オパールの血
その画家は、美しい命を殺しては生計を立てていた。
この世界では、妖精は虫と同じようにありふれた、虫と同じくらい珍しくもない生き物だ。とんぼや蝶を思わせる羽を背中に生やし、ひらひらすうすうとそこらを飛び回る、小さな人間のような姿……。
妖精たちはそれぞれの好みで、いろいろな花の蜜を吸う。生まれたばかりの妖精の血液は透明だが、成長するにつれ、しだいに好みの花の色に染まってゆく。
小さな太陽のようなひまわりの蜜を吸えば明るい黄色に、燃え立つような薔薇の蜜を吸えば真紅に、ひんやりと青い朝顔の蜜を吸えば藍色に……、
そうしてその妖精の血と、アラビアゴムと防腐剤を混ぜ、画家は絵の具を作るのだ。作り方はふつうの水彩絵の具と同じ、たいして難しいことはない。ただひとつ違うのは、少量の一色を作るたび、命がひとつ、潰えること。
「今すぐやめろ、そんなことは」
画家と会うたび、幼なじみの友人は口を酸っぱくして止めた。
「お前も知っているだろう? ……妖精は太古の昔、異世界とのほころびから迷い込んできた『異界の者』の子孫だと。人知の及ばぬ、いわば小さな神のような存在だ」
「そんなことはない、虫けらと一緒さ」
「黙って聞け! いいか、この頃の若い奴らは畏敬の念を失っているが、妖精はもともと別の世界の生き物だ。いまだに分からないことだらけだ……これは極端な話だがな、あんまり無体なことをしていると、そのうち祟るかもしれん。これは友人としての忠告だ……!」
「はいはい、僕と同い年の若い友人……『考古学者だから言うことがやたら年寄りじみている友人』からのご忠告、確かにお聞きしましたよ!」
ひらひらとおざなりに手をふる画家にかっとして、考古学者の青年は「もう絶交だ!!」と言い放ち、画家のアトリエを後にした。画家は少しあっけにとられて、それから気を取り直して、冷めた紅茶に口をつけた。
「……まあ、あいつの怒りっぽいのはいつものことだ。そのうち怒りが収まって、しれっとふらっと訪ねてくるさ」
アールグレイの残り香の上品な柑橘系の香りと、花の蜜のような香りと鉄臭い血の香りとが混じり合い、異様なにおいがアトリエじゅうに漂っていた。
* * *
半年が過ぎた。考古学者の友人は、一向に訪ねて来なかった。
「……何だって、今回の怒りはしつこいな……あいつのために、せっかく用意したっていうのに……」
自分の屋敷の庭の芝生にシートを敷いて、友人に招きの手紙を出していた画家はまったくの待ちぼうけで、冷めきった紅茶を飲みながら来もしない考古学者を待っている。
ひらっと、淡い虹が見えた気がした。ふっと目を上げた画家の前に、いつのまに飛んできたのか、恐ろしいほど美しい大きな妖精が舞っている。
その羽はちらちらと虹のプリズムきらめく蝶のそれ、目に沁みるほど白くすらりと長い髪、人と同じくらいの背たけ……そして純白のまつ毛の奥からのぞく瞳は、羽と同じくプレシャスオパールのようなふるふる揺らぐ虹色だった。
妖精がかすかに身動きするたびに、羽と瞳の虹色が活きているようにたおやかに踊り、跳ね、息を呑むほど美しい。
画家は言葉を失って、それから顔じゅうでまるでにたにた笑い出した。
――ああ、何て幸運だ! こいつは珍しい妖精だ、きっとオパールみたいなきらきら虹色の血が採れるぞ! ぼくは何て運が良いんだ!!
思いつつ、ついさっきオレンジを切り分けていた果物ナイフを手に取って、物も言わず妖精の胸に突き立てた。
どす黒い血がほとばしった。地獄のように真っ黒だった。その血をまともに顔に浴び、画家はもの凄い悲鳴を上げた。
痛い、熱い、いたいいたいいたいあつい!!
猛毒を浴びたかのごとく画家の顔はみるみるうちに灼け爛れ、じゅくじゅくと腫れあがり腐汁がはじけ、青年画家は見るも無残な姿になってどうと倒れた。
……黒い血を噴いた傷口が、見る間に静かにふさがってゆく。倒れもしなかった妖精はそっと自分の胸を撫で、ひらりと羽をあおがせた。
声もなくそっと爛れた画家のほおへ手を触れ、艶やかに残酷な笑みを浮かべる。決別のキスをくれた後、ひらりひらりと飛び去るまぎわ、妖精の指が落ちたナイフにちらとかすった。
――指先からかすかに流れ出たのは、照り輝いてはちらちら踊る、虹のオパールの色の血だった。
遠くからいかにも不本意そうに歩いてくる、考古学者の姿が見える。それを眺めると、妖精はふっと微笑んで、プリズムの虹をきらめかしてさあっと空へ舞い上がった。
「……神だ……」
虹のちらちらに目を上げた学者は、息を呑んでつぶやいた。それからだっと走り出し、走りながらわめき出した。
「――おい! お前も見たか、三文画家! 妖精の神だ、オパール色した神がいたんだ! だからお前もいいかげん、妖精の血で絵の具なんかを作るのは……!!」
止しにするんだ。そう言おうとした学者の口は、あんぐり開いて固まった。黒い血を浴びて化け物みたいな顔になった青年画家が、シートの上に倒れていた。
死んでいるのか? 死んでいる。間違いなく死んでいる。人がこんな状態になって、まさか生きているわけは……そう思った次の瞬間、その化け物はごろごろとのどを鳴らして、考古学者の名を呼んだ。
心底からのえぐい悲鳴が、画家の広い庭いっぱいにつんざくように響き渡った。
その声を遠く聞きながら、正体も知れぬオパール色の生き物は、天へ天へと舞い上がり、ひらりと少し舞い下がり、どことも知れぬ住処へ向けて、虹色の羽を駆っていた。
日も翳らぬのに、音立てて雨が降り出した。――オパールにミルクの霧を流したような本物の虹が、淡く青空にかかり始めた。
(了)




