追憶の吟遊詩人~みなし児の少女、『行きずりの愛』とその裏の真実に触れて、独り身で愛を保ち続ける~
「恋多き男なんだ」と、自分で言った。
「ぼくは気まぐれでね、あじさいの花の色みたいに移り気なんだ。ひとりの女を一生かけて愛するなんてとても出来ない。だから旅して回ってるのさ。村から街へ、国から国へ……」
わたしの村を訪れた吟遊詩人は、そう言った。言って笑った、からからと。
笑いつつまばたく、長いまつ毛の奥の瞳が、泣き出しそうに悲しかった。愁いという愁いをすべてしょい込んだような、雨に濡れた紅玉みたいに赤い瞳……。
恋をした。
そのおちゃらけた言動と、それとは裏腹な淋しい瞳に恋をした。
彼の短い滞在期間、わたしは彼について回った。彼の歌は素晴らしかった。甘く伸びやかで、そのうえ何とも悲しくて、聴いていると自然と目に涙が浮かんだ。潤んだ目をして歌を聴くわたしに、彼は初め、ひどく驚いた顔をした。
「家にお帰りよ、お嬢さん……こういう男の相手をするには、君みたいな子は綺麗すぎるよ」
純粋すぎる、という意味で言ったのだろうけど、わたしは言われて嬉しかった。そばかすの浮いた低い鼻、にらむような三白眼……そのうえ『みなし児』のわたしはそれまでずっとひとりだった。誰にも相手にされなかった。
わたしはますます彼を想った。相手にされないと分かっていて、それでもいっそう彼の後をついて回り、売って小銭にするための商売道具の野の花を摘みつつ、彼の歌を聴いて回った。
「――まいったなあ! ぼくは……ぼくは……」
困りきって頭を抱えた吟遊詩人は、初めてまっすぐわたしの瞳を見つめてきた。愁いに満ちた赤い瞳に、わたしの姿が映っている。みすぼらしい、貧しい姿。それでも彼の瞳に映ると、こんなわたしでもほんのいくらかはきれいに見えた。
「……君みたいな子に、弱いんだ」
そうつぶやいて、吟遊詩人はキスをした。わたしに、わたしのくちびるに。貧しさにひび割れたくちびるに。
そこから何がどうなったか、細かいことは覚えていない。とにかく抱かれた。わたしが勝手に住みついた、『空き家を改装したあばら家』で。秋も深まりかけた夜だというのに、わたしは自分でもびっくりするほど、しとどに汗をかいていた。
吟遊詩人は、虚無すら感じるまなざしで、それでも私に微笑いかけた。
「――明日の朝、発つよ。また旅に出る」
何もかもをあきらめきった、そんな寄る辺ない口ぶりだった。「ここにいてよ」とわたしはごねた。
「あなたはいつまでもここにいて。お願い、ずっとわたしのそばにいて」
舌足らずなわたしの言葉に、彼はぎゅうっと目を閉じた。辛そうに二、三回深く息をついてから、覚悟したように口を開いた。
「それは出来ない。ぼくは――ぼくは、魔物だから」
冗談だと思った。笑おうとした。……出来なかった。彼があまりに真剣に、私の瞳を見つめていたから。彼は泣き出しそうな瞳で、でも涙のひとつもこぼさずに、ぽつりぽつりと語り始めた。
「ぼくは、ひとの生気を吸う魔物なんだ。ぼくが、誰かに恋をして、そのひとを抱くと……そのひとの寿命は少し縮まる……」
わたしは思わず自分のはだかの体を見つめた。初夜のためだけではないの、この何とも言えないけだるさは?
「ぼくは……だから、誰かを愛することができない。一生誰かを深く愛せない体質なんだ。ぼくと恋仲でい続けると、相手は生気を吸い取られ、やがて……」
彼は苦しげに目を閉じて、続く言葉を吐き出した。
「――死んでしまう。燃え尽きたろうそくみたいに……」
だから、と彼はわたしの目を見て言った。
「だから、これでお別れだ。本当に君を、愛しているから」
嘘じゃない。嘘じゃないことが、愁いに満ちた瞳を見たら分かったから……わたしは、幼い子どもみたいに声を上げて泣き出した。彼は泣かなかった。泣かないままに、今にも泣きだす寸前みたいに綺麗な顔をくしゃくしゃにして、ずっとわたしのむき出しの背中をなでていた。
* * *
「……それが、わたしと彼との話のすべてよ」
語り終えた老婦人は、ベッドの中で息も絶えだえに微笑んだ。目の前でひとりの吟遊詩人が、そっと彼女のしわだらけの手に触れる。
「寄る年波、もう目もほとんど見えないけれど……今いま死ぬ前に、想い出話をあなたに語れて良かったわ……」
吟遊詩人は黙ってうなずき、目の見えぬ彼女に分かるまいと、「私も、良かったです。お話をうかがえて……」と美しい声でつぶやいた。
「――ねえ。あなた、いつかの彼でしょう? 分かるのよ、その声で……」
はいともいいえとも答えずに、赤い瞳の吟遊詩人は、若いままの姿で微笑む。泣き出しそうに微笑みながら、そうっと彼女の手をなぜる。
愛おしげに。なつかしそうに。
「逢いに来てくれたのね、こんなよぼよぼのおばあちゃんに……あり……ありがとうね……」
すきま風の吹くあばら家で、ひとりぼっちの老婦人は、嬉しそうに微笑んで……かすんだ栗色の三白眼から、ひとすじ透けるしずくが落ちた。
あとは何も言わなかった。いつまで待っても、続く言葉は出てこなかった。握りしめているしわだらけの手のひらから、少しずつ熱がひき、静かに冷たくなっていった。
吟遊詩人は泣かなかった。泣かないままで、老婦人の亡骸を抱き上げ、あばら家の裏手に墓を掘り、それは愛しげに婦人を埋めた。
ひとかけ、ひとかけ、名残り惜しそうに木の欠片で土をかぶせ、小さな石を墓標代わりにそっとのせた。
「……さよなら、ぼくの愛おしいひと……生まれ変わっておいで。ぼくの体質も跳ねのけるような、元気いっぱいの魔物の子に……」
――愛しているよ。
ひとこと口にした瞬間、愁いに満ちた紅玉のような瞳が潤んで、ひとすじ透けるしずくが落ちた。
吟遊詩人は立ち上がり、二度、三度後ろをふり返り……あとは黙って、歩いていった。
憎らしくなるほどの晴天だった。空は抜けるほど青かった。
ことん、とかすかな音がして、道ばたに生えた栗の木から、さよならのあいさつみたいに、栗の実がひとつ、いがから落ちた。
(了)