第八幕(2)地上59階
……21世紀後半、出生率の低下と不妊に関するトラブルの解消のために遺伝子保管銀行の存在がクローズアップされた。そしてそれは政府の擁護をうけて22世紀にはさらにその存在を強化していった。
現代では、人々は20代のうちに自らの遺伝子を(大抵では凍結された精子や卵子といった形で)遺伝子保管銀行に保管することが義務づけられていたのである。
そして何らかの問題が生じたときにのみ、人々そこから自らの遺伝子を取り出して子孫をつくることが許されていた。最近では、亡くなった夫の精子を取り出して、その子どもを産むことのできた妻の話もあった。
それでもなお現代においても自然な形の妊娠・出産が主流であり、最も望ましいとされているのも事実であった。その陰で年に数%かの割合で凍結受精卵と人工子宮による子どもも誕生しているというのが現実である。
ケインもまたその数%の一人なのだと。
「驚いたかい?」
ケインは世間話でもするような調子で言った。
「僕がこの事実を知ったのは養父母が死んだ直後だった」
リルは見るとも無しにサイドテーブルの上に飾られた3D写真を見ていた。
両親と言うには少しばかり年老いた夫婦と、10代くらいのケインが写っている。あきらかに血の繋がりがないと分かる彼らに挟まれたケインは、少し照れくさそうに、それでも幸せそうに笑っていた。
ケインが大学を出てすぐに事故で両親を一度に亡くしたと言う話は聞いていた。そして彼が二人の養子だったという話も。
「………」
リルは黙って紅茶をすすった。
やっと、全ての謎が解けたような気がした。
ケインとアーサーが似ていた理由。ルイザとケインに共通のものを感じた理由。
そして、ケインがアーサーを破壊した理由も…。
「あのセリフは、元はお前に対して語られたものだったんだな」
リルの確認のような問いにケインは瞬きをすることで答えた。
「ルイザは、最初に僕に殺人を依頼したんだ。それも、ひどい言葉をつけてね」
「何て?」
「『愛しているわ』」
ケインはいつかのルイザの口調を真似て言った。
リルはケインの言っている意味が分からなくて、目を瞬かせた。
そんな彼にケインはふと表情を和ませる。
ケインは立ちあがるとリルに背を向けて、ブラインドを下げたままだった窓辺に向かった。
「ルイザはそう言っていたよ。愛する者に殺されるのが…彼女は『最後の幕を引いてもらう』なんて言い方をしていたけれどね。とにかく、最愛の者に殺されるのがエリアル教徒にとっては最高の祝福なのだと」
「それをお前は断ったんだな」
「当たり前だろ、僕はその時すでに刑事になっていたんだ」
その理由は真実ではないとリルは思った。
だから彼はケインに歩み寄り、その肩を捕まえて強引に自分の方へと向かせる。
「本当の理由はちがうだろ」
「おい…」
ケインは笑い飛ばそうとして、リルの真剣な目とぶつかってやめた。
普段、リルはケインの瞳を『腹ん中まで見透かされそうで怖い』なんて言うけれど。こんな時のリルの瞳の方がよほど真実を見抜くと思う。
そしてその瞳にケインは抗うことができなかった。
「だって、本当にひどい話だと思わないか? 両親を失って悲しみにくれていた僕にいきなり連絡をしてきたと思ったら、『私を殺して』だなんて彼女は言ったんだ。しかも天使のような笑みを浮かべて『あなたはそのためだけに生まれてきたのよ』って」
ケインは自分の感情をもてあまして両手を胸の前で組み合わせた。
「つまり、僕はルイザを殺すためにこの世に生を受けた道具だったんだ。そんな道具に向かってルイザは『愛している』なんてほざいたのさ」
「ケイン…ケイン」
リルは言うべき言葉が見つからなくてただ彼の名を繰り返した。
「甘えた話だけど、僕はその時少し期待していたんだ。僕の本当の母親が会いに来てくれた。両親を失った僕の悲しみを見かねて来てくれたのだと…。すがりたかったんだ」
目の奥が痛くなって、ケインは強く目をつぶった。
「こんなことならば彼女の存在など知らなければ良かった。『愛している』なんて、嘘の言葉なんか聞きたくなかった」
「ルイザは本当にお前を愛していたのかもしれないじゃないか」
「はは…」
リルの慰めにケインは乾いた笑い声を上げた。そして彼は何の気なしにブラインドの開閉スイッチを押す。
「愛してなんかいないさ。その証拠に彼女は僕に断られたそのすぐ後に、アーサーというロボットを手に入れたじゃないか。今度こそ本当にそのためだけに作られた、決して裏切ること無いロボットをね」
ケインはそう言ってリルの視線から逃れるように窓の外に目を向けた。
地上59階のこの部屋からは、夜空の星も地上を行き交う人の姿も遠すぎて見ることが出来ず、ただビーズをばら撒いたかのように作り物めいた夜景がかすかに滲んでいるだけだった。
ケインはその輝きにむかってため息をついた。
そんな彼の背中はいつもより少しだけ小さく見えた。
リルはその背中に向かって静かに問いかける。
「だから、お前はアーサーを破壊したのか?」
「…ああ、そうだ」
今更何も隠す気もないのか、ケインは素直に肯定した。
「髪とか目の色とかだけじゃなくてあいつは僕によく似ていた。あいつは、ルイザが望んだ僕の姿だったんだ。ただ彼女を愛し、従い、最後には愛ゆえに彼女を殺す…。そしてそれを正しいことだと信じて疑わないあいつを見ていたら、僕は僕自身までロボットにされてしまったような気持ちになってしまったんだ」
強化ガラスの窓に額をつけて、ケインは己の罪を告白した。そんな彼をリルはを抱きしめてやりたいと思う。
今までケインとは何度も寝たことがあったけれど、それはお互い『抱きしめ合う』というような対等な感覚で。こんなふうにただ抱きしめて、甘やかしてやりたいなんて彼に対して思うのは初めてのことであった。
その欲求に忠実に、リルは自分より大きな背中を抱きしめてやる。
女性体の時にこんな体勢をとると、互いの体格差から抱きついている感が強くなってしまう。
だが男性体の今は女性体の時よりも手足が長く体が大きい。そのおかげで抱きしめている感じになってよかったと思う。
「お前は、ルイザを愛していた?」
リルがちょうど心臓の辺りで手を交差させると、ケインはそれに自分の手を重ねる。
「…よく、わからない。ひどい女だとは思うけれど、そう思いながらも彼女を憎みきれないのも事実なんだ…」
――どうしてかな。
と、かすかに笑い、ケインは身体の力を抜いた。そのままずるずると床に座り込む彼を、今度はリルは膝立ちになって正面から抱きとめる。
リルの胸に顔を埋めて、ケインは安心したようにため息をついた。
「女の時じゃなくて悪いな」
女性体のときのリルの胸は割とサイズが大きい。その大きさや柔らかさに安堵を覚える者がいるのをリルは知っていた。
だからわざと軽くそう言ったのに、ケインは首を振ってリルの背に腕をまわしてきた。
「別に女性体でも男性体でもリルはリルだろう」
すうと、ケインはリルの胸元で息を吸った。
「どちらのお前でも僕は好きだよ」
「ありがとよ」
リルがどこかで感じていた不安をケインの言葉が一蹴してくれる。
女性でもあり男性でもあると同時にどちらでもない己に、リルはいつも違和感と不安を覚えていた。
そのどちらも自分であるのだが、それを当たり前のようにとらえてくれる人間は少ないのだ。ましてやそんな自分を愛してくれる人間も多くはない。
愛する人にありのままを愛される幸福をリルは静かにかみしめた。
そして同時に気づく、ルイザはこんな幸福がほしかったのだと。
「多分、ルイザは愛されたかったんだろうな」
ケインの髪を指で梳いてやりながらリルは言った。
「エリアル教の教義とかだけじゃなく、自分のことを殺せるほど愛してくれる相手が欲しかったんじゃないかな」
「どうして?」
目を閉じたままでケインは聞いた。
リルの胸を通して響いてくる声は、とても心地がよくて彼をゆるやかな眠気へと誘う。
「ルイザ・ローゼンシュバルツという人の人生は、女優として大成功だったけど。でも人としてはどうだったんだろう? 彼女はその美貌とひきかえに普通の人が言うところの幸せってやつを捨ててしまったんじゃないかな」
「そして、それを今になって欲した?」
「うん」
ルイザの欲した幸せは、自分を愛し、望み通り殺してくれる男だったり、ただひたすらに愛してくれる子供だったりしたのだろう。
彼女は純粋にそれを欲し、それを得ようとしたのだ。
ただ、その方法は間違っていたけれども。
「勝手な女だな」
ケインは喉の奥で笑った。
「しょうがないさ、それでもルイザはそれが許されるくらい、美しい人だったんだから」
「ああ…」
ケインはやっと顔をあげて、リルを見つめた。
「そうだな、彼女は本当に美しい女だった」
その『美しい女』と同じ色の瞳に引き寄せられるようにリルは彼に顔を近づけ、ごく自然な動作で唇を重ねた。
触れ合うだけのキスで唇を離し、リルは少しだけ照れたように笑った。
「こんなこと言っても、全部俺の推測にすぎない話だけどさ」
「へたな物的証拠よりお前の勘のほうがずっと信頼がおけるだろ」
ケインは自分の首に回されていた手をそっと離し、ゆっくりと立ち上がった。
「今日はいろいろとみっともない姿を見せてしまったな」
「馬鹿」
リルは勝気な瞳でケインを見上げ、笑みを浮かべた。
「お前はロボットじゃないだろ。人間なんだから、時にはみっともなくてもいいんだよ。むしろ俺は…」
ここまで言ってリルは言葉を切った。そして少しだけ背伸びをしてケインの頬にキスをする。
「俺は、お前の弱いところを見れて嬉しかったよ。じゃあ、おやすみ。ケイン坊や」
「帰るのか?」
そう言って背を向けたリルをケインは引き止めるようなそぶりを見せた。
「ん? ああ、実は明日早番なんだよ。どっかの誰かさんが長期休暇なんか取ってるから、そのお鉢がこっちに回ってきてるのさ」
「悪いな」
それでもまだ7日も休暇のあるケインは苦笑を浮かべるしかなかった。
「まあ見てろよ、お前がいない間にばんばん犯罪者を検挙して、とっとと昇進してやるからさ」
軽口をたたきなら玄関へと向かったリルは、そこで足をとめた。
「なあ、ケイン」
「なんだ?」
「今度、こっちの姿の俺とも寝てみないか?」
「え?」
急な申し出にケインは戸惑った表情を浮かべた。
「嫌か?」
「嫌……では、ないな」
それまでの恋愛対象は女性であったし女性としか経験したことのないケインであったが、男性体のリルとそのような関係になることを想像しても少しも嫌ではなかった。
「よかった」
安堵の表情を浮かべたリルはさらに爆弾を落としてくる。
「トップとボトムはそのとき決めようぜ。俺はどっちでもいいし経験もあるけど。ああ、どうせなら両方するか?」
「それはさすがにその…心の準備をくれ」
慌てた様子を見せるケインにリルは笑い声をあげた。
「気長に待ってるよ。それじゃいい夢を」
「ああ、おやすみ」
少し疲れたように返すケインに投げキッスをしたリルは、ドアをすり抜ける瞬間振り返った。
「やっぱり俺はルイザに感謝するよ。あの人がいなけりゃお前はこの世界に生まれてこなかったからな」
「ありがとう、リルレイン」
ケインはロックのかかる音を聞きながら低い声でつぶやいていた




