本の好きすぎる吸血鬼
彼は素晴らしくいいやつだった。
――昇天する寸前まで人の血を吸う『食事』をいっさいしなければ。
だがもちろん、食事をせねば生きられない。だから彼はみんなにとって『大変困ったいいやつ』だった。
数年前に、異世界とのほころびから迷い込んできた吸血鬼……少しくせっ毛の黒髪に、紅玉のような赤い瞳の引き立つ片眼鏡をかけている。しなやかながらたくましい体にまとう黒のスーツ、肩に羽織るのは裏地が真紅の黒のマント……。
匂い立つような色香を持つこの青年、ふだんは霧の姿になってもやもやとその辺を漂っている。
そうして馬車がぬかるみにハマって立ち往生していれば、たちまち人の姿をとって『人外の怪力』で助け出し……。
お嬢さんが小石につまづいて足先を怪我すれば、惜しまずに上絹のハンカチで血をぬぐい、ほうたい代わりに巻きつけて、コウモリの羽を広げてお屋敷まで送ってあげて……。
子どもたちが頭数が足りなくて困っていれば、一緒になってばっさり黒いマントを脱ぎ捨て、泥んこになってサッカーをする……しかも子どもたちの気づかぬくらい、何とも絶妙に手かげんして!
そんな好青年の吸血鬼、お腹がすくと我を忘れて人を襲い、首すじに嚙みついて『天国のドア』を幻覚に見るほど血を吸い取る……それだけがたったひとつの『玉に瑕』!
だが彼に人を殺す意思はないので、飢えが満たされるとはっとしてそこで食事をやめる。だから幸い、今まで人死には出ていない。
そうしてこの地から追い出そうにも、彼には目立った弱点はない。『異世界からの迷い子』だから、こっちの世界の十字架にひるむ訳がない。彼にとっては『なんか変な宗教的モチーフ』にすぎないからだ。
銀製品は、涼やかな光を放つ銀のピアスを好んで身につけているくらいだし、にんにくのアヒージョが大好物。お日様を浴びながらの昼の散歩を趣味にして、小夜ふけて綺麗な声で歌うたうほどの風流人。
――かと言って寝ているすきに木の杭を胸にぶち込むには……ここいらの人々はもう、この青年が好きすぎる!
そもそも彼は異世界の者、ものの考え方が少し人間と違うだけの生き物だ。ここで暴力に訴えれば、そんなやり方で通していたら、いずれはこの星も『地球』とかいう星と同じ運命をたどるだろう。
――そう、はるか昔に最終戦争で滅亡した『地球』の生命と同じ運命をたどることに……だがこのまま野放しにして、そのうち『うっかり吸いすぎ』で死亡事故でも起きてしまえば、吸血鬼の運命もそこで暗転するだろう。
うーん、悩ましい! どうにかしてこの件、穏やかに解決できんものか……?
ところでこの吸血鬼の青年には、血よりも大好きなものがあった。本である。読書することが何より好きで、こちらの文字も『脳内で瞬時に翻訳する能力』があるらしく、たまにそこらの貴族の図書室に招かれて「好きなだけお読みなさい」と言われると、文字通り寝食忘れてのめりこみ……、
「ちょっと夢中になりすぎですよ、ここらで一服しませんか?」と言われてはっと我に返り、そこで腹ぺこの自分に気づいて『食事』にかかり、図書室でのひとときを提供した貴族が血祭りにあげられるのが常だった。
そこで、その地域の人たちは、吸血鬼の青年をそこらで最大の図書館に招いた。
『あなたはとても良い方なので、特別にしばらくこの図書館を、あなただけに開放します! いくらでも読んで良いですよ!』
そう言うと、人気のなくなった図書館で目を輝かせて本を物色する吸血鬼をひとり残し……図書館の老管理人は、外からそっと鍵をかけた。誰も入ってこれないように。
青年はそれにも全く気づかず、まず選りどった『はじめの一冊』を熱っぽいしぐさで大きく広げ、食いつくように読み始めた。……
――そうして、一年が経過した。
『もういいだろう』と判断した人々は、図書館の鍵を外からそーっと開けてみた。そうして中をのぞき見た。
ほんのりとほこりをかぶった本棚と居並ぶ本にまみれて、吸血鬼は夢中で本を読んでいた。少し色あせた黒髪に、薄桃色に変化した瞳に片眼鏡、うっすらとほこりの積もった黒いスーツと長いマント……、
はっと気がついて顔を上げた青年に、人々はこう訊ねかけた。
「やあ、オルロゥさん! ずいぶん長いこと熱中していたみたいだね……お腹はすいていないかい?」
「……おなか……? そうだなあ、いつもなら腹ぺこになっているはずなのに、全然お腹がすかないなあ! こりゃあ不思議だ、ぼくは病気でもしたのかな……?」
「――いやいや! 違うよオルロゥさん! 鏡でごらんよ、自分の姿を! 少しあせた黒髪に、色の薄くなった瞳、いっそう青ざめたその肌を!」
「……すまんことをした、あんたはもう死んでいるんだ! 気づかないうちに飢えに耐えかね、いっぺん死んで幽霊になって、それでも読み続けていたんだよ!」
ぱっくりと口を開いた青年は……怒りもせずに笑い出した。からから愉快そうに笑い、笑いすぎてあふれた透ける涙を青白い指でくっとぬぐって、にっこり笑ってうなずいた。
「ははは、なるほど! そうですね、ぼくは血を吸う『食事』のせいで、みなさんにだいぶ迷惑をかけていましたもんね! かえって良かった、これで何も気にせずに何百時間でも読書が出来る! ……でもですね、『おわび』と言っちゃあなんですが、あなた方にひとつだけお願いしても良いですか?」
ごくりと息を呑む人々に、幽霊の青年は白百合の花を思わす笑顔でこう言った。
「――このぼくを、この図書館の第一司書にしてください!」
こうして吸血鬼だった青年は、はりきって勉強し、めでたく試験にも受かり……『幽霊の図書館司書』になって、この宇宙のどこかで本に囲まれて暮らしている。
* * *
「……そういう内容の本を幼いころに夢で見て、俺は将来を決めたんです。いずれは宇宙飛行士になって、宇宙じゅう探し回ってもその一冊を探すんだと。ここでもう十個目の星になるんですが……この図書館にそういう一冊、ありませんかね?」
青い目に熱を込めて訊ねかける青年に、若い司書は微笑ってうなずき、ひらっと奥へ目をやった。
「残念ながら、そういった本は本館に存在しませんが……少々お待ちくださいね、我が図書館の第一司書を呼んでまいります……」
そのやりとりが聞こえたのか、奥の方から裏が赤地の黒いマントをひらめかせ、黒いスーツの青年がふわりふわりとやって来た。
「――はるばるようこそ、本館へ。第一司書のオルロゥが、あなたの望むお話をしてしんぜよう」
透き通る片眼鏡の奥の方、夢にまで見た薄桃色の綺麗な瞳が、色気たっぷりにぱちんと無邪気にウィンクした。
(了)




