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お空の月を食べたなら

 もう回復の望みはなかった。あとは死を待つばかりだった。十歳の少女、カメリアはもうそれを知っているようで、ベッドの上で黙って微笑むばかりだった。


 まつ毛の長いうすむらさきの瞳は病に潤み、生まれつき病弱な体は白い枯れ木のように細く……若い両親ももう内心ではあきらめきって、そのことを幼い娘にらせぬよう、必死に笑顔でふるまっていた。


 カメリアは静かに静かに弱っていった。大好きだったレモンパイとミルクティーにも、ほとんど口をつけなくなった。今は十歳の少女は、オートミールのおかゆと水だけで日々を過ごしていた。


 ママの目はいつも赤く腫れぼったく、パパの目もとに出来た()()も日に日に深くなっていった。


 あと半月で誕生日……カメリアの十一歳の誕生日。いつもの年と同じように並木の桜が咲き誇り、風に誘われ散り落ちて、日暮れ空には白くまん丸い月がかかり、「新月の夜までもたないだろう」と医者は余命の宣告をした。


 両親はその言葉を胸に秘め、何も伝えずにカメリアに笑顔で接していた。少女は淡く深い笑顔で、何も問わずにうつらうつらと眠って過ごした。


 そんな満月の春の夜、誰かが玄関のドアをしめやかにノックした。


「誰かしら……こんな時間に? もう夜の十二時よ」

「押し込み強盗かもしれん……のぞき穴から様子を見てごらん」


 ママは小さなのぞき穴から確かめて、とまどった様子でパパを見やった。パパも黙ってのぞき穴へ目を近づける。……ドアの外には、白衣を着た細身の青年が立っていた。あとは手ぶらだ。見たところ何も持ってはいない。


「……ええと、何のご用ですか……?」

「医者です、医者のはしくれです。こちらのお宅に重病人がいらっしゃるとのうわさを聞いて……このドアを開けていただけませんか?」


 両親は顔を見合わせて、無言のままでうなずき合った。見たところ害はなさそうだし、もし室内で暴れ出しても、体格でまさるパパの力なら、簡単に取り押さえられそうだ。


 パパがママをかばうように背にして、そっとドアノブに手をかける。中に入ってきた青年は、妙に青白い肌をしていた。耳も少し尖って長い、おそらく亜人なのだろう。


「……ご病人は?」

 美しい声で歌うように訊かれ、ふたりは白衣の青年をカメリアのベッドまで案内した。治せるわけがない、そう思いながら、もし万一という想いもある。


 ふたりのねがいを知ってか知らずか、青年は少女のほおにそうっと手を触れる。息絶えそうに寝入っていたカメリアは、少し苦しげにうすむらさきの目を開いた。青年の透けるような水色の目に、やせこけた少女の姿が映る。


 青年は不思議なくらい愛おしそうに微笑んで、小さく少女の名を呼んだ。カメリアが静かに目を見はると、青年はそっと窓の外を指さした。


「ごらん、夜空にかかる満月を……いいかい、君はこれから毎晩、あの月に向かって口を開くんだ。そうして月を食べるんだ。お月様は君に食べられて、だんだん姿を消していく。毎晩まいばん、やせて小さく細っていく。そうして夜空から月が消えたら……君は治るんだ、病気が治る……」


 それだけを歌う口ぶりで言い残し、青年はカメリアに手をふり去っていった。白衣のすそをかすかに揺らし、満月の照り映える夜の向こうに姿を消した。


 両親は、信じてはいなかった。ただひとつ、偽りでもカメリアに希望の出来たのを喜んだ。カメリアは『お医者様』の言葉を信じて、笑顔が柔らかくなった。一生けんめい、夜空の窓越しに、ガラス越しに、小さな口を開けていた。


「もうじき治るのね、わたし……ほら見て、パパ、ママ……お月様があんなにやせて、もう消えそうよ……」


 消え入りそうな声で微笑ってささやくカメリアに、両親は苦しい笑顔でうなずいた。もうどう見ても、幼い娘は助からない。うすむらさきの目は病に潤み、潤みすぎて悲しくもないのに涙をこぼし、月を指さす白い腕は何もしなくても折れて落ちそうに細すぎて……ただ長い髪ばかり黒々と、月のない夜色につややかなのが、奇跡みたいに痛々しかった。


 月はやせ細っていった。夜ごとに少しずつ欠けて、夜は闇色を濃くしていった。そうして、空に月の消えた新月の夜……両親が様子を見に行くと、ベッドに娘の姿はなかった。窓が開いていた。空には星がまたたいて、夜風がレースのカーテンをちらりちらりと揺らしていた。


* * *


 五年が過ぎた。カメリアは見つからなかった。どこかで少女の水死体が上がったとか殺されたとか、知るたびに両親は食いつくように調べたが、『萌黄の瞳』とか『金髪だった』とか……うすむらさきの目に黒髪という、カメリアの容姿とは似ても似つかなかった。


 死んだとは思いたくなかった。あれほどやせ細った幼い娘が、こつぜんと消えた理由も分からなかった。分からぬまま、両親は新たな子どもに恵まれて、幼い娘の記憶は少しずつ、すこしずつ遠くなっていった。


 十年が過ぎた。両親は九歳になった息子を連れて、海外にちょっとした旅行に出かけた。旅行先は彼らの故郷と友好国で、レモンが名産で、レモンパイが名物だった。


「こうしてパイを食べてると、想い出すわね、あの子のこと……」

 しみじみつぶやくママの前で、息子は口のまわりにパイの皮をくっつけて、レモンパイに無心にかぶりついている。


 そんなカフェの人ごみに、ちらりとなつかしい人影を見た。パパは手にしたグラスが割れそうなほど力を込めて、食いつきそうにそちらを見つめる。気づいたママがパパの目線を追いかけて、手からフォークを取り落とした。


 いつかの白衣の青年だった。青年は今はたび姿すがた、幼い少女と手をつないで……その少女はうすむらさきの髪を揺らして、ふっとこちらへふり向いた。カメリアにそっくりの少女だった。


 まつ毛の長い薄紫色の大きな瞳、白い肌……こちらを見る目が、他人を見つめるようだった。


 青年は少女の視線でこちらに気がつき、水色の瞳をゆっくりと細めて微笑んだ。『もう自分のもの』と言いたげな笑顔だった。


「もう戻ろうか、カメリア……ホテルでティータイムといこう。君の好きなレモンパイとミルクティーでね」


 少女はうなずき、極上の笑顔で青年の手を握り直し、ふたりは人ごみに姿を消した。ママとパパは声もなくただただ見つめていた。人と人と人の背中にまぎれて消えたふたりの姿を、いつまでも目で探っていた。


 ふたりの脳裏に、ありえない想像が沸き起こる。青年は亜人だ、寿命もそうとう長いだろう。青年は旅をし、転生した恋人を……カメリアを見つけ、病気を治して連れ去って……何かの呪術で亜人と化し、成長の速度も髪の色も人間と異なったカメリアの手を引き、終わらない旅へ、国から国へ……、


「ねえ、どうしたの? ふたりとも!」

 ふいに息子に訊ねられ、ふたりは()()と正気に戻る。何を言っていいのか分からず、何も言葉に出来なくて、パパとママは泣き出しそうな笑顔を浮かべた。


 ただ、遠い記憶の幼い娘をしのぶように、目の前のレモンパイに食いついた。パイはさわやかに酸っぱく、甘く、ほろ苦く涙の香りがした。


(了)

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