第七章
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二〇二三年 一月三〇日 午後九時五八分
暗闇の中に小さな火が灯る。タバコの先端が火に触れ、火は消える。数秒の間をおいて紫煙とため息が重なって暗闇の中に浮かび上がり、消えていく。
連綿と広がる巨大な雲が空を覆い月の姿を隠している。無風。雲は動かない。暗闇の中で揺れる紫煙だけがこの世界が時を刻み続けていることを証明していた。
半分ほど吸い終えたタバコの火を腰かけていた岩にこすりつける。この地球上で自分以外の生物は消え失せてしまったのではないか。そんな錯覚を覚えるほど静かな森林で、ロイ・フリーマンはコートのポケットに両手をいれた。
七十二時間に及ぶベースでの“会議”を終え、プリンスの処遇について結論をくだしたプロテクション・オブ・ジャスティスのヒーローたちを迎えに行く。ロイがそんな単純なミッションに赴いてから既に半月が過ぎていた。
ミッションは失敗に終わった。
いや、失敗だとかそんな言葉で語れるものではなかった。
地獄。
ベースの中でロイを待ち構えていたものは地獄だった。
POJの七人と若きヒーロープリンスの無惨な死骸。
首を斬られたものがいた。
身体を溶かされたものがいた。
首を絞められたものがいた。
皮を剥がされたものがいた。
刀で刺されたものがいた。
首をねじられたものがいた。
全身を四散させられたものがいた。
心臓を貫かれたものがいた。
地獄はこれで終わりではなかった。
ベース内の円卓の上にはPOJのヒーローたちの悪行を告発する証拠が置かれていた。ロイにとってこれら証拠はヒーローたちの死よりも衝撃的なものだった。信頼していたヒーローたちは、何度も世界を救ってきた平和の使者たちは悪人だった。
ドラゴンフライの部屋から手帳が発見された。
手帳にはベース内で起きた惨劇について詳細に記述されていた。もっとも、その内容は一六目の午後に自らが提案した身体検査についての記述で途切れていた。マッドネスガールの怒りとリフレクトマンの不信を買った彼はひとり私室に戻ったという。手記はそれで終わっていた。どうしてここで終わったのか。手記を残すことに意味が見いだせなくなったのか。いや、この後すぐに殺されたからと考えるのが妥当であろう。
ドラゴンフライが殺されマッドネスガールとリフレクトマンが残る。手帳に書かれている通り、双方が疑心暗鬼に陥っていたとしたら、互いに相手を殺人犯とみなしただろう。マッドネスガールを殺したのはリフレクトマンではないかとロイは推測していた。マッドネスガールの遺体はコーンフレークのように粉々に散らばっていた。また、脱ぎ捨てられた半透明の鎧にはマッドネスガールの血がかかっていた。もしマッドネスガールの怪力が全力のリフレクトウォールで弾き返されれば、何倍ものエネルギーとなって返ってくる自身の怪力にマッドネスガールの身体は砕け散るだろう。リフレクトマンは若く情緒不安定なヒーローだ。マッドネスガールに犯人であると告発され、リフレクトウォールの加減を誤った可能性は十分にあり得る。
だが問題がひとつ残る。最後に生き残ったリフレクトマンを殺したのは誰なのか。
リフレクトマンはマッドネスガールの肉と血を被った半透明の鎧を脱いでいた。鎧を脱ぎ、下着姿の彼は聖で上半身を貫かれて死亡した。聖は彼の心臓を貫き、死体に突き刺さったまま放置されていた。特別活動局が手配した検視官によると彼は刀を刺されて数秒後には絶命したに違いないそうだ。
自身の背中に日本刀を突き刺し心臓を貫くなど不可能だ。つまりリフレクトマンは自殺したわけではない。ではマッドネスガールに心臓を突き刺されたリフレクトマンは、最後の力をふり絞ってリフレクトウォールを展開してマッドネスガールを殺したのか。ちがう。リフレクトマンは数秒で絶命した。心臓を貫かれた彼に、そんな余裕はなかっただろう。
世界中にその名の知れたPOJと、世界中にその処遇が注目視されているプリンスの死を隠し通すことはできない。特別活動局は八人が三日間の会議中に死亡したことを公表した。ただし、POJ七人の“悪事”については箝口令がしかれた。これを知るのは特別活動局の中でもわずか数人の上層部に限られた。いまこの世界はヒーローたちの正義によってその安寧が保たれている。彼らヒーローの代名詞ともいえるのがPOJの七人であった。そんな七人の“悪事”が世間に知れ渡れば、世界中のヒーローたちの信頼が失われることは火を見るよりも明らかだ。POJと親しい一部のヒーローが捜査への協力を買って出たが特別活動局はその全てを拒んだ。“悪事”が外部に漏れだす可能性を少しでも減らしたかったからだ。
プリンスの死について、テラトリア皇国の反応は世間の予想に反して希薄だった。
テラトリア皇国は外交官と医師を連れてプリンスの遺体を検分すると、たしかに彼が亡くなっていることを確認して帰国した。国民にプリンスの死が知れ渡りテラトリア国内は歓喜の渦にのみ込まれたが、その歓喜もほんの数日で終わりを告げた。生真面目な性格のテラトリア国民は他人の死を祝うことにそれほどの興奮を見いだせなかったらしい。土のウロコの輸出制限や今後の国家間外交について、テラトリア皇国は口を閉ざしたままだ。テラトリアは再び“閉ざされた国”へともどる道を歩み始めていると世界中が評していた。
特別活動局を主導とした事件の捜査は遅々として進まなかった。ただし捜査の過程でドラゴンフライの手記と矛盾する証拠は何一つ出てこなかった。少なくともドラゴンフライが自らの意志で虚偽の記述をしていることはないと捜査陣は判断していた。
捜査開始から十日目。ロイに一通のメールが届いた。
メールの送り主は――
「お待たせしました」
頭上から聞こえた声に、ロイは思わず身構えた。一本の木の枝に暗闇の中でもひと際濃い闇がとまっていた。闇は木の枝から飛び降り、生い茂った草に物音を立てることなく着地する。
ロイが彼と会うのはこれが初めてだった。ほんの少しだけ風が吹いて雲が動く。雲のうすい箇所から月光が差しこみ、ふたりは淡いスポットライトに包まれた。
ロイの胸元あたりまでの身長。フードのついた黒いケープを身にまとい、フードは顔の半分を隠している。月光が砂糖のような白いのどもとをうつした。のどぼとけはまだ尖っていない。幼い。だが彼は、その実力は、特別活動局の中でも十分知れ渡っていた。
「メールでも伝えたが、まだきみの要望をのむと決めたわけではない。詳しい話を聞かせてもらおうか」
彼はケープの内側から一枚の封筒をとりだした。
ロイはその封筒を受け取った。びんせんに送り主の名前はなく、宛名だけが印字されている。月光にかざしてみると、中には小さなびんせんが入っていた。
「ベースでの事件が発覚したその日、近所の子どもがぼくのもとに届けてくれました。一月十七日午後〇〇時にぼくの所へ届けるよう依頼されたと」
「誰から」
「たぶん犯人から」
ロイの顔からさっと血の気が引いた。震える両手でびんせんの中の手紙を抜き取る。手紙には、プリントアウトされた横文字が無機質に並んでいた。
――ジューベーを殺した――
――エクストリームマンを殺した――
――プリンスを殺した――
――ハンターを殺した――
――ダイダロスを殺した――
――ドラゴンフライを殺した――
――マッドネスガールを殺した――
――リフレクトマンを殺した――
――全員殺した――
――わたしの意志を継ぐ者に問う――
――これでもヒーローは正義なのか――
――それではヒーローは正義なのか――
「こんな手紙、愉快犯のいたずらに――」
「手紙が届いたのはまさにあなたがベースの中にヒーローたちを迎えにいったその時です。この時点ではまだヒーローたちの死を知るものはこの世にはいなかった。犯人を除いて。それに――」
彼は右手にUSBメモリーを掲げていた。
「封筒に同封されていました」
彼はいう。
「POJの罪を告発する証拠がこの中にあります。罪を犯したヒーローを殺す。それが犯人の動機。どうしてヒーローたちの捜査協力を拒むのか。彼らの超常能力を用いれば捜査はもっと早く進むのに。その顔を見てわかりました。現場にも同じものが残されていたんですね」
「な、なんのことか――」
「とぼけるならこのUSBをマスメディアに届けます。エクストリームマンの正体だけで一か月はネタに困らないことでしょう」
ロイは彼の手のUSBに飛びかかった。だが彼は器用にロイの腕を取り地面に押さえつけた。
「ぼくは知りたい。ベースの中で何があったのか。犯人がどうして意志を継ぐものとしてぼくを指定してきたのか。だからお願いします。ぼくをベースの中に入れてください」
「……わかった」
ロイがそういうと、彼はロイの腕を離して立たせた。
「どうせ捜査は行き詰っているんだ。子どもひとりを中に入れたところで何も変わらんさ」
「子どもではありません」
彼は堂々と胸を張る。
「ぼくの名前はネームレス。どこにでもいる、ただのヒーローです」
2
特別活動局のロイ・フリーマンと若きヒーローネームレスは、うす暗い森を抜け静かな湖のほとりに出た。
「この下にベースがあるんですね」
ネームレスが黒いケープを揺らしながら水面に近づく。ロイは無線機を取り出し、特別活動局に連絡をとっていた。
ロイが無線機を切ると地面を介して轟音が周囲に響き渡り始めた。水面を割って湖の中央に黒い筒状の建造物が現れる。併せて湖の縁からその建造物までつながる橋も水中から現れた。
「事件に誰も介入させたくなくてな。いまもベースの周囲はパラノーマルセンサーを展開している。きみは超常能力をもたないヒーローだと聞いたが」
「その通りです。ぼくはどこにでもいる一般人ですから」
ネームレスが橋を渡り切ってもパラノーマルセンサーは反応しなかった。一月十七日の正午、ロイがPOJとプリンスを迎えにベースの中に入った時点ではパラノーマルセンサーは約三日の稼働を終えて停止していた。同機器の稼働費は莫大だった。プリンスの処遇についての会議が終えたであろう時点で外部からの介入を憂う必要がなくなったので停止されたわけだ。
ロイがPOJの死体を発見して初めにしたことはベースの封鎖とパラノーマルセンサー再稼働の指令だった。犯人を外に逃がすわけにはいかない。また、何者もこの事件現場に通すわけにはいかないから。
捜査への介入を防ぐため十七日にロイが指令をだしてからパラノーマルセンサーは一度も停止することなく稼働を続けている。また、立場の異なるヒーローやヴィランたちがそろって監視を続けていたベースへつながる換気口は、特別活動局の職員たちが引き継いで監視を行っている。
「会議開始前にPOJとプリンスが入る際、パラノーマルセンサーは反応した。それ以降パラノーマルセンサーは一度も反応していない。換気口からベースに出入りした者もいない。この無人島にはPOJがベースにこもっている間、特別活動局のエージェントが待機していた。当然だがパラノーマルセンサーに反応しない生物の出入りもなかった。このエレベーターの出入り口も水中から出てこなかった」
「外部からの侵入者はいないということですか」
「そうだ。中に入ったら事件の報告書を見せるよ」
エレベーターに乗り、ふたりは地下へと降りていく。エレベーターの扉が開き、無機質に輝く銀色の壁につつまれたホールに出る。そこには特別活動局の職員が二人待機していた。職員はロイに身分証の提示を求め、全身のボディチェックを行う。
「そいつも中に連れていく。文句はないな」
ボディチェックを受けながらロイがネームレスに親指を向ける。
「ボディチェックは受けていただかないと」
ロイの予想に反して、ネームレスは素直にボディチェックを受けた。ケープの内側から次々と出てくる凶悪な武器に職員たちは目を丸くする。ネームレスはかごいっぱいの武器を職員に預けた。
すりガラスがはめ込まれた両開きの自動ドアを越え、ふたりは中央に円卓がおかれた大広間へと入った。
「事件の捜査員が犯人を逃がした、もしくは捜査をかく乱するために証拠を隠蔽した可能性は」
ネームレスは首を後方に傾けながら訊ねた。
「あり得ないな。この事件に関与する捜査員はおれが長年の信頼をおくものに限った。それにベースを出入りする際には厳重なチェックが必要だ。捜査員が事件に関わっているなんてあり得ない」
「気を悪くされたなら謝ります」
「それぐらい懐疑的な方が信頼できる。捜査資料を見せよう」
ふたりは大広間の隅に置かれた簡易テーブルに着いた。テーブルの上には捜査資料が入ったファイルが整然と並んでいた。
「失礼します」
ネームレスは立ったままファイルを取る。彼は時間をかけてファイルを熟読した。
フードの下から時おり息をのむ音が聞こえる。ロイは同情した。ネームレスはプリンスが所属していたジュニアジャスティスの一員だ。ファイルの中には仲間であるプリンスと尊敬するPOJの身に降りかかった惨劇が詳細に記載されている。
「ヒーローたちの悪事は事実だったのですか」
ネームレスが訊ねる。ロイは渋い表情でうなずいた。
「事実だ。ジューベーは自国の政治に武力介入を行っていた。エクスの正体はパラセルズ。ハンターは私刑を進んで行っていた。ダイダロスは日常的に未成年を誘拐して強姦をくりかえしていた。セオドア・ダウンライトは不正が服を着て歩いているような悪人。マッドネスガールは少女たちからなるテロ組織を運営していた。そしてリフレクトマン――リチャード・キングスコートは万引きの常習犯だ。あいつの住む町でリチャードに万引き被害を受けた商店はゼロといっていい」
ファイルを読み終えると、ネームレスは館内を見てまわった。遺体が置かれていた位置には人形に囲われた白線が引いてある。そのひとつひとつと出会うたび、ネームレスは長く黙禱を捧げた。
施設内をすべて見てまわり大広間にもどると、ネームレスは再びファイルに目を通し始めた。
「大鷹はいま、どこに」
ネームレスが訊ねる。
「特別活動局で保護するつもりだったんだがな、暴れまわって手におえなかったので逃がしたよ。羽の中に証拠品が隠れていないかは何とかして調べた。何もなかった」
「事実として」
ファイルを開いたままネームレスがいう。
「八人のヒーローが亡くなりました。八人と大鷹はDNA検査で本人であることが確認されたそうですね」
「あぁ。もっともエクストリームマンの正体はパラセルズだがな。やつの細胞は世界中の研究所がサンプルによこせと申請していきているよ」
「偽物が殺されたという可能性はないわけですね。前提①『殺されたのは世間で活躍していたヒーローたちその人である』」
「ではその犯人はどこから来た。パラノーマルセンサーの話はもうしたな。POJとプリンスがベースに入ってから七十二時間の間、ベースに侵入したものはいなかった」
「外部からの侵入は不可能。前提②『POJとプリンスを殺した犯人はベース内部にいた』」
「犯人はPOJとプリンスがベースに入る前からベース内部に侵入していたのか。それもあり得ない。ベースでの会議を行う第一の目的は部外者の介入を防ぐことだった。おれたち特別活動局は会議が始まる前にベース内に侵入者が潜りこんでいないか何度も厳重にチェックした。POJとプリンスがベースに入った時、中に部外者はいなかった」
「ドラゴンフライの手記によると、彼らはこの三日間で何度も館内に犯人が潜りこんでいるのではないかと捜索しています。だが結局第三者は見つからなかった。ドラゴンフライは索敵用虫型ドローン“ホースフライ”を使っています。ホースフライのセンサーは透明人間や大気に溶け込むヴィランの存在も感知します。ドラゴンフライを前にして隠れられるものがこの世に存在するとは思えません」
「そのドラゴンフライとリフレクトマンが見たという人影はどう説明する。図書室へとつながるらせん階段でふたりは何者かの姿を見たと書いてあったな」
「わかりません」
ネームレスはフードの中に手をいれて髪をかきむしった。ロイはクーラーボックスからペットボトルの水を取りだした。
「人影はただの見間違えだったという可能性は?」
ペットボトルを差しだしながらロイがいう。ネームレスはそれを受けとり一度だけ口をつけると、頭を下げてから再び口を開く。
「ドラゴンフライとマッドネスガールが図書室のふたつの出入り口に立ち、リフレクトマンが図書室の中を捜索した。リフレクトマンは時間をかけて図書室の中を見てまわったのに誰も見つからなかった。たしかに。ドラゴンフライとリフレクトマンは見間違えただけという解釈はこの事態を合理的に説明してくれます。精神的疲弊から幻覚を見たという可能性は十分あります。ですがそれと同時に、この人影が実在すると解釈すれば事件全体が合理的に説明できます。第三者が存在した。八人を殺した犯人はたしかにこの建物に存在したのです。ミスターフリーマン。ベース内に毛髪や体液など侵入者の痕跡はなかったのですか」
「ない。ゼロだ。ベースの中にいたのは、八人のヒーローと大鷹だけ。現代科学がそう証言している」
「第三者の存在を証明する物理的な証拠はなしというわけですか。前提③『ベース内部にいたのはPOJとプリンスと大鷹に限られる』。前提②と③を満たす答えは、POJの七人かプリンスが犯人だったということになるが、この場合大きな問題がひとつ残ります。七人が死に、最後に残ったひとりはどうやって死んだのか」
「検視官が調べたところ、殺された順番はおおむね手記に書かれていた通りで間違いないようだ。ジューベーが十四日から十五日にかけての夜中に、プリンスが十五日の夜中に殺された。ハンターは十六日の早朝に殺され、ダイダロスは同日の昼ごろに牢屋の中で殺された。手記に記載されている死体はここまで。だが検視官によるとドラゴンフライが殺されたのは十七日の早朝。リフレクトマンは同日の朝六時から八時の間に死亡したそうだ」
「エクストリームマンとマッドネスガールの死亡推定時刻はやっぱりわからなかったんですね」
「片やパラセルズ、片や肉体が四散した地底人。調べようがないが、パラセルズの死亡推定時刻は手記によるとプリンスとほぼ同時刻となる。手記に従えばマッドネスガールは少なくともダイダロスより後に殺されたということになるな」
「手記と捜査を正しいものと仮定すると、最後に殺されたのは十七日の朝に殺されたリフレクトマンか、死亡推定時刻がわからないマッドネスガールになりますね。リフレクトマンは背後から聖で心臓を貫かれて死亡。自分で自分の背中を日本刀で突き刺すなんて不可能です。よって、リフレクトマンは他殺。ではマッドネスガールは? ベース内にいたヒーローたちの中で、彼女をそんな惨い目にあわせられるヒーローはひとりしかいません。リフレクトマン。彼がリフレクトウォールを全力で展開して、マッドネスガールの全力の攻撃を弾きかえせば――」
「おれも同じことを考えていたよ」
ロイはポケットからライターを取り出し、手持無沙汰に火を点けては消してをくり返し始めた。
「マッドネスガールを殺したのはリフレクトマンだ。ではリフレクトマンが犯人か? いや。あの粗忽者がこんな大掛かりな連続殺人を計画できるとは思えない。動機も思いつかないし、何よりリフレクトマンは何者かに聖で刺し殺されたんだ。リフレクトマンがマッドネスガールを殺した後に、何者かがリフレクトマンを殺した。ではその何者かとは誰か。死亡推定時刻が判明していないエクストリームマンか? だがエクストリームマンが生きているとしたら、それはドラゴンフライの手記と矛盾する。エクストリームマンは十五日の夜中に殺されたんだ。彼を犯人とするなら、何故ドラゴンフライが誤った記述をしたのかを説明しなければならない」
「エクストリームマンは十五日の夜に殺されたと考えるのが妥当ですね。殺された順番を整理しましょう。ジューベー、プリンス、エクストリームマン、ハンター、ダイダロス、ドラゴンフライまたはマッドネスガール、そして最後にリフレクトマン。こうすると最後に残ったリフレクトマンが犯人と見なしたいが、リフレクトマンは何者かに殺されたことは確実。つまり、リフレクトマンを殺した何者かが存在したはずなのに、これは『ベース内部にいたのはPOJとプリンスと大鷹に限られる』という前提③と矛盾します」
「なぁ、馬鹿げた推理だとわかってはいるが。ヒーローのお前からみてどうだ。ハンターの大鷹が犯人って可能性は……」
ロイは口もとを指でひっかきながらいった。
ネームレスは冷たく首をふった。
「あり得ません。あの鳥はたしかに体格こそ魔術の影響で巨大化していますが、知能は一般的な鷹に毛の生えた程度のもの。所詮は畜生ですよ」
ロイがPOJを迎えにベースに入った時、大鷹は大広間の隅で身体を倒して眠っていた。事件とは無関係とばかりに安眠を貪る大鷹を見てロイは苛立ちを覚えた。
ネームレスはペットボトルの水をひと口で飲み干した。フードの中で小さく悪態をついてから再びファイルを開く。
「わからない。犯人はどうやってベースに入ったんだ。POJたちは何度も館内を探索しているのに、どうして犯人は見つからなかった」
「だが、外に出た方法は既に判明している」
ロイは気まずそうにいった。
「十七日の正午。わたしがエレベーターでベースに入る時、パラノーマルセンサーは解除された。あれは金食い虫だからな。会議が終了した時点で介入の心配はいらなくなり解除させた。犯人はこのタイミングで何か超能力を使ってベースの外部に逃げ出したんだ」
「パラノーマルセンサーが十七日の正午に解除されるのは周知の事実だったのですか」
「POJの何人かと特別活動局の上層部は知っていた」
「そうですか」
ネームレスはペットボトルを床に叩きつけた。
「脱出方法がわかったところで、侵入方法がわからなければ意味がない。この事件の大きな謎は、犯人がどこへ行ったかではない。犯人はどこから来たかだ」
両手で顔を覆い重いため息を吐きだす。
「ベースの中を調べれば事件の真相が判明すると思ったのに、とんだ思い違いでした」
ネームレスはフードを被った頭を深々と下げる。ロイは落胆する若きヒーローの肩を優しく叩いた。
「無理もない。わたしたち大人だって、この難事件に手を焼いているんだ。いくらヒーローとはいえ、子どものきみに解決されたら立つ瀬がないというものさ」
「『――わたしの意志を継ぐ者に問う――』」
ネームレスは黒いケープの内側から例の手紙を取りだした。
「犯人はどうしてぼくにこんな手紙を送ってきたのでしょう。意志を継ぐって、ぼくにもヒーローを殺せというのですか。そんなことぼくは望んでいない。仮にヒーローが悪事を働いていたとしても、それと同じく誰かを助けたということだって事実でしょう。ぼくには犯人の気持ちが理解できません」
「もういいだろう。ネームレス、外に出よう。あとは任せてくれ。必ず真相を――」
館内にけたたましいサイレンの音が響きわたった。ロイが『まさか』とつぶやくとほぼ同時にロイの無線機が雑音を発した。
「ロイ、聞こえるか!」
無線機から焦燥に染まった男の声が響きわたる。特別活動局開発室長の声だ。
「たった今、パラノーマルセンサーが反応した。何者かがベースに侵入したぞ!」
「……了解した!」
ロイはホルスターから自動拳銃を取り出しスライドを引いた。スライドから手を離そうとしたその時、ロイの手の上に何者かの手が重なった。
「特別活動局はお呼びじゃないんだよ」
声の主はロイの真横に立ちロイの自動拳銃を抑えていた。ロイが顔を横に向けようとするのとほぼ同時に、男はその場に少しだけかがんだ。男の頭があったところに、稲妻のような速度のネームレスの蹴りが駆ける。男は背後からの攻撃を、背中を向けたまま避けてみせたのだ。
男は空振りに終わったネームレスの足を取ると、片手で放ってみせた。ネームレスの小さな身体は大きく宙を飛び、円卓の上に叩きつけられ二度ほど跳ねて床に落ちた。
ロイは男の足の甲を力いっぱい踏みつけた。だが水色のボディスーツに包まれた男の足先は、蛇の腹のようにしなやかに曲がってロイの革靴を避けた。ロイの視線が奇妙に曲がった男の足にくぎ付けになる。ロイは自分の手から何かが崩れ落ちていくのに気づいた。自動拳銃だった。この一瞬のうちに自動拳銃が解体され、ばらばらになった部品が床に落ちていったのだ。
「役目を終えるよう拳銃に命令した。悪いが、そんな野蛮な武器は見せないでくれ」
光沢のある水色のボディスーツが筋肉質な肉体を包んでいる。武器らしきものは何一つ携帯していないが、その肉体が、たたずまいが、視線が、口もとが、凶器のような危険性を発していた。顔立ちはアジア系。黒い短髪の中に光沢を放ち触手のようにうねる銀色の房がいくつも紛れこんでいる。おおよそ、現代人とは思えない奇抜な外見だ。
自動ドアが開きエレベーターホールからふたりの特別活動局員が現れた。彼らは闖入者の姿を見て目を見開いた。ホルスターから自動拳銃を取り出そうとするが、突然その身体はエレベーターの方へと飛ばされていく。
「邪魔しないでくれ」
男は小さく上げた片手をエレベーターホールへと向けていた。自動ドアが閉まり、エレベーターが上昇していく稼働音がベース内に響き渡った。エレベーターを稼働するには、備え付けのスイッチを押さなければならない。この男は大広間から隣の部屋にあるスイッチを押してみせたのだ。どうやって。彼ならできる。何故なら彼は――
「あんた誰だ」
ネームレスが痛む腕をかばいながら訊ねた。男はネームレスを凝視しながら答えた。
「フォース家当主、クラナリ・フォース。わけあって二十九世紀からやってきた」
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「クラナリ。おまえ、いまさら!」
ロイはクラナリの手をふりはらった。
「どうしてタイムフォンに応答しなかった。お前の子どもが、プリンスがテラトリア皇国の皇女を殺害した。特別活動局は未来人類を招いて会合を行う準備も進めていたというのに。二十九世紀に暮らすお前ならこの過去の事件のことを知っているはずだ。これほどの大事件が記録されないはずはない」
「もちろんだ」
クラナリは両手を背中に回して数メートルロイから離れた。ふたりの間の距離が広がるにつれ、クラナリの短い髪がゆっくりと長く伸びていく。と思ったら、その長い髪が一瞬で消えてスキンヘッドに変わる。二十九世紀の落ち着きのない髪型がロイの苛立ちを増幅させた。
「自分の子どもがテラトリアの皇女を殺すと知っておきながらプリンスを二十一世紀に送りこんだのか。お前ら未来人類はどういう倫理観をしているんだ」
「委員会が定めた。逆らうわけにはいかなかった。なにが起きたのか。これからなにが起こるのか。わたしはすべて知っている。だが、それを伝えるためにわたしは二十一世紀に里帰りしたわけではない。ネームレス」
ネームレスは無言のままクラナリに近づく。クラナリは両膝を曲げてかがみこみ、ネームレスのフードをとった。フードの下から黒曜石のように妖艶な輝きを放つバイザーをつけた少年が現れる。ネームレスは無言のままだ。抵抗もしない。ただ、目の前の男を、二十世紀に生まれ、未来人類の女性を妻とし、二十九世紀を自身が生きる場所として選んだこの奇妙な男を――彼もまた――凝視していた。
「わたしは審判者だ。きみを試しにきた」
クラナリは厳かな態度でいう。
「きみに訊ねる。ヒーローは必要か?」
「どういうつもりですか」
ネームレスは問い返した。言葉の意味がわからなかったわけではない。言葉の意図がわからなかっただけだ。
「きみは、ヒーローのふたつの側面を知った。あるひとりのヒーローがいる。そのヒーローは、ある時は完璧な善であり、ある時は完璧な悪である。ヒーローの代名詞であるPOJの実績は確かなものだ。彼らは何度もこの地球の危機を救ってきた。多くの人類の命を救ってきた。それらの行いは善だ。この善が事実であることと同じように、彼らが犯した悪は事実だ。ヒーローを認め、ヒーローを求めるならば悪もまた認めなければならないわけだ」
「すべてのヒーローが悪事を働いているわけではありません」
ネームレスは毅然と返す。だがクラナリは静かに首をふった。
「力を持つとは可能性を持つということ。可能性を持てば、ひとはその一歩を踏み出す生き物だ。ヒーローとは行動性の塊。一般人とは違うんだ。ヒーローは簡単に一歩を踏み出す。自分の行いを正当化する。絶対的な正義を行っているからこそ、軽微な悪は許されると思いこむ。もしくは、絶対的な正義を行っているから、自分の行うことは正義だと信じて疑わない。それがヒーローなんだ。もう一度問う。ネームレス。ヒーローは必要か? 絶対的な力を有した個人というものは本当に必要か。ヒーローなんてものはこの世にいない方がいい。きみは、そう思わないか」
ネームレスは顔を伏せた。沈黙が無機質な室内を支配する。幼いヒーローは人さし指の第二関節に噛みついた。赤い血がしたたって床に落ちる。ロイが駆け寄ろうとするが、クラナリが制して流し目を送る。
たっぷりと時間をかけてからネームレスは答えた。
「間違っています」
ネームレスは頭をあげると、両目を覆うバイザーを外した。雪のように白い目が顕わになる。下弦の月のように歪むまぶたに重なるふたつの白い瞳は、反撃を企む敵意に満ちていた。
「問うべきことが間違っている。ヒーローが善か悪かなんじゃない。行動が善か悪かなんだ。必要なのはヒーローじゃない。ただ、誰かを救うという行動だけだ。評価され、称賛を受けるべきはヒーローじゃない。行動です。誰かを救ったという行動。人類を脅かす敵を倒す。巨大な津波から街を守る。ひったくりに奪われたカバンを取り返す。カツアゲされている少年を救う。それだけで十分。必要なのは行動だけなんです」
「ヒーローはいらないっていうのか。そんなことはない」
ロイが非難の声をあげた。その声色は怯えと怒りが入り混じっていた。
「おまえたちヒーローが何度ひとびとを救ってきたと思っているんだ。人間離れした超人を称賛して何が悪い。お前たちの活躍を描いたコミックスは道徳の授業にも使われているんだぞ。ヒーローたちは倫理的模範として社会的な役目を果たしている。この世の中は実在する善を求めているんだ」
「主語じゃない。動詞なんです。善きことは動詞に帰属する。そして人々が求めているものは動詞である以上、ぼくらヒーローはただ救うという、ただそれだけを行う点に価値がある。ヒーローそのひとを称賛したければすればいい。だけどヒーローはそれを享受するべきじゃない。何故なら、それを与えられるべきは誰かを助けたという行為なんだから」
「それが、きみの答えか」
クラナリがネームレスを見つめる。未来人類の短い髪がキーボードの上で踊る両手のようにうごめいている。
「はい」
ネームレスは答える。白い両目が正面からクラナリを見据えた。やがてクラナリは小さな息をもらすと、繰り返しうなずきながら天井を見上げた。両ほほをつたう涙が轍を作り床に落ちていく。
「合格だ」
クラナリは笑顔をみせた。
「必要なのはヒーローじゃない。誰かを救うという行為そのもの。この信念が向こう数世紀にわたるヒーロー活動の指針となる。この信念の起源に立ち会うことができて光栄に思うよ」
「現代人にとってはどうでもいい話です」
ネームレスはバイザー拾いあげて装着すると、冷めた口調でそういった。
「未来なんか知ったことか。ぼくはただ目の前のひとつひとつを積み重ねて生きていくだけです。ミスターフォース。いまのぼくにとって火急の件は、このベースで起きた殺人事件の真相究明です。教えてください。犯人は誰ですか。誰が、どうやってヒーローたちを殺したのですか。『――わたしの意志を継ぐ者に問う――』。どうして犯人はぼくを選んだ。犯人の意志ってなんですか」
矢継ぎ早にネームレスは訊ねた。クラナリは何もいわず、掲げた手首を宙でひねった。
クラナリの手の上にソフトボールほどの大きさのスノードームが現れた。雪を扮した白い粒が一面に広がっており、その白い粒の上に四本足のテーブルが立っている。テーブルの上には小さなスノードームが置いてあり、テーブルの両脇に立つふたりの子どもがそれを見つめている。子どもたちはお揃いの黄色の帽子をかぶっていた。ひとりはテーブルに頬杖をつき、ひとりはテーブルに両手をついて飛び上がっている。
「プレゼントだ」
クラナリはスノードームを放った。ネームレスは片手で受け取り、それを見つめる。ドームの中で雪が舞い、ふたりの子どもの頭に白い粒が積もりだす。
「真相にたどり着くためのヒントは全てこのベースの中にある。きみはきみの思うままに推理を続けろ。かつてのきみがそうしたようにな」
「これは?」
「スノードームを知らないのか」
「……このスノードームが事件と何か関係あるのですか」
「ないよ」
クラナリはしれっと答える。ネームレスはスノードームを力強く投げ返すが、クラナリが人さし指をふると、スノードームは空中でUターンをしてネームレスの頭に当たった。
「気をつけてくれよ。そのスノードームはフォース家に伝わる家宝なんだ」
「どうしてそんな大事なものをこいつに渡す」
ロイが訊ねる。
「大切なことだから。いや、必要なことというべきかな。記録によると、そのスノードームがきみをこの事件の真相に導いてくれたそうだ。だからそのスノードームは大切に保管されてきた。来る時、フォース家の当主が元の持ち主に返しに行くためにね」
ネームレスが口を開きかけると同時に、クラナリが指を一本立てて指揮者のようにそれを振る。クラナリの全身が無数の細やかな粒に別れて宙に浮かぶ。時計の針の音が室内に響き渡る。
「待って!」
ネームレスが叫ぶ。彼は訊きたかった。未来人類の彼ならばこの事件の犯人を知っている。真相を知っている。わざわざ自分が推理する必要なんてない。教えてくれ。誰が殺した。どうやって殺した。どうして自分は『意志を継ぐもの』に選ばれたんだ。
だが彼はそれを訊ねなかった。これが最後とわかっていながら、彼が口にした言葉は――
「プリンスを許してあげてください」
クラナリの表情が固まった。
「プリンスは、いやなやつでした。いつも二十一世紀を馬鹿にしていた。音楽は最低。絵画にはセンスがない。ホットドッグは犬のエサだって、いつも悪態をついていた。だけど彼はヒーローだった。必死にこの時代のひとびとを救っていました。テラトリア皇女を殺したことが事実だとしても、彼を見捨てないであげてください」
「当然だ」
無数の粒と化したクラナリの全身から淡い光が放出される。
「いまでもあの子は、わたしの愛する息子だよ」
大広間が白い光に包まれた。その光は瞬時に消え、そしてクラナリを未来へと連れ帰った。
パラノーマルセンサーのアラートが鳴り響く。ロイの無線機から、センサーに反応があったことを、どうしてこの短時間に無線機が通じなかったのかを訊ねるがなり声が聞こえる。
ロイはネームレスの手にあるスノードームを見つめていた。スノードームが真実に導く。本当か。観光地の土産店でほこりを被っているようなこのおもちゃがどうして。
ネームレスは違った。彼は泣いていた。片手で顔を覆い、声を殺して泣いていた。プリンスは誤った。だが彼の父親は我が子を見捨てたりはしなかった。
ネームレスはずっと憂いていた。重罪人となったプリンスを、はるか遠くの未来を生きる家族が見捨てたのではないかと。
そうではなかった。
決して、そうではなかったのだ。
4
上下に振ったスノードームを円卓の上におく。ロイが手に取り、逆さまにしたりガラスを叩いたりとしてみる。
「ふつうのスノードームだよなぁ。事件とどんな関係があるっていうんだ」
「関係はないってミスタークラナリはいっていましたよ」
ケープの内側に両腕を隠したネームレスは渋い声を発する。
「だけど関係ないとしたらどうして。二十九世紀に伝わる記録によると、このスノードームがぼくを真実に導いてくれるそうです。わけがわかりません」
「『真相にたどり着くためのヒントは全てこのベースの中にある』ってのもなぁ。事件はこのベースの中で起きたんだぞ。ヒントがベースの中にあるのは当たり前じゃないか。そもそも特別活動局は十分すぎるほどこのベースの中を捜査した。ヒントは既に揃っている。それなのに真相にたどり着けなくて困っているというのに」
ネームレスはスノードームを手に取り、ゆっくりと表面のガラスをなでた。照明にかざして下から見つめる。
ネームレスの手からスノードームが落ちる。円卓の上で跳ねるスノードームを見てロイが『おい』と声を荒げる。ネームレスはロイにもスノードームにも意を介さず、円卓から離れると、大広間の壁に飾られたPOJのヒーローたちの活躍を描いたコミックスを額縁から外してまわりはじめた。
「こらまて。何をしているんだ」
「読むんですよ」
ネームレスはコミックスの束を脇に抱えながら答える。
「読むって。冗談だろ。マンガなんて読んで何になるっていうんだ。この非常時にただのガキに戻らないでくれ」
ロイの非難を無視して、ネームレスは大広間の壁に飾られた全てのコミックスを回収した。続いてネームレスはコミックスを抱えたまま図書室へとつながる螺旋階段をのぼり始めた。仕方なしにロイもそのあとを追う。
事件後にロイたちが訪れると、二階にある図書室はほぼすべての書棚が倒れ、いたるところに本が散乱していた。ここでヒーローと犯人との格闘が行われたのかと慎重に現場検証が行われたが、この図書室からは怪しげな証拠どころか血痕のひとつさえ見つからなかった。十分な捜査の末、いまは事件前と変わらない状態に復旧されている。
ネームレスは図書室の照明をつけると、ヒーローたちのコミックスが収められた本棚の前で止まった。その場に座りこみ、まず大広間から持ってきたコミックスを読み始める。
そんなネームレスの背後のロイは、ため息をつきながら大広間にもどった。エレベーターホールに入ると、クラナリによって地上へと送られた特別活動局の職員が戻っていた。『さっきのは何だったんです』とロイに詰め寄るが、ロイはそれを無視して職員のポケットからチョコレートバーを抜きとる。大広間に用意されたクーラーボックスからミネラルウォーターのペットボトルを二本とって再び図書室に行く。ネームレスは先ほどと変わらずコミックスを熟読していた。ロイが図書室にもどってきたことを、それどころかそもそも図書室から離れたことさえも気づいていないようだった。
ロイは何もいわずチョコレートバーとペットボトルをネームレスのそばに置く。ネームレスはちらりと視線をおくり、小さく頭を下げた。
ロイは書棚に置かれたコミックスの数をざっくりと数えてみた。裕に三百は超えそうだ。これを読破するつもりか。いったいどれほど時間がかかるというのか。
「食事も用意させる。気が済むまで続けてくれ」
「すみません」
早口だった。
「かまわない。こうなったら、お前が最後の頼りだ」
ロイはそば本棚に寄りかかり、コミックスを熟読するネームレスを見つめた。
二十九世紀から来たクラナリ・フォースによると、スノードームを見てネームレスはこの事件の真実にたどり着いたという。ヒーローたちのコミックスを熟読する今現在も、真実へとつながる道程を進んでいるということだろうか。
「たしかにコミックスも『このベースの中にあるもの』だが。それが事件と何の関係があるっていうんだ」
ネームレスが不眠不休でコミックスを読破するのに約四日かかった。
最後の一冊を読み終えたその時、ネームレスは両手足を床につき激しく嘔吐した。
壊れた蛇口から噴出する水のように胃液が噴き出す。未消化のレーションが混じったうす緑色の胃液が床に無造作に置かれたコミックスに降りそそいだ。
食事に毒を盛られたわけではない。体調が悪化したわけでもない。
ただ彼は自身でたどり着いた真実の重みに押しつぶされただけだった。
ロイがネームレスに駆けよる。口に指をつっこみ、胃の中身を全て吐かせる。ネームレスが床に転がったペットボトルを求め、ロイがそれをネームレスの灰色のくちびるにあてがった。
「スノードームに」
あえぎ声の狭間でネームレスはいった。
「スノードームの中にスノードーム。世界の中に世界があったんです」
5
二〇二三年 二月三日 午後六時〇〇分
ふたりは円卓の席に着いていた。円卓の上にはクラナリ・フォースが持ってきたスノードームが置いてある。スノードームの中には小さなテーブルが置かれ、その上に置かれた小さなスノードームをふたりの子どもが見つめている。
「おさらいです」
口火を切ったのはネームレスだった。フードを脱ぎ、バイザーを外し、白い両目を顕わにしている。目の下にはクマが走り、全身は疲労に染まっていた。
「前提①『殺されたのは世間で活躍していたヒーローたちその人である』」
指を一本立ててネームレスはいう。
「前提②『POJとプリンスを殺した犯人はベース内部にいた』」
指をもう一本立ててネームレスはいう。
「前提③『ベース内部にいたのはPOJとプリンスと大鷹に限られる』」
そして最後にもう一本。
「四日前に確認した事件の前提だな」
ロイは無造作に伸びたひげを弄りだした。シャツはよれ、目元には目ヤニが残っている。
「会議が始まってから何者かがベース内部に侵入した可能性は捨てます。パラノーマルセンサーは常に稼働していた。エレベーターを使いベースに入ったものはいない。換気口からの出入りも不可能」
「すると犯人はベースの中にいたっていうのか。だがPOJの七人とプリンスがベースに入った時点では、彼ら以外にベースの中に人間はいなかった。特別活動局は彼らが来る前に侵入者が紛れ込んでいないか何度も確認した。それにドラゴンフライの手記によると、POJは何度もベース内に侵入者がいないか確認している。それでも侵入者は見つからなかったんだぞ」
「そうです。犯人は我々が想像し得ない方法でベースの中に隠れていたのです」
「そんな馬鹿な……」
「ドラゴンフライの手記にそってひとつひとつの事件を考えていきましょう。まず最初に、十四日の夜から十五日の朝にかけてジューベーが殺されました。首を切断されての失血死。POJ最強の一画を担うジューベーがこのような最期を迎えるとは正直おどろきです」
「ジューベーの死には不自然なところがある。『セツナ』だ。あいつの身体は自身に向けられた敵意に反応して、ほんの先の未来予知を行い、自身に起きる悲劇を回避する。それなのにジューベーは聖を取られ、その首を斬られた」
「不思議なことは何もありません」
ネームレスはそういい切った。
「ジューベーを殺すのは容易なことです」
「どうやるんだ」
ロイが訝しむ。ネームレスは円卓を回ってロイの背後に着く。ロイがふり向こうとするが、ネームレスは彼を制した。
「切腹です。ジューベーは自らの腹を斬ろうとした。武士は自らの腹を確実に死に至る程度に斬ることで罪から許され、背後に立つ介錯人はそれ以上武士が苦しまないようその首を切り落とすのです」
ネームレスは手刀をロイの首筋に当てた。ロイはハッと目を開きふり返る。
「切腹。まさかそんな。だがジューベーの腹に傷跡なんてなかったぞ」
「犯人はジューベーが自らの腹を斬る直前に彼の首を斬り落としたのです。ジューベーは自分の腹に刃を突き刺す瞬間、自らの首が飛ぶ様をセツナで予知しました。だが彼はそれを当然と受け入れた。自らが腹を斬った後で首を刎ねられるのは当然だったからです。だが犯人は許さなかった。自らの罪を悔いたままジューベーを死に至らしめたい。もしくは、自らのルールで自らを裁くなんて傲慢に過ぎるということかもしれません。ジューベーが切腹に至った理由は、当然犯人が告発した『悪事』です。逃れられないと悟ったジューベーに犯人は切腹を勧め、もしくはジューベーが自ら選択し、犯人は介錯人を務めると申し出る。犯人はどうやってジューベーから聖を奪いとったのか。奪いとったのではありません。ジューベーから託されたのです。これで介錯を務めるよう頼まれたのです」
「白兵戦最強とまでいわれたジューベーが、自らの武器で殺された理由……なるほど。それならたしかに納得がゆく。これなら、聖を振り落ろすことさえできれば、誰にでも犯行は可能だ」
「ジューベーを最初に殺すことには理由がありました。聖です。ゲーミングランドから持ち帰ったこの日本刀は、現実世界の日本刀と異なり、永遠に刃こぼれをおこさない最強の武器でした。これからの犯行にあたり、これほど心強いものはありません」
「エクスは……」
「彼を殺すのもこれまた簡単です。酢を浴びせるだけでいいのですから。犯人は彼の正体がパラセルズであることを知っていた。おそらく、過去の戦いで負傷した彼の肉片を回収して弱点を探り当てたのでしょう。パラセルズという正体もその時に知ったに違いありません。次にプリンス。彼を殺すのも簡単です」
ネームレスは友の死を口にして少しだけうつむいた。だが彼は自身のほほを強くはたき、すぐに顔を上げた。
「プリンスはシャットダウンリングを着けられていました。シャットダウンリングは超能力の抑制だけでなく、身体の活動をも抑制します。リングのせいでまともに身体を動かせない少年を絞殺するのは容易なことです」
「ジューベー。エクス。そしてプリンス。この三人は比較的楽に殺せるということか。驚いたな。世界中のヒーローの中でもトップクラスの戦闘能力をもつジューベーとエクスがこんなにも簡単に……」
「問題は残りの五人です。彼らは戦闘能力でいえばジューベーとエクストリームマンに劣りますが、それでも一流のヒーローであることには違いありません。ましてや彼らは犯人がこの二人を殺し得る強者であり、さらには自身の悪事を告発するのではないかと警戒しています。そんな彼らを殺すのは容易ではありません」
「だが犯人はまずハンターを殺してみせた」
ロイは弓矢をひくジェスチャーをしてみせた。
「彼女はエクスやジューベーと違い超能力をもっていない一般人だった。だが彼女は超人的な身体能力と様々な武器を用いる天才的なテクニック、そして十代とは思えない洞察力を買われてPOJの正式なメンバーに採用された。そんな彼女を殺すなんて一筋縄ではいかないぞ」
「おっしゃる通りです」
ネームレスは円卓の上に伸ばした二本の指を立たせた。ハンターの死にざま――バスタブに逆さ吊りにされていた様子を模しているようだ。
「ハンターは腹部を刺されたのち、全身の皮膚を裂かれていました。いかに切れ味の鋭い聖といえども、人間ひとりの肌を剥がすのには時間を要します。気になるのは大鷹です。大鷹は何をしていたのでしょう。自分の主人が殺され、その死体を冒涜的に穢されている間、この巨大な鳥は何をしていたのでしょう。犯人に襲いかかったとは思えません。犯人は聖を手にしていた。大鷹が襲いかかって来れば一太刀をあびせるくらいはするでしょう。大鷹に怪我をした様子はありませんでした。ドラゴンフライの手記にもそのようなことは書いてありません」
「事件後に大鷹の身体を調べたが、怪我はしていなかったな」
ロイがうなずく。ネームレスもうなずき返す。
「つまりこの巨大な鳥はハンターが殺される間、傍観を続けていたわけです。ここで犯人の条件がひとつ追加されます。つまり、犯人は大鷹が敵意を抱いていない相手。親愛の情を抱いているといっても過言ではありません。大鷹にとってその相手なら自分の主人が害されても平然としていられるものが犯人の条件として加えられるわけです」
「ハンターは大鷹の主人だろ。そんな……主人を殺すことを許せる相手なんて、そんなやつがこの世にいるとは思えない」
「ハンターが四人目の被害者となることで犯人には利点が生まれます。ハンターは孤児でしたが、義理の父親がいました。ダイダロスです。彼が義理の娘を溺愛していることは、世界中に知れ渡っています。この設定は読者にも好評で、コミックスにもよく描かれています。そんな愛娘が殺害され無惨な姿にさらされたとなっては、ダイダロスはどうなるでしょう。狂います。狂うに決まっています。蓋然的ではありますが、限りなく必然に近い蓋然です。そしてダイダロスはチームの年長者であり、精神的支柱を務めていました。ハンターを殺すことで、チームの精神的支柱をぽっきりと折ることができるのです」
「不謹慎だが、犯人の気持ちはわかるな」
ロイは親指の爪を弄りながらいう。
「放埓なところはあったが、ダイダロスは責任感に溢れる男だった。出生も性格も異なるチームの意見を最終的にまとめるのはダイダロスの仕事だった。POJのメンバーは心の底からダイダロスを信用していた」
「犯人にとっては都合のいいことに、ダイダロスにはシャットダウンリングが着けられました。牢屋に放り込まれたダイダロスを守るリフレクトウォールも、犯人にとっては障害になりません。犯人はパラセルズの弱点にまでたどり着いていました。他の、ましてやこの地球上で生まれたヒーローの弱点も同じく見抜いていると考えるのが妥当でしょう。リフレクトウォールは鏡をこすりつけると消失する。犯人は聖を肛門に突き刺すという残酷な殺害方法とUSBのデータでダイダロスの『悪事』を告発しました。残りの三人の焦燥を思うといたたまらないですね。ダイダロスの悪事は殺人に至らないとはいえ非人道が過ぎる。信頼していた先輩ヒーローが性的倒錯者だと判明したのですから」
「精神的支柱は粉塵と化して消えた。ダイダロスは殺され、残るはドラゴンフライとマッドネスガール。そしてリフレクトマンだ」
「以前お話しした内容のおさらいになります。手記の記述はダイダロスの死後、残りの三人が身体検査を行い解散したところで終わっていました。おそらく三人の中で最初に殺されたのがドラゴンフライです。だから手記はここで途切れていたのです」
ドラゴンフライが死に、その後残されたふたりのヒーローが互いを犯人と非難しあい、リフレクトマンがマッドネスガールを粉々に砕いたとふたりは推理していた。
「こうしてリフレクトマン以外の全てのヒーローが殺された」
ロイは無精ひげを一本引き抜いた。
「だが、リフレクトマンは背後から聖で刺されて亡くなった。この聖を刺したのは誰だ。犯人はいったい誰なんだ」
両肘を円卓につき、組んだ両手を顔の前においてネームレスは深く息を吸う。
「犯人が『誰か』を求めるよりも、犯人が『どこから』来たのかを求めることの方が話は簡単です。『どこから』来たのかが判明すれば、必然的に犯人がわかるのですから」
ロイにはネームレスの言葉の意味が理解できなかった。無作法にペットボトルの水に口をつけ、一気に半分を飲み干してみせる。
「犯人は『どこから』来たのか。どうやってベースに侵入したのか。答えのヒントはたしかにこれにありました」
ネームレスは円卓の上のスノードームに手をおく。スノードームの中には小さなテーブルの上に置かれた小さなスノードームが置いてある。
「スノードームの中にスノードーム。世界の中に世界がある」
――つまり――
「このベースの中には、ひとつの別世界が存在していたのです。犯人はこの別世界を利用して不可能犯罪を成し遂げたのです」
6
ロイは何もいわなかった。応えるべき言葉が見つからなかったのだ。
無言のまま手首から先を数回動かす。話を続けるよう催促したのだ。
「確実なのは、八人が殺されたこと。そして、殺された八人とは別の犯人が存在したということ。つまり、このベースには少なくとも九人以上の人間が存在したのです」
「反論だ。ベースの中にはPOJの七人とプリンス……ついでに大鷹。こいつら以外のDNAを含む遺留品は見つからなかった。髪も、皮膚も、爪も、血もなかったんだ。八人と一羽を除いて他の人間はベースの中にはいなかったと物理的な証拠が語っている」
「問題ありません。むしろその事実がぼくの推理の正当性を補強してくれます」
ロイは再び口を閉ざした。その瞳に猜疑の火が灯る。目の前の少年は壊れてしまったのではないかと。
「ぼくにはこの答えしか思いつきません。この答えだけがこの奇怪な事件の真実にふさわしい。そうとしか思えません。自分が持ちこんだもうひとつの世界から、自分自身を連れてきた。つまり、事件の最中、このベースの中にはまったく同じDNAをもつ者がふたり存在したのです。犯人は、自分の代わりにもうひとつの世界から連れてきた犯人を身代わりとして殺害します。そして、自身はもうひとつの世界に隠れて生き残ったメンバーの探索から逃れます。必要な時に都度、自身の世界に戻ってきて、非道な殺害をくり返したのです」
「わからん。まったく、意味がわからん。その世界ってのはどこにあるんだ」
「検討はついています。ミスターフリーマン。オットーという記者はいまどうしていますか」
「知っているのか?」
「友人です。彼はベースの居場所を突き止めて、ベースに入るヒーローたちの写真を撮影したところで捕縛されたでしょう。押収した写真を見せてください」
「……どうして写真があるとわかった」
ロイはタブレットを弄り、一枚の写真を表示した。湖上の橋に立つヒーローたちの姿が映っていた。
「彼はプロです。少なくとも一枚は写真を撮っているはず……ははは。やっぱり。ありました。『世界』はここにあったんだ」
タブレットを掲げながらネームレスは笑う。だがその笑い声には悲痛さが入り混じっていた。
ロイがタブレットを奪い返し、写真を凝視する。だが『世界』と呼ばれ得るものは見当たらない。
「これです」
ネームレスは写真の一点を指さした。ロイは両眼を細めてネームレスの指先を見つめる。そこに映っているものを見てロイは失笑した。ネームレスは笑っていなかった。ロイの失笑がとまる。『本気か』。訊ねる。『本気です』。応える。
「たしかにこの程度の大きさなら、ベースの中に落ちていても見つけるのは困難だろう。いや、そもそも見つけたところで、それが事件に関わりがあるとは思えない。だがどういうことだ。現実的な方法だ。こんな小さな物体の中にひとつの世界が存在するなど、どうやったらそんなことができるんだ」
ロイの詰問にネームレスは冊子を放りだして応えた。『リフレクトマン ~ロンドン贋作事件~』。リフレクトマンが主役を務めるコミックスだ。
「多くの出版社から、ヒーローの活躍をベースにしたコミックスが出版されています。リフレクトマンはかつてジョージィ・フォージャー・プティングパイと呼ばれるヴィランと戦いました」
「複製能力をもったヴィランだな。指で作ったキャンパスに映る物体の複製を生み出すのうりょ――」
冊子をめくるロイの指が止まった。彼の顔はみるみるうちに青ざめていく。
「そうです。複製です。指で額縁をつくり、それを自分の目の周りにくっつけてください。この時額縁に『外』は存在しなくなります。額縁には世界が映ります。この宇宙の全てが額縁の内側に収められるのです。では犯人はGFPでしょうか。いいえ。彼はヒーローに捕らえられたじゃないですか。彼を捕らえたヒーローが――彼を捕らえた犯人がGFPに世界を作らせたのです」
「GFPは、複製した物体を好きな場所に出現させていた。パイプオルガンを頭上に出現させて落とし、また広大な河の水でヒーローたちを挟み撃ちにしてみせた」
ロイは大きく唾をのみこむ。
「GFPは、われわれの世界の複製を生みだし、犯人の指示に従ってここに複製された世界を生み出したのか」
タブレットに表示された写真に指をたたきつけながらロイが叫ぶ。ネームレスは静かに首肯した。
「まだだ。まだ問題が残っている。複製した世界を行き来するというのは、具体的にどうやるんだ。隣町までバスに乗るのとは話が違う。いうなれば、異なる二つの世界をワープ……ワープ……ワープだと!?」
「覚えていらっしゃったようですね」
ネームレスは二冊目のコミックスを放り投げる。『ドラゴンフライ ~クリスマスフロムヘル~』だ。
「悪魔から授けられたくつしたを使い、サタンクロースは自宅に用意した爆弾を自身が乗るソリまでワープさせていました。あのくつしたを使えば自由にワープができるのです。ワープとは通常の物体の移動とはその原理からして根本的に異なります。異次元空間を経由しての物質の移動。これならわれわれの世界に存在するもう一つの世界に移動することができるのです」
「世界を複製し、その世界から自分自身を連れてくる。しかし、もうひとりの自分は、唯々諾々と殺されるのか? きみの主張によると、ふたりのヒーローはDNAレベルで同一なんだろ。自分と同じ能力の持ち主を殺すのはそう簡単なことではないと思うが」
「問題ありません。同一人物ということは、犯行の動機も理解していたという意味です。自分自身が殺される必要があることを犯人は理解していました。だから自ら望んで殺されたわけです」
「どういう意味だ。まったく……納得できない。そうだ。そのもうひとつの世界っていうのは、われわれの世界を複製してつくられたんだろう。つまり、ふたつの世界で流れる時間の流れは同じなはず。もうひとつの世界……くそ、言いづらいな。小世界と呼ぼう。小世界とわれわれの世界は同時に並行して時間が経過していた。だとすれば、小世界の犯人がこちらの世界にワープする時、小世界ではわれわれの世界と同じく『ベースでの会議』が行われていたはずだ。小世界の犯人はわれわれの世界の犯人と同じ犯行に臨んでいた。そんな犯人が小世界からわれわれの世界にワープしたとしたら、小世界での犯行を放棄したことになる。心情的にそんな選択をとるとはとても思えない」
「これが最後の一冊です」
ネームレスはまたしてもコミックスを一冊、放り投げた。
「ぼくはこの図書室にあるすべてのコミックスを読破しました。ここの図書室には、POJのヒーローたちのコミックスが全てそろっています。犯人だけなんです。この犯行を成し遂げることができるのは、犯行に必要な能力をもったヴィランと戦い、彼らを捕縛し、道具を奪い得るのは彼女だけなんです」
ロイは震える手でコミックスを手に取った。
「……どういうことだ」
「今回の犯行に必要な超能力は三つあります。ひとつは複製された世界を創る能力。ひとつは創られた世界を行き来する能力。そしてもうひとつは、いまミスターフリーマンがおっしゃった懸念をクリアするための能力です」
「わからん。おれはお前のいうことが……」
ロイは寒気を覚えた。鳥肌の立った両腕をこすりながら、ネームレスの口から放たれる言葉に備える。
「おっしゃる通りGFPによってつくられた小世界はわれわれの世界を模したものである以上、同じ時の流れを刻んでいるはず。では、もしその並行するふたつの時間にずれを生じさせることができたら。もっといいましょう。犯人はヴィランの力を借りて小世界の時間の流れを加速させたのです。小世界からこの世界に犯人がワープして移動してきた時、小世界の時刻は二〇二二年一月十七日午後〇〇時頃――ミスターフリーマン、パラノーマルセンサーが解除され、あなたがベースまで降りてきた時刻まで進められていたのです。小世界での犯行を終えた小世界の犯人は、今度は自らの使命を果たすためにわれわれの世界へやってくる。使命とは何か。われわれの世界の犯人の代わりに殺されることです」
「時間をずらすという理屈はわかった。だが……くそ、何が何だか。さっきも訊ねたがもう一度訊こう。なぜ小世界の犯人はわざわざ殺されるためにわれわれの世界を訪れるんだ」
「自分も同じことをしたからですよ。小世界はわれわれの世界が複製された世界です。そこで起こることはわれわれの世界で起こることと全て同じ。つまり、小世界の犯人は、小世界での犯行を完遂するために、その小世界の中に存在する、さらに小さな世界から訪れた自分を殺し、自らの死を偽装したのです。小世界の犯人は理解していた。自らと同じ動機をもつ犯人は無限の世界に連綿と重なって存在している。自身の望みは自身の犠牲によって完遂された。では次は? 自身を犠牲にして別の世界の自身の望みを完遂させる。犯人はヒーローでした。ヒーローは自己犠牲を厭わない。ましてや、POJの一員ともなれば」
「時間を加速させる……そうか、そういうことか」
狂気の論理にロイの思考は締め付けられていた。震える手でコミックスを握りしめる。『ハンター ~ファントムシーフ~』を。
「複製能力。異次元間移動能力。そして、時間加速能力。最低限犯行に必要なのはこの三つの能力でした。そして、この三つの能力を有したヴィランと接したヒーローは、POJの中にはひとりしかいないのです」
「GFPを最後に捕まえたのも、サタンクロースのくつしたを手に入れたのも彼女だった。ファントムシーフを捕まえたのも……」
ロイは円卓の上の三冊のコミックスを見つめながらいう。
「そうです」
ネームレスはいった。
「犯人はハンターです」
ロイの指がタブレットの上で滑る。再びオットーが撮影した写真が表示される。
ベースに入らんとするPOJの姿。プリンスの背中に手をおくハンターの左耳には透明な球状の飾りがついたイヤリングが揺れていた。
7
「ハンターが犯人だとしたら、多くの謎が合理的に説明されます」
ネームレスは冷たくいい放つ。激情に揺さぶられているからこそ、感情を凍らせているのだろう。
「ハンターが腹部を刺され、バスタブに吊らされ、皮を剥がされている間、大鷹は犯人に襲いかかったりはしなかった。当然です。聖を手にハンターを殺めていたのもまたハンターそのひとだったからです。『自分の主人が殺され、その死体を冒涜的に穢されている間、この巨大な鳥は何をしていたのか』。答えは単純。主人の為すことを見守っていた。それだけです」
「待て。納得できないことがある」
ロイは三冊のコミックスのうちのひとつ――『リフレクトマン ~ロンドン贋作事件~』を手に取り、乱暴にページを開いた。
「ここだ。GFPは複製したスエズ運河の水を解き放つのに相当な体力を要していた」
ロイの指が疲労の色に染まりながら水の壁を発生させるGFPの顔面の上で踊る。
「スエズ運河でこれだけの体力を使うんだ。そんな人間がこの世界そのものを複製するだなんて原理的に可能なのか」
それだけじゃない――とロイは続ける。
「ファントムシーフも同じだ。あいつは、特定の空間の時間の流れを変化させる。だがあの強盗が実際に操ってみせたのはたかだか美術館の一室程度だ。だが今回の事件でファントムシーフが弄った時間は、ひとつの世界全体の時間だ。規模が違い過ぎる。こいつらヴィランにそれほどのパワーがあるっていうのか」
「ないでしょう」
けろりとネームレスは答える。
「それほどのパワーがあれば、このヴィランたちはもっと手ごわい相手となっていたはずです。リフレクトマンは容易に水の壁に押しつぶされていたでしょう。ハンターだって、美術館の周囲全域の時間の流れを変えられ、太刀打ちできなかったはずです」
「それじゃあ、犯行は不可能だ」
「ヴァクストゥムがそれを可能にしてくれます」
ロイの表情が固まる。
「ヴァクストゥム。一度の服薬で数時間その者が持つ能力を急激に上昇させる秘薬。ジャスティスホールからヴァクストゥムのレシピを盗んだのは……」
「ハンターです。彼女はファントムシーフとGFPの能力には限界があることに気づいていた。だから、ヴァクストゥムを服用させたのです。ふたりのヴィランの能力を、世界を操るに至るまで過剰に増幅させた」
「どうしてふたりは協力した。憎きPOJを殺せるからか」
「いえ。ぼくは強制的に協力させられたんだと思います。ハンターはふたりのヴィランを連れ去り――一筋縄ではいかない犯罪者です、シャットダウンリングを着けて拘束するのは当然でしょう。メテオマンのことを覚えていますか。彼はヴァクストゥムを過剰摂取して南極に現れたエイティストを倒しました。だが彼は副作用ですぐに亡くなった。ヴァクストゥムは一度の服用で十年の寿命を縮めるといわれるほどの劇薬です。ハンターはシャットダウンリングを着けたヴィランに過剰なヴァクストゥムを摂取させる。副反応に悶え苦しむヴィランにハンターは取引という名の脅迫を試みる。GFPにはイヤリングの中に世界を複製させ、ファントムシーフにはイヤリングの中の時間を加速させた。要求に従えば解毒剤を与えるとでもいえば、副作用に苦しむふたりは容易に従うでしょう」
「ふたりのヴィランは……」
「亡くなっているでしょうね。ヴァクストゥムを過剰摂取して生きていられるはずがないし、そもそもあの薬に解毒剤があるなんて聞いたことがありません」
円卓の上で組み合わせた両手の指がイソギンチャクの触手のようにうねっている。ロイは足を上下に揺すりながら鼻息を荒くした。
「……イヤリングは。小世界が入ったイヤリングはどこにいったんだ」
「大鷹です。大鷹の食事の中に混ぜ入れたのです。イヤリングは消化されず糞便に交じってこの世界のどこかに放たれたことでしょう。ミスターフリーマン。事件後、大鷹の羽だけでなく胃の中も調べるべきでしたね」
ロイはすぐに無線機に指示を飛ばした。何日も前に野に放った大鷹を探せ、と。だがこのあと、大鷹が見つかることはもちろんイヤリングが見つかることもなかった。
「ハンターの死体にイヤリングがついていなかったのは当然です。何故ならそのハンターは小世界にイヤリングを残してきたのですから。重要な証拠品であるイヤリングを別の世界に持ちこむわけにはいきません。小世界の大鷹にのみ込ませ、小世界の外部に運ばせたのです」
「ドラゴンフライとリフレクトマンが図書室で見たという人影は」
「もちろんこの世界のハンターです。ふたりにだけ姿を見せることで、ふたりとマッドネスガールを対立させることに成功しました。図書室に入り、イヤリングの中の小世界に隠れて、リフレクトマンの捜索をやり過ごしたのです。リフレクトマンが探していたのはひとりの人間です。本棚の片隅に転がったイヤリングなんて、気に留めるはずがありません」
「この世界のハンターはどこに行ったんだ。小世界のハンターは小世界のパラノーマルセンサーが解除された時に、この世界を訪れたといったな。この世界のハンターも同じように、十七日の正午にこのわたしが、パラノーマルセンサーが解除されたベースを訪れたタイミングで外部にワープして逃げ出したということか」
「そうでしょう」
「なんということだ。クソ。緊急手配だ。草の根分けてでも捕まえてやるぞ。ネームレス。ハンターはどこに隠れている。彼女のアジトを知っていたら教えてくれ」
「何をいっているんですか」
ネームレスは嘲笑した。
「彼女を捕まえるなんて不可能ですよ」
「ガキが。特別活動局を舐めるなよ。ヒーローひとりくらいすぐに――」
「ミスターフリーマン。不可能です。どんなヒーローだって彼女を捕まえることはできない。考えてみてください。小世界のハンターは望んでこの世界を訪れ、この世界のハンターに殺されました。どうしてこの世界のハンターが同じことをしないといえるのですか」
ロイはネームレスの言葉を脳内で時間をかかけて噛み砕いた。そしてその意味を理解して、禍々しい思考に脳が蝕まれた。
「われわれの世界の内側、小さなイヤリングの中に小世界が存在する。その小さな世界のハンターは、小さな世界のベースの中で、さらに小さな世界のハンターを身代わりとして殺害しました。だから彼女は、われわれの世界を訪れたのです。われわれの世界のハンターが同じことをしない方が不条理ですよ。このスノードームの中には小さなスノードームがある。ミスターフリーマン。ではこのスノードームの外側には何があります」
円卓の上に置かれたスノードームを間にはさみネームレスとロイは対峙していた。スノードームの内側には、テーブルの上に置かれたスノードームを間にふたりの子どもがいる。
「どうしてわれわれの世界がスノードームの中の世界でないといえましょうか。正確にいえばイヤリングです。われわれの世界はひとつ上の大きな世界のGFPによってつくられた複製世界でないとどうしていえましょう」
「ちがう……ちがう。そんなはずはない!」
ロイが叫ぶ。冷たい汗を流しながら彼は叫んだ。
「この世界がヴィランによってつくられた世界だと? そんなはずはない。おれには過去がある。思い出がある。事実が。記憶が魂に刻まれている。この世界が……おれが複製? そんなはずがない!」
ロイはスノードームを掴み床に叩きつけた。スノードームは割れない。ゆっくりと転がってネームレスの足にやさしく触れた。
「ハンターは向かったんです。生贄となるために、自らに殺されるために、数時間前の自分が為したことと同じことを為されるために旅立った。いえ、いまこの瞬間もハンターたちは無限に自分を殺し、自分に殺されていることでしょう。この連鎖に終わりはありません。ハンターは無限に続く悠久の殺人にその身を投げ出したのです」
「何故だ。何故なんだ。どうしてハンターはこんな馬鹿げたことを」
ロイは拳を円卓に叩きつけた。何度も。何度も。肉が裂け。血が流れ。指の骨にひびが入りながらも。何度も。何度も。
「わかりません」
ネームレスがいった。
「ぼくはハンターじゃない。彼女の考えなんてわからない。ただ、彼女はぼくに手紙をくれた。自らの意志を継ぐものとして、ぼくに真実に挑むよう勧めてくれた。どうして。どうしてぼくなのか。だけどぼくにだってわかることはある。ヒーローは人間だ。社会に生きるひとりの人間なんです。そして人間なら、正しいこともすれば、悪いことだってする。人間ってそういうものでしょう。それが当然だ。ヒーローは人間だった。ヒーローはヒーローじゃなかった。ヒーローという実態は虚像です。ただ、誰かを救うという善き行為があるだけで」
床に転がるスノードームを拾いあげ、ネームレスはそっと手を這わせた。
「ヒーローはもういらないんです」