エピローグ
二〇二三年 一月十三日 午後一〇時四七分
「そこ」
コンクリートの床の一部が陥没していた。折れ曲がって上を向いた鉄筋が罠のように広がっている。
爪の間に砂と垢が詰まった少女の手の上から杖を動かし、穴があることを認識させる。少女は『はぁ』と曖昧な声をもらした。
「階段は左側にある。右側は危険だから寄らないで」
廃ビルの中は雑多なガラクタとほこりで溢れていた。倒れたスチールラック。口が開かれた大量のダンボール。オリーブドラブ色のミリタリーバッグ。ミサイルに貫かれた壁の穴の前には土嚢が重なって壁をつくり、その手前には弾倉の抜かれたアサルトライフルが転がっていた。
わたしと少女は階段を上がった。少女はひとりで階段を上がってみせた。その様子を見てわたしは安心した。彼女なら大丈夫だ、と。
四階まであがる。下の階とはうってかわり、打ちっぱなしのコンクリート床が広がるばかり。別の意味で殺風景な室内だ。
崩れ落ちた壁から注ぐ月光が室内を明るく照らしていた。懐中電灯はポケットの中に収まったままだ。
「四階」
少女がいった。今度はわたしが『うん』と曖昧な言葉を返した。
壁に突きささったビスにナイロンの紐を伸ばした木製の箱がぶら下がっている。四角い箱の上面は蝶番が付いてフタになっている。グローブを着けた手でフタを開ける。中は空だった。
わたしは少女の手を取り、箱の位置を触って確認させた。
「四日後のお昼ごろに、この箱にこの手紙を入れて」
わたしは少女の手に封筒を包ませた。少女は封筒を手に取り軽くふってみせた。中でUSBが揺れる。
「いま、入れちゃだめなの」
「だめ。四日後。十七日のお昼。そうね。お祈りの鐘が聞こえたら入れてちょうだい」
少女の手から封筒をとり、ぼろきれのような少女のケープのポケットに入れる。ポケットの上から軽く二度叩き『よろしくね』とつぶやいた。
少女の手に札束を握らせながら約束事を復唱させる。
「封筒は絶対に開きません。お兄ちゃんにも、お母さんにも見せません」
「うん」
「誰から預かったかを訊かれても絶対に答えません」
「うん」
「四日後のお昼になったら必ずこの箱の中に入れます。忘れません。お昼ごはんの時間でも、先に入れに来ます」
「……お昼を食べてからでもいいから」
わたしは廃ビルに残り、少女をひとりで帰した。四階の崩れ落ちた壁に片脚を乗せ、砂ぼこりの舞う夜の街並みを見おろす。薄い褐色に染まった箱型の家が連なって伸びていき、はるかかなたの地平線は夜の空気がもたらす冷気に震えていた。
少女が杖をつきながら通りを歩く姿が見えた。暗がりから現れた人影が少女に飛びついた。わたしは瞬時に弓を構え、腰にぶら下げた矢筒から一本を取りだした。だがその手はすぐに止まった。夜の街並みに少女の嬉笑が響きわたる。月明りがふたりの姿を映す。杖をつく少女の横に、ほとんど同じ背丈の少年が立っていた。少年は怒鳴りながら少女の背中を押し、家の中に入るように促す。少年と少女はよく似た顔をしていた。
崩れ落ちた壁から外に飛びだす。空中で身体を反転させながらクロウガンを屋上に向かって放つ。ワイヤーに引かれ屋上に着くと、静かに待っていた大鷹が『チチチ』と批判するような声をだした。
「わかってる」
くちばしをなでられると、大鷹は甘えるように身体をこすりつけてきた。
『蓋然がそろえばそれらは必然に変ずる』。遥か昔、初代リフレクトマンと同じ世代のヒーローがそんなことをいったらしい。何て名前のヒーローが、何を指していったのかは知らない。だがわたしはその意見に同意する。
初めはただの夢想だった。蓋然がひとつ現れ、夢想の一部を形成した。そのあとも蓋然が現れた、そしてわたしはそれらを夢想の一部にしていった。
プロテクション・オブ・ジャスティスの七人でプリンスを裁く。
エクスのその言葉はわたしの鼓膜を苦々しく震わせた。ドミノマスクがわたしの狼狽する瞳を隠してくれることを期待した。
人びとはプリンスの処遇をヒーローに委ねた。馬鹿な。彼らは自分で選択することを放棄し、より強大な力を持つ存在にその選択をゆだねたのだ。
エクスは悩んでいた。国際政治に大きな影響を与える判断に自分たちが参画するべきかどうか。だが彼は一辺倒に拒むわけでもなかった。ある程度はその資格があると考えていたわけだ。
リックも悩んでいた。だが彼は怯えていただけだ。ひとりの人間の生死と、ひとつの政治的判断の責任を課されることに怯えていただけだ。だが彼も一辺倒に拒むわけではなかった。彼もまたある程度はその資格があると考えていたわけだ。
他のヒーローたちはそろって参画を主張した。まるで、自分達がこの地球という惑星の代表者であるかのように。
ずっとわたしは考えていた。
ヒーローって何だろう。
逆さ吊りにした男の腹に突き刺した銛を引き抜きながら、わたしはそんなことを考えていた。
ヒーローって何だろう。
局部麻酔を施した女の両脚をサビのついたノコギリで切断しながらわたしはそんなことを考えていた。
ヒーローって何だろう。
凧に張りつけて空に浮かべた男に弓矢を放ちながらわたしはそんなことを考えていた。
ヒーローって何だろう。
ずっとわたしはそんなことを考えていた。
わたしは自分の暴虐性を自覚していた。自分がヒーローにはふさわしくないことを、ヒーローの皮を被った悪魔であることを自覚していた。そしてそれを止めようとも思わなかった。悪魔には正当性があった。不当に不実に動植物を痛めつける人間を、同じように痛めつけて何が悪いというのか。
わたしには他のヒーローが輝いてみえた。彼らはわたしのような擬いものとは違う。そう思いながらも自分を正当化せずにはいられなかった。つまり彼らもわたしと同じ擬いものであればと、そんな希望を抱きながら仲間たちの正義の皮の下に探りをいれ始めたのだ。
彼らも擬いものだった。
わたしの気が晴れることはなかった。ヒーローは悪人だった。わたしは安堵せず逆に絶望した。正義の皮を被り、善人面を浮かべて世界中から称賛されるヒーローの偽善に吐き気を覚えた。もちろん、この嫌悪の対象には自分自身も含まれる。
わたしたちに人類の未来を決める権利なんてない。
だがわたしは反対の意思を伝えることはせず、自分の真意を悟られぬよう右に倣えで賛成の意を唱えた。
真意。そう。わたしはこの時、POJの全員を殺そうと心に決めたのだった。
殺す。殺す? 冗談でしょう。どうやって。自分はPOJの中で最も弱いことは自覚している。搦め手が必要だ。彼らの混乱を誘発するような。心のすき間を突いて、動揺を生み出す策略が――
「地下に新しく施設を作ろう」
父さんがそういった。
「パラノーマルセンサー。これがあれば外部からの接触は不可能だ」
父さんがそういった。
わたしの脳を雷光が駆け抜ける。
蓋然がそろい始めたのだ。
わたしは考えた。隔離された施設でヒーローたちを混乱の渦に落とし込む。冤罪を避けるため、ベースのどこかに隠れた真犯人を逃がさないため、彼らは殺人が繰り返されるベース内に留まることになるだろう。
わたし以外の犯人をベース内に侵入させる。わたしは被害者のふりをしながらその犯人を匿えばいい。よくできたジョークだ。最強のヒーローチームPOJを殺してくれと依頼されて快諾するような者は状況判断能力を欠いた痴れ者だ。そんな狂人と協力する気にはなれない。
そうだ。誰も信用できない。自分以外は誰も――
ロンドン贋作事件。
ジョージィ・フォージャー・プティングパイの複製能力をみて琴線が歪な高音を発した。複製。そうだ。そうだ。そうだ。
蓋然がそろい始めた。
だがまだ足りなかった。
クリスマスフロムヘル。
サタンクロースのワープ能力をみて琴線が狂気の低音を発した。
蓋然がそろい始めた。
だがまだ足りなかった。
ファントムシーフ。
時間を操る怪盗の姿を見て心の琴線が笑い始めた。
蓋然がそろい始めた。
だがまだ足りなかった。
POJが消える。地球を代表するヒーローチームが消失する。
その時。地球の平穏は誰が護るというのだろう。
足りなかった。
わたしには、覚悟が足りなかった。
だからわたしは探した。
自分の意志を継ぐ者を、ヒーローへの疑念を抱くヒーローを探した。
見つけた。それがネームレスだった。
わたしは偶然を装い、ネームレスと共にイスラエルの死海に現れた人食い怪魚を退治した。
去り際、わたしは訊ねた。怪魚の緑色の体液に全身を濡らしながら彼は答えた。
「助けられる側からしたら、名前なんてどうでもいいでしょう」
彼は気づいていた。ヒーローという主体の無意味性。ヒーローとは本質的に不要であることに気づいていた。
世界中のヒーローたちは自らがシンボルになることを欲していた。シンボルとして活躍することが、名を馳せることが悪を萎縮させ、平和につながると信じていた。
それは愚かな政治家と同じ発想だ。
ヒーローなんていらない。
ヒーローなんて堕ちるべきだ。
本当に必要なのは、助けを求める声に応えること。
それがヒーローだ。それ以上に、何がいる?
だからわたしは彼に託した。未来を、世界を、平和を、すべてを――
たぶんわたしは間違っている。
たぶんわたしは狂っている。
だってわたしはヒーローだから。
すでに墜ちたヒーローだから。
お読みいただきありがとうございました。
ほんのひと言でも構いません。ご感想をいただけると幸いです。