水に沈む
死にたくてしかたなかった。
昔から、水が好きだった。幼いころから、そう、六歳くらいの時から、水遊びが好きだった。だが庭にしつらえたビニールプールではもの足りない、学校の四角いプールも違う、川遊びもぴんと来ない。
そう……海だ。海が良い。ぼくは海が好きだった。六歳より以前にそんなに海が好きだったか、それはまったく覚えていない。実家は海のすぐそばで、ぼくはよく海へ泳ぎに行った。もぐりに行った。あわよくば海の底に沈んで、白いあぶくになろうとしていた。
ちょくちょく溺れかけ、救急の人たちのお手をわずらわせ、ぼくはとうとう海へ行くのを禁じられた。わざと溺れているのだと思われた。小学生の身で、精神病院にお世話になったこともある。
そうだ。ぼくはわざと溺れていた。死にたくて死にたくてしかたなかった。どうしてかも分からずに、海の底へ沈みたかった。ゆらめく海は美しかった。自分の吐く泡は透明にゆらゆら揺らぎ、体を包み込む深いふかい青も揺らいで、小魚がつっつっとそこらを群れて舞い泳ぎ、冷やい夢の中みたいだった。
――美しかった。地上よりずっと。海の泡になりたかった、ぼくはずっと、ずっとずっとずっと。
ぼくは自分の希死念慮とうまく付き合い、老齢になるまで生き延びた。淡い恋もした、結婚もした、子どもも出来たし孫にも恵まれ、だけどずっと海の底に沈みたかった。心の病気だと分かっていた。分かっていればあこがれが消えるわけでもなく、ぼくはずっと海へあこがれ、海のもくずとなる日を夢見て、やっと日々を生きていた。
ぼくは死んだ。眠るように息絶えた。老齢のあまりの自然死だった。ぼくは生前の望みどおりに、遺骨と灰を大きな海に撒いてもらった。実家のそばの海の、小船で少し沖の方に出たあたりに、白い骨と灰を撒かれた。
青いあおい海に散らばり、消えゆこうとするぼくの目の前、海のちりが白くまとまり、幼い女の子の姿になって笑いかけた。
その瞬間、ずっとずっと忘れていたことを想い出した。
ぼくの恋人。くちびるとくちびるで触れあうキスしか知らなかった、六歳の時のぼくの恋人。
彼女はぼくが六歳の夏、海で溺れて死んだのだ。学校の指定水着を着て、笑って海にもぐっていって、二度とは帰ってこなかった。幼い笑顔も細い手足も、黒い水着のゼッケンも、全部ぜんぶ海に沈んで、二度とは帰ってこなかった。
ぼくはあまりの衝撃にその事実すら忘れ去り、ただあこがれが名残りのように燃えていたんだ――君の沈んだ、海に沈んで、白いあぶくになりたいと。
ぼくと彼女はもろもろとした手をとりあって、海の水にもろもろ溶けてまぎれていった。魚、魚、さかな……魚のうろこが銀色に光って、綺麗で、きれいで、きれいで……、
幸せだ、と芯から感じたその瞬間、全ての感覚が青いあおい海に溶けて、幸せだった……しあわせだ、っ た 。
(了)