微笑んで、そっと白い衣のすそに白く細い手をかける。ほわほわのドレスのような衣を両の手でつかみ、ゆっくりと、ゆっくりと持ち上げた。するとそこには――


 何もない空間が現れた。衣の下には何もなかった。ほわほわの衣の中に、白い肌の腰から上っきり、宙に浮いていた。天使には、下半身がなかったのだ。


 ……そうか、翼を持ち、性の快楽を知らなくて良い存在には、腰から下はいらないのか……。


 妙に納得する人たらしに最後の微笑をふうっと浮かべ、天使は空へと舞い上がった。ああ、変なもんに手を出そうとしちまった……そう思って、一晩苦い酒を飲んで、それで終わりになるはずだった。


 消えなかった。記憶から消えてくれない、あの笑顔が。淡い微笑み、少し呆れたような微笑、少し小ばかにするような最後に見せた表情が……そうして甘いあまいくちびる、桃色のくちびるとその奥の蜜のような、舌の溶け落ちるほどの味。


 ――惚れた。惚れてしまった、この俺が。今まで誰にも恋しなかった、だいの人たらしの俺が。


 人たらしは半狂乱になり、忘れようと努力した。今まで以上に手当たりしだいに男女かまわず手を出して、必死に『仕事』に精を出した。淫らなことばかり重ねに重ね、天使など眼中にないそぶりをした。


 忘れられなかった。まばたきするたびにまたたく天使のあの笑顔、口の中にしみついて消えない蜜の味……、


 人たらしはだんだん『仕事』をしなくなった。いつしか旅もやめてしまった。野ばらの乱れ咲く野原でふらふらふらついて、独り言を言っていたと……見えない誰かと甘やかな声で話していたみたいだったと、さいごに見た人が言っていた。


 それからしばらく時が経ち、その地の人々は『天使』の姿を見るようになった。たいてい野ばら咲く野原にいて、いつもふたりで聴こえない声で話している。白い翼をはためかせ、翼と翼を白く重ねて、仲睦まじく話している。


 ふたりを目にしたある人は、「風が吹いて衣がぱあっとめくれたら、ふたりとも腰から下がなかった」と証言した。そうして見た人みなが認めた、天使のひとりはいつかの人たらしにそっくりだと。


 ……恋の炎に浄化され、生前の罪は消えたのだろう。野ばら咲き誇る野の原で、天使は今日も逢引きしている。空は青く、突き抜けるほど深く青く、慈悲深い祝福さながらに、ぱらぱらとしずくが降ってきた。


 日の光を浴びてしたたる、お天気雨の清らなしずくは、透きとおる真珠のに似ていた。


(了)

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