治らないでください、なんて
「経過は良好です。……もうじき完治しますよ」
胸にかすかな痛みを秘めて、医師は言う。目の前の少女はベッド脇の椅子に座って、白い木綿のパジャマ姿で微笑んだ。
……美しい。天然に長い黒いまつ毛、まつ毛に覆われた栗色の宝石のような瞳。少し寝乱れた腰まで伸びた黒い髪……。
少女は美しいだけでなく、優しかった。窓の外の小鳥を愛でて、羽虫が病室に入ってくるとそっと捕まえて窓から「さよなら」と放してやった。治療に怯える子どもがいると、そっと頭をなでて「怖くないのよ、大丈夫。ここの先生がたは、とっても腕が良いんだから!」と励ましてはにかんでくれた。
好きになっていった。医者が患者を……一人の若い男が、愛らしい少女に恋をした。
――けれどもうすぐ、お別れだ。少女はもうじき病が癒える。もうじきめでたく退院して、もう逢えなくなってしまう。少女はもう文句なく快方に向かっていて、もうすぐ完治してしまう……他ならぬ自分の、治療のせいで。
無情にも日々は過ぎていき、少女は日ましに良くなっていった。柔らかい宝石のような瞳は病に潤むこともなくなり、ベッドから降りて散歩する時間が増えた。
「先生」と言ってこちらに微笑みかける顔が、より美しくなっていった。医師は心から葛藤していた。――言えない。自分は医師なのだ。病気を治す仕事なのだ。言えない。言える訳がない……、
「治らないでください」なんて。「一生治らないで、病院に、ぼくのそばにいてください」なんて。
医師の心も知らぬげに、少女のほおには日に日に赤みがさしていき、栗色の瞳には生気が満ちて、美しく、うつくしくなってゆく。
そしてとうとう、退院の日がやって来た。医師は最後の診察を終え、こう太鼓判を押した。
「うん、もう大丈夫。あなたはきっとこれから長く、『病院とは縁のない人生』を送れますよ!」
必死に笑顔を浮かべながら、医師はぽんと言葉で少女の背中を押した。少女はお礼を言い、背を向けて立ち去りかけて、ふっとふり向いて医師の目の前に駆け戻った。驚く医師に口づけんばかりの距離まで近づいて、少女は言った。
「――あのっ! また、また来てもかまいませんか?」
「……え? ええまあ、しばらくは経過観察のため、病院に通ってはいただきますが……それからはもう大丈夫……」
「いいえ、違うの、違うんです! そういうの関係なしに、病院に来ても良いですか……?」
とまどう医師の目の前で、少女はぽっとほおを赤らめ、はにかみながらこう言った。
「――あなたに逢いに、ここに来ても良いですか……?」
耳が壊れたのかと思った。医師は夢でも見ているのかと、自分の両ほおを思いっきりつねってみて、それから両目をうるうるに潤ませて笑い出した。
「――ええ、ええ! いらしてください、いくらでも! 何なら今から外にお茶でも……」
おばちゃん看護師が医師の横腹にぐいっとツッコミを入れる。何かと忙しい現役医師は、愛しげに軽く少女の肩を抱き、「それじゃあ、また近いうちに」と言って軽く手をふった。
少女を見送り、医師は見るからにご機嫌で、入院患者の診察を再開した。なじみの幼い少年が、医師を見上げてこう訊ねる。
「先生、なんか良いことあった? めっちゃ幸せそうなカオしてる」
「え? あははは、分かるかい? 僕ねえ、今ねえ、『人生で最初の恋人』が出来たんだ!」
「――……ふーん……おめでと」
ありがとう、と極上の笑顔で応える『恋愛に鈍感な青年医師』は、まったく気づいていなかった。目の前の少年の、今この瞬間の失恋に。
病院の窓の外、五月の新緑がちらちら緑の影を落とし、小鳥の歌が降りかかる。いつもながらの小鳥の歌は、祝福のようにも、なぐさめのようにも、ちりちり美しく響いていた。
(了)