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ドストエフスキー論

バルザックからドストエフスキーへ


 



 小林秀雄の言葉を信じると、バルザックが発見したのは、「どのような個人も、社会における一存在だ」という事になる。例え、富豪であろうと貧乏人であろうと、社会において生息し、自分の生き方をしている一人の個人である(にすぎない)というのがバルザックの洞察だった。


 一方、バルザックの終わったところから始めたドストエフスキーはどんな発見をしたか。僕の定義では次のようになる。


 「どれほど巨大な自意識を持った個人であろうと、社会の中の一存在として生きざるを得ない」


 ここで重要な所は「生きざるを得ない」という、やむをえない、というポイントにある。人間は自己意識を持っており、ほっとくと膨らんでいく。究極的に膨らんだ自意識としては、パスカルという一個人を思い浮かべたい。


 「宇宙は物理的に私を包んでいるが、考える事によって私は宇宙を包む」


 この時、パスカルは(「罪と罰」の主人公)ラスコーリニコフによく似ている。考える事が「仕事」だったラスコーリニコフは、殺人という行為を犯し、他者の媒介を経て、社会へと解消されていく。


 例え、どのように反社会的行為であっても、それは行為であるという理由によって社会的行為の一つである。例え、愚かな殺人という市民社会に反する行為であっても、反するという意味において、社会的行為だ。屋根裏部屋で夢想にふけっているラスコーリニコフにはどのような劇も起こりようがなかった。彼は怪物のように、思考と夢想を膨らませていただけだ。


 夢想が凡庸な行為となる時、ドラマがおこる。他者との関係、社会との関係がある。仮に殺人というものが、犯罪であっても、やはりそれは行為であり、社会の中に起こるある事柄である。犯罪者が反社会を唱え、死刑になるまで世界に抵抗し続けたとしても、彼は抵抗という形式を通して、社会的な存在だ。


 社会は彼の首を刎ねる。その時、社会は刎ねられた首が自分の一部である事を感じざるを得ない。一方で、屋根裏部屋で寝転んでいるラスコーリニコフは、どんな存在でもない。彼は社会的存在ではない。反社会的存在でもない。彼はなにものでもない。だから、ラスコーリニコフが犯罪者という「なにものか」になるためには殺人という愚かしい行為が必要だった。ドストエフスキーはその事を見抜いていた。


 ドストエフスキーは、ラスコーリニコフという人物が作品内で解き放たれた時、どのような運命をたどるのか、よく見えていた。見えすぎるほどに見えていた。この場合、「見える」という意味はかなり難しい。というのも、ラスコーリニコフという人間の内面ですら十分複雑であるのに、その複雑な内容がどのような運命をたどるのかという事への洞察は、ラスコーリニコフを客観化する必要があるからだ。


 社会は個人を生む。どうあがいても、ラスコーリニコフの思想は社会が産んだ産物だ。ラスコーリニコフは当時のロシアが生んだ怪しい思想にかぶれている。ラスコーリニコフという個人は社会が生み、したがって、社会の方から彼を捉えれば、彼は容易に見える。このような観点がなければ、歴史学、社会学は成立不可能に見える。


 しかし、同時に個人もまた社会を見る。社会を洞察し、社会を意識する。ラスコーリニコフは屋根裏部屋でどんな事を考えていたのか。彼もまた、自身の思考の中に社会を、地球を、宇宙全体を丸め込んでいたに違いない。


 だが、そのように巨大な自意識を持つ人間もまた、人間社会において一人の人間として生きなければならない。それは意識にとっては諦めである。意識は社会全体を飲み込む事が可能だ。だが、それを飲み込んだ個人もまた、社会の中の一員として生きざるを得ない。

 

 社会の中の一員として生きるという事は凡庸な人にとってもっとも容易い事であるが、パスカル的人物にとってはもっとも受け入れがたいものだ。極言すれば、それは、凡人にとって極めて簡単に突破できる壁であり、天才にとってどうあがいても突破できない壁となる。凡人にとって簡単な事が天才には不可能なものとなる。


 ラスコーリニコフは、世界全体を十分に意識している。しかし、この人物は殺人を犯す。彼は殺人をどうして成そうと思ったのか。作品の構成からすれば、彼は自分の限界を知りたかったのだ。彼の意識は怪物的に彼を飲み込んでしまった。彼は自分を神のように思いなした。その時、彼の意識はそれに耐えられなかった。どうやら、自分は神ではない。その事を知る為に、彼は人を殺した、そうも言える。


 ニーチェの晩年の「この人を見よ」は狂気の発作が現れているが、この時、ニーチェは殺人を犯す前のラスコーリニコフに似ている。神を排除した以上、自分が神となるしかなかった悲劇がそこに現れている。だが、ニーチェは狂気に陥った己を見る事はできなかった。彼は自分を神と定義した為に、神に擬した自分自身を見る事ができなかった。悲劇はニーチェの外側に起こった。ドストエフスキーにおいて、作品構成として現れた悲劇は、ニーチェにおいては現実のものとして起こった。


 ラスコーリニコフは自分の限界を知る為に殺人を犯した。カントの鳩という哲学話がある。鳩が空中を飛翔している。真空のように抵抗がないところであれば、もっとうまく飛べると鳩は考える。鳩は大気圏を突き破って、真空の中に出るが、そこは抵抗がない為に飛ぶ事ができない。

 

 ラスコーリニコフはこの鳩に似ている。意識において万能であった己は社会においては一存在であるにすぎない。その事を、彼は知っていた。つまり、鳩は、真空に出れば死ぬ事を知っていた。それでも鳩は、真空に出なければならなかった。何故だろう。

 

 何故だろう、というこの問いには多分、誰も答える事ができない。実際、ドストエフスキーもこの問いに答えていない。原理的には、ラスコーリニコフの論理的知性は二つの、非論理的な要素によって支えられている。一つは、彼が殺人を犯す理由。もちろん、この理由には色々な意味付け、理由付けが成されているが、その根本は、謎であるし、謎であるのが答えだと僕は思っている。もう一つは、ラスコーリニコフが最後に改心する理由。最後に考えを改める場面を作者は、自然と偶然にまかせている。あらゆる必然と論理が破れる時にはじめて、自然が、偶然が彼を救う(破滅させる)という事は作者はよく知っていた。この「知っていた」というのは論理的に知っていたわけではない。ただ、作者はそう知っていたのだ。そうとしか言えないような形で知っていた。


 人間は有限な存在であるが、最初から自己の有限性を意識した人間はつまらない人間に違いない。最初から、うまく社会に適合しそこそこうまくやっていく人間はさして魅力がない。だが、ニーチェのような人物は魅力的かもしれないが、彼はほうっておくと、自分の思考のロケットに乗って宇宙の果てまで出ていってしまう。それは正しいのか? …そのような姿を外から捉えるのはやはり、凡人である我々の居場所からだ。ニーチェの悲劇がくっきりと見えるのは、みんながニーチェではないからだ。その差異に劇は起こる。


 ニーチェは自分自身を悲劇の主人公としたが、ドストエフスキーは自身をラスコーリニコフとはしなかった。彼自身がラスコーリニコフであった時期はあるだろうが、時間と粘り強さによって彼はラスコーリニコフを描く存在となった。論理と内的意識はその限界を示された。しかし、論理の限界を知る事ができるのは、それが無限だという誇大妄想を持ったものに限られる。理性の絶対的確信を持ち、走っていく事だけがその限界を知らせてくれる。巨大な望みを持った人間だけが、それによって突っ走る人間だけが、限界線を知る事ができる。


 最初から諦めている人間には諦めは訪れない。彼には欲求不満だけが訪れる。なんとなく、先があるような気がするが、自分はやる気がないからやらないという、不完全燃焼がある。こうした人物は利口ぶるが、彼は愚かになれないから、利口であるにすぎない。

  

 一方、望みを持ち、自意識を無限に膨らませていく人間は、それだけではただ、現実との差異に絶望するほかない。本当は、そうではない。現実が彼の意識についてこれないのではない。彼の意識と現実との間に常に差がある事が彼の運命であり、彼の望みですらある。彼はある点から自分自身を諦める。その諦めとは、願いが無限への願いだからこそ有限だという真理だ。この点に気付くと、彼は生きていく事ができる。この事を知らないと、彼はいつまでも夢の中で階段を無限上昇していく事になる。

 

 論理の両端には論理ではないものが控えている。論理を「こんなもの」と考える人間はその限界に触れる事ができない。社会において生きる事を安易に受取り、そこにたやすく迎合する人間は社会の限界にも自分の限界にも触れる事はない。自分の限界を知ろうとして、社会の外に出ようとして挫折した人間ーーそんな人間がいれば、彼には、社会において生きるという言葉の意味がわかるだろう。ロビンソン・クルーソーは一人で孤島に行っても、やはり近代人でありイギリス人だった。彼には社会において生きるという意味はわからなかったかもしれない。それは、彼が孤島においても一つの社会であったからだ。


 社会の内に生きるという意味を知る事ができるのは、そこから一度出た人間に限られる。だが、そんな事は不可能だ。孤島に百年いたって不可能だ。だが、その不可能を知る事が結果としては、彼を生かす事になる。自分の限界を知る事が他者との関係の内にしか生きられないという事を教える。そういう物語をドストエフスキーは「罪と罰」という作品で作ったのだと思う。最近のリアリズム小説では、スタート地点からうまく社会に適合している為に、その生に何の意味があるのかわからない。ただ生きているだけだ。一方で、ライトノベルは現実から離反して夢想するが、夢想は欲望の代替にとどまり、「理想」にまで到達しない。どっちでもない道を行く事ができるか。そう考えた時に、ドストエフスキーは未だに…興味ある素材であるように思える。

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― 新着の感想 ―
[一言]  色々と考えさせられる内容でした。面白かったです。  ・個と社会の宿命性  ・自意識と世界観の問題  ・どう客観性を担保してゆくか  そうしたテーマが描かれていると思いました。 ◆  …
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