開幕
ロボット工学三原則と物語の開幕。
ロボット工学の三原則
第一条
ロボットは人間に危害を加えてはならない。またその危険を看過することによって、人間に危害をおよぼしてはならない。
第二条
ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が第一条に反する場合は、この限りでない。
第三条
ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれの無いかぎり、自己を守らなければならない。
――アイザック・アシモフのロボット三原則より
開幕
『銀河系で最も多くの人々に愛された女性』
と、彼女は呼ばれていた。
時代がかってはいるが豪奢なつくりの部屋の中、天外つきのベッドの上で、彼女はゆっくりと身を起こした。
けだるげなその動きにあわせて肩のあたりでたゆたっていた金髪が、背中のラインをなぞりながらすべり落ちていく。
細い首をのけぞらせて彼女は窓からのぞく月を眺めた。
「きれいな月」
紅を差したように赤い唇から声がもれた。
月明りに誘われ、彼女は月へと手をさしのべた。
降りそそぐ月光に照らされた白い腕と完璧な美貌。洗練された動きと相まって、それはまるで映画のワンシーンのようだった。
「あなたは昔から少しも変わらないのね。昔のまま、きれいなまま…」
鈴を転がしたような声には年を経た者にしか出すことのできない、苦い響きが含まれていた。
かつて、彼女がまだ少女と呼んでも差しさわりの無い年齢だった頃。地球に降り立ったばかり彼女は初めて見た月の美しさに目を奪われたものだった。
いつかあの月を手に入れられるくらいに成功したい。
幼い野望を胸に彼女はいつも月を見上げていた。
…それから長い年月がたった。
成功者と呼ばれるようになった彼女でも月を手に入れることはできなかった。
いや、そんな野望を持つことすら己にはおこがましかったのだ。
小さくため息をつくと、彼女は力なく手を下ろした。
一度目をつぶってゆるゆると首をふり、彼女は再び目を明ける。
それから彼女は気を取り直したようにベッドサイドにたたずむ『彼』へ微笑みかけた。
目じりを少しだけ下げ、口角をあげる。
たったそれだけの変化で先ほどまでの頼りなげな風情は一蹴され、女王のごとき威厳が現れる。
自然と跪く姿勢をとった『彼』の頬に彼女は指を滑らせた。
「あなたも、変わらずきれいね」
『彼』は何も答えない。ただ、まるでそうすることが礼儀でもあるかのように彼女の手をとり、細い指に口づける。
「私を抱きしめて」
彼女の命令に『彼』は音もなく従った。
逞しい胸に抱かれ、彼女はほっと吐息をつく。
抱きしめる腕の力は強くも弱くもなく、情熱も劣情も感じさせないそつのない抱擁はひどく無機質だった。いっそ舞台上で演じるいつわりの恋人同士のそれの方がよほど熱を感じられるくらいだ。
だが今の彼女にはその冷たさが心地よかった。
「キスして」
命じない限り決して触れられない唇。少し薄めの唇は温かく、その温もりが不思議なくらいに欲を感じさせない。
「私をねむらせて」
そう命じれば、もう一度唇が降ってきた。口移しに与えられた少し渋みのあるワインを、彼女はすべて飲み干すことができずに唇の端からひとすじこぼす。
赤い液体が彼女のドレスに染みをつける前に、『彼』の指がそれをぬぐい取った。
「しばらく、こうしていて」
『彼』の胸に頬をよせ、彼女は夢見るようにつぶやいた。
優しく背を撫でる温かい手と規則正しい鼓動が、彼女を眠りへと誘っていく。
「何だか、眠くなってきたわ」
ゆっくりと目を閉じた彼女を、『彼』は宝物でも扱うかのようにそっと横たわらせた。
「おやすみなさい。私のぼうや」
眠りに落ちる直前の最後の言葉。その語尾に時計の音が重なる。
ボーン、ボーン、ボーン、ボーン……
どこか郷愁を誘う鐘の音は、部屋の隅に設置された古い振り子時計から聞こえてくるものだった。
そして、十二回目の鐘の音とともに、月光よりも鋭い銀色の光が、彼女の胸元に吸い込まれていった。