ワンダーランドと旅の終わり
本来はなろうの夏のホラー企画用だったんですが、凡ミスで出せなかったのであげました。
「あーあ、飴って何で舐めたら無くなっちゃうんだろう」
キャンディの残った棒だけを放り投げて、ひたすらに廃路を歩く。夜の帳がすっかり降りて、水銀燈の灯りだけが遠くで蛍のように煌めいていた。物心がついた頃には父は無く、母は夜の仕事で家に殆ど帰らない。ネグレクト同然に育った私は、いつものように母と喧嘩し、それから家を飛び出した。ふと、足元の枕木に引っかかった紙切れを拾い上げる。それは、裏野ドリームランドと書かれたチケットだった。どうやら、遊園地の入場券らしい。裏面には、簡易な地図も描かれており、どうやら此処から、そう遠くはないようだ。
「ふーん、遊園地かあ、面白そう。まだ、やってるのかなあ」
私は、好奇心に身を任せてそこを目指した。
裏野ドリームランドは、暗い陰の差す私の心を照らすように、煌々と光り輝いていた。
「すごい、こんなの見た事ない」
一際、大きな観覧車がゆったりと回るのを見て、思わず感嘆が漏れる。入口ゲート付近まで近づくと、顔の白いキャストが無言で手を伸ばしてきた。チケットを見せろという事だろう。私が、ポケットからくしゃくしゃのチケットを差し出すと、閉じていたゲートはゆっくりと開いた。
その先は、噴水のある広場になっていた。正面には大きな城が建立しており、なんらかのパレードで華々しく花火が打ち上げられている。そこで、桃色のうさぎを象ったマスコットが、沢山の人に囲まれていた。うさぎは精一杯、身振り手振りで愛想を振りまき、写真に収めようとする人々に応えている。まるで夢の中のような優しい世界だった。ここには、涙を流す人なんて一人もいない。今だけは、誰もが悲しみから解き放たれている。そんな風に思えた。こんなに楽しい場所なら、いつも機嫌の悪い、お母さんも連れて来てあげれば良かったかな。そう思った時にふと、孤独感が胸に立ち込めた。不安になって、後ろを振り返ると入口ゲートは靄のように消え失せていた。そこには、まるで初めから何もなかったかのように壁が聳えている。再度、広場に目を向けると、先ほどまでの喧騒が嘘だったかのように、辺りは静まり返っていた。辺りを支配するのは、遊園地に似つかわしくない夜の静寂。アトラクションから伸びた電飾が、ジリジリと音を立てて明滅しているのだけが、僅かな光源になっていた。不気味な状況下に置かれ、背中に嫌な汗が湧き出て、心臓が早鐘を打つ。動かなくなった観覧車だけが、大きく物静かに佇立していた。私がごくりと、生唾を飲むと、不意に肩を叩かれる。
「こんばんは、お嬢さん。こんなところでどうしたの? 迷子かな」
人当たりの良い高い声で私に話しかけたのは、先ほどのマスコットだった。突然のことで凍りつくような思いをするも、話が出来そうな相手なので、返事をする事にした。
「チケットを拾って、遊園地に来たら、出られなくなったの。ここって裏野ドリームランドって所なのよね?」
私の問いにうさぎは頷いた。
「そっかあ、出られなくなっちゃったんだね。それじゃあ、時が来るまで遊園地を楽しんでいくと良いよ」
私の手が、うさぎの大きな手に握られる。優しいような、冷たいような、お母さんみたいな大きな手だった。
「おいで、案内してあげる」
うさぎの柔らかな声と表情に、私は小さく頷いた。
行き着いた先は、ジェットコースターだった。乗った事はないが、テレビで見たことはある。すごく早くて、怖そうだ。私は驚かされるのが苦手、だからこれには乗りたくない。私はうさぎの顔を見て、首を横に振る。
「大丈夫だよ。登ったり、降りたり、人生とおんなじさ。……大変かもしれないけど」
うさぎはため息を吐いて、何やら小声で喋った。私の必死の抵抗も虚しく、順番が来た。いつの間にか、辺りは客で溢れていて、アトラクションの楽しげな、不安な音楽が響いている。カップルなんかもいて、皆そわそわとこれから、訪れる絶叫マシーンのスリルに気分が落ち着かないようだ。何で、わざわざ怖いのがわかってるのに、こんなものに乗るんだろう。私は、他の人たちが不思議でならなかった。やはり、何処か体調の優れなさそうな、キャストに促され、席につく。シートは冷たく硬かった。安全バーがややキツめに胸に押し当てられると、ゆっくりとコースターは発車する。いつの間にか、うさぎは居らず、隣には呆然と夜空を見上げる男の子が座っていた。虚ろな瞳に光は無く、口はあんぐりと開いている。
「僕、このジェットコースターに乗るの、二回目なんだ。もう、お父さんは怖がって乗らないけど」
感情の籠らない声で告げる少年は、どこか悲しげな瞳をしていた。ゆっくり、ゆっくりと乗り物は天に向かって行く。そして、頂点に達した時、空に瞬く星と眼下に広がる遊園地の明かりが目一杯に飛び込んだ。
「来るよ」
少年がそう言った、次の瞬間にはまるで頭を誰かに殴られたかのような衝撃が頭をゆらし、私の意識はそこで途絶えた。暗闇に落ちるその向こうで、叫び声をあげる少年の声が聞こえた。
目が覚めた時には、キャストが私の安全バーを上げていた。表情はわからないが、何処か申し訳なさそうに手を上げたうさぎが目に映る。
「気絶してたみたいだけど、大丈夫かな。そのコースター、事故があって運転中止になったのを忘れてたよ」
うさぎは頭の後ろを手で掻いた。私は、そんな危険なものに乗せたのか、と恨めがましい目線でうさぎを睨んだ。
「ごめんよ。事故があったのは、もうずっと前の事だったからね。調べている最中だったんだ。とにかく、ごめんよ」
うさぎは再び、私の手を取る。私は今度こそこの飄々とした着ぐるみを逃さないように強く腕を巻きつけた。乗り場の所で、成人の男性が泣きじゃくってキャストに縋り付いているのが見えた。そんなに怖かったのだろうか。
この遊園地は広い、それに客も多い。もっとも、突然消えたり現れたりする客だけど。まるで、昼間のテレビで再放送されている、ホラー映画みたい。なんて、突拍子もないことを考えていた。道中の小さな出店で、ポップコーンが売られていたので、うさぎに頼んで買ってもらった。チョコレートミント味なんて変わったフレーバーだから、たくさん売れ残っていたようだ。
暫く歩くと、船のある水辺に着いた。
「ここは、アクアツアー。アマゾンの探検家になった気分になれるよ。見た事のない変な生き物を見つけたら、気をつけてね」
うさぎはそう言って桟橋で手を振った。やはり、奴はアトラクションに連れ添うつもりはないようだ。不服だったが、出航を告げる汽笛がなり、時間もなさそうなので渋々一人で乗船した。顔の白いキャストが迷彩服を着てトランシーバーを口に当てながら喋る。
「皆さんジャングルアクアツアーへようこそ!」
このキャストは饒舌らしくツアーガイドさながらにトークを続けていた。船には何人もの客が乗っており、外にいる作り物のワニやらカバやらを見てはしゃいでいる。時折、激しく水飛沫があがり、体を濡らす。しかし、それは決して不快でなく、爽やかな気分になるものだった。私がふと、ぼんやり森を眺めていた時だった。舐めるような、刺すような、体にぞわりと鳥肌の立つ強い視線を感じた。視線の主は、黒い姿に眼球のついた、大きな球体だった。その不気味な生物は、私の姿を捉えて離さない。その、不明瞭な生き物をしっかり見ようと思わず船の手すりを乗り出した時、不意に声をかけられる。
「あんまり見てると連れていかれるわよ」
それは、女の子だった。金の長い髪、それに透き通るような青い目。異国の風貌だ。女の子に強く手を引かれ、球体から視線が外れた。体が、舟上に戻ってくる。
「貴女、ミントの良い香りがするわ。知らない匂いね。どこから来たのかしら」
彼女は私の手のひらを強く握りしめた。痛みを感じる程の強さに、私は思わず顔を歪める。
「痛いって事はまだ大丈夫ね。良い? 消えてしまいたくなかったら、自分をしっかり保つの。沢山感じて、沢山考えて。それが、貴女を担保するから」
それから、少女は私の目を見ていった。
「ここで出会ったのも何かの縁ね。私たち、きっと良い友達になれるわ」
少女は笑いながら、そう話した。屈託のないその笑顔に私もつられて笑う。暫く、二人で談笑しながら夜の水面を眺めた。密林の鳥や魚、動物たち、それらは作り物かもしれないが、私達の心に残る思い出は確かなものになる。他の客たちと同じように、今は私たちもただアトラクションを楽しむだけのゲストだ。アクアツアーも終盤に差し掛かった頃、少女はハッとした表情をした。それから、慌てて何かを口ごもる。
「そうだ、もしうさぎのマスコットに話しかけられたら」
「はい! 皆さん、ジャングルアクアツアーは楽しめたでしょうか!」
金髪の少女と、声を張り上げたキャストの声が重なったと思うと、辺りは歓声を上げる乗客の声で包まれた。それから、女の子の姿は消え、岸辺で待つうさぎの姿が見えた。
「どうかな、変な生き物に会ったかな? ん、何かそれ以外のモノと出会ったみたいだね」
うさぎは見透かしたように、こちらを見る。あの少女は、何かうさぎについて私に伝えようとした。だから、何もかもをこの不思議で怪しい着ぐるみに伝えるのは、不味いだろう。延々と連れまわすし、味方ではないのかもしれない。
「別に、ただ女の子と会ったよ」
私がそう言うと「ふうん、そっかあ」とうさぎは呟いた。
「次はここだね」
途中でチュロスを買い食いしながら、たどり着いた先は不気味な洋館だった。庭には、わざとらしい墓標のオブジェクトが乱立しており、人を驚かそうとする魂胆が丸見えだ。
「ここは、ミラーハウス。鏡の迷宮だよ。本来はただの迷路ゲームの筈なんだけど……まあ、入ればわかるよ」
私は首を横に振った。先ほどから、勝手にアトラクションに入らされるが、出来ることなら行きたくはない。ジェットコースターは痛かったし、アクアツアーには変な生き物がいた。少女の忠告が無く、あのまま謎の生き物と見つめあっていたら、どうなっていたのだろう。女の子は、連れて行かれると言っていた。一体何処へ? 一人で悶々としていると、うさぎは首をかしげる。
「そんなに警戒しなくても良いじゃない。折角の遊園地なんだから、楽しまなくちゃ。ほら、もう建物の中だし」
いつの間にか、並んで建物に入る客の群れに巻き込まれていたようだ。薄暗い建物の中で、人々がひしめきあっている。おどろおどろしい老婆のような声でナレーションがこの屋敷の曰くを語っている。
「屋敷の主は、老いを恐れるが余りに自分の本当の姿を鏡に閉じ込めてしまったのさ。本当の自分を見失ったままでは、生きていく事さえままならないとも知らずにね」
気がつくと、やはりうさぎの姿はなかった。扉を開けると内装は、壁や天井、床に至るまで全てが鏡張りになっているようで、方向感覚などあったものではない。ふと、正面の鏡に映る、自分自身と目が合った。しかし、そこに映った姿に面くらうことになる。鏡に映った私は、今にも泣き出しそうな表情で、ガラスの破片のようなものが脳天に突き刺さっていた。つられてズキズキと何処かが、痛んだ。苦しくなって胸を押さえて、その場に蹲ってしまう。
「大丈夫よ、自分を強く持って」
私の肩を抱いたのは、美しい糸のような金髪の少女だった。彼女の優しい手に触れ、本来の自分を取り戻せた気がした。強い意志を持ち、もう一度、鏡を見る。そこには、もう傷ついた私などいなかった。頭を殴られて、泣き出しそうな私なんていないのだ。しかし、隣に映る少女の顔は違っていた、彼女の優しく聡明な青い瞳はそこになく。鏡に映る両目は、糸のようなものできつく縫い付けられていた。
「大丈夫?」
私は震える声で、肩を抱き返した。少女は笑う。
「私の事を心配してくれるなんて、なんて優しいの。きっと、百合の花弁のように素敵な表情をしているのでしょうね」
彼女は、私の頰に手を当てながらそういった。そして、不意に目線を逸らす。
「素敵な友達に、一つ頼んでも良いかしら」
少女は、私を見つめていった。
「ドリームキャッスルで、私を見つける手伝いをして欲しいの。ごめんね、私一人じゃ上手く探すことが出来なくて。でも、貴女なら、きっと私を見つけてくれる」
私は震えながら、懇願する少女を抱きしめていた。恐怖に震える彼女に、一体何があったかはわからない。でも、私に出来ることなら助けてあげたいと思った。私も、怖くて動けなくなった時に助けて貰ったのだから。
「わかった、必ず見つけ出すよ。約束する」
そう言って、私は右手の小指を彼女の小指に絡ませた。
「本当? 嬉しいわ」
少女は、にこりと屈託なく笑うと、風のように消え去ってしまった。残ったのは、鏡に映る虚ろな目をして、血を流す私自身だけ。頭に刺さったガラスの破片を勢いよく抜くと、血が吹き出した。手のひらは傷ついたが、痛みは感じなかった。今、心に浮かぶ、この感情はなんだろう。薄暗く、もやもやとした痛みに似た感情は。怒りか、それとも、悲しみだろうか。私の本当の姿とは一体なんだろう。この痛くて苦しいだけの気持ちが、生きるという事なのだろうか。鏡には、血で描かれた矢印が浮かび上がっていた。やがて、エンドの文字が映り、その指示通りに歩き続けると、外の光が差し込んできた。
「痛そうだね。でも、前よりずっと生きた表情をしてる」
うさぎは他人事のように何かを言うが、聞き流していた。それより、私には果たすべき約束がある。
「ドリームキャッスルに行こうと思う、広場にあったお城だよね」
私がそう言うと、うさぎは意外そうな顔をした。
「君の方からリクエストとは驚いたよ。そう言えば……いや、今はお城へ行く方が先決だね」
私はうさぎの大きく無骨な手をとると、そそくさと歩き出すのだった。
お城は噴水広場の奥にある。塔が四つ伸びるお伽話のような白亜の城は、有象無象たちで溢れていた。なだらかな段で跪いて今まさにプロポーズをする男性。求愛を受けた女性は突然のことに口元に手を当てて、驚いている。感極まって泣きだす二人を周囲は祝福した。そうだ、私の両親だって、こうだった筈だ。二人の幸せの結晶が、今ここにいる私だった筈なのだ。なのに、どうして。根元のわからない、痛みを抑えながら、私は立ち尽くしていた。首を横に振る。彼女との、約束がある。今は、それに応えなくてはならない。
エントランスは広く、高い天井から豪華なシャンデリアが垂れ下がっていた。大理石の床に赤い絨毯が敷き詰められ、どこかに本物の王様が住んでいるような、そんな空気感だった。
「ねえ、このお城に何をしに来たのかな」
エントランスの階段を上ろうとした時に、うさぎが唐突に話しかけてきた。
「友達を探しに来たの。きっとあの子もこの遊園地から出られずに困っているんだよ」
私はうさぎの目を見ていった。うさぎはこてん、と愛らしく首を傾げた。
「友達か……その子の名前は聞いた? どうして、ここに来たのかとか」
うさぎに聞かれて私は改めて考える。確かに、思い返せば、私はあの子の名前すら知らない。私が知ってるのは、あの子は私の友達で、励ましてくれたこと。それから、助けを求めて震えていた事だけだ。でも、それがどうしたというのだ。名前や生い立ちなんてものは、欠けらであって全てではない。友達を助けることに理由なんていらないのだ。
「知らない」
私が一言だけ呟いたのを聞いて、うさぎは頷いた。
「当然だよ。だってその子は……」
「そのうさぎの話を聞いちゃダメよ!」
階段の上の方から、あの子の声が聞こえた。
長い金色の髪が揺れて、まるで、童話のお姫様のような出で立ち。少女は、私の、うさぎと繋いでいない方の手を強く握った。
「そいつは嘘つきよ! 連れて行かれちゃうわ! 早く一緒に逃げなきゃ!」
正面には、強い眼力で訴えかける少女。背後では、うさぎが困ったように首を横に振っている。突然の二者択一で、私が、手を離したのはうさぎの方だった。そのまま、引きずられるようにして少女と共に長い廊下を走る。まるで、何かから逃げているようだ。そう思って、後ろを振り向くとアクアツアーの森で見た、黒い球体がこちらへ迫って来ていた。
「ひっ」
私が少し驚くと、少女は振り返らずに「大丈夫」とだけ言った。それから、長い廊下の袋小路にある大きな肖像画の前で止まった。美しい女性が胸の前で手を合わせる、祈りの姿勢の絵。彼女が、額縁の辺りの壁を触ると肖像画の下側が開いた。隠し扉だ、身を屈めるようにして、奥へ進むと少しかび臭い部屋に辿り着いた。
「ここまでくれば大丈夫よ。うさぎにも、お化けにも、もう誰にも見つからないから」
少女は笑っていった。
「よかった……そうだ、手伝って欲しいことがあるんだよね?」
私が問うと、少女の表情が曇った。声のトーンが落ちて、ぽつりと溢れるように言葉を紡いだ。
「そう、手伝って欲しいの。暗くて、何も見えなくて、一人じゃ探せないから」
こちらを真っ直ぐに見つめる少女の目は、やはりキツく縫い付けられていた。私は、その痛ましい光景に思わず、目を逸らす。この部屋は、一体、何の為の部屋なんだろう。机の上にある、ライトの電源を入れるとほんのりとした明かりが点いた。ベットと、無造作に散らかった衣服、それから本棚に何冊かの本がある。私は、栞の挟んであるシンプルな背表紙の本を手に取った。それは、誰かの日記だった。
"十月十一日
今日はエリーゼの誕生日。お父さんとお母さんが素敵なケーキを買って来てくれたわ。苺がたくさん乗っていて、ふわふわなの。本当に素敵、生まれて来て良かった! "
幸せそうな内容、私は自分の何処かが痛むのも気にせず、ページを捲った。
"十二月二十三日
もうすぐクリスマスだっていうのに、お父さんとお母さんの仲が悪いの。なんでかしら。でも、大丈夫よね。喧嘩しても、必ず分かり合えるって学校の先生が言ってたわ。そうだ! クリスマスに私が二人にシチューを振舞ったらどうかしら!きっと喜んでくれるわ!"
"一月七日
お母さんが家に帰ってこなくなった。お父さんの元気がない。お母さんは酷い裏切り者だって言ってたわ。でも、教会で牧師さんが大切な人の裏切りは許すべきだ、それが愛でありこの世で一番美しいものだって聞いたの。そう私が言ったら初めてお父さんにぶたれた。痛かった。"
可哀想だな、と思った。この子はたぶん、何も悪くない。崩壊しかけている、小さな世界を守ろうとしただけだ。ページを捲るのが怖くなってしまった。
"一月二十四日
お父さんは私に言ったわ。エリーゼのその金色の髪や青い瞳を見ていると、お母さんを思い出してイライラする、顔も見たくないって。私は生まれてこない方が良かったのかなあ。"
そんなこと、ないよ。思わず、声が漏れた。気がつくと、ページを捲る手は震えている。次のページは半分が血で染まっていた。当然、背後から鮮明に声が聞こえる。
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い! やめてよ! お父さん! ごめんなさい! 生まれてきて、ごめんなさい! 痛いことしないで! 髪も剃るから、目も瞑ってるから!」
少女……いや、エリーゼが誰かに折檻されていた。恐らく、父親だろう。椅子に座らされ、腕は縛り付けられ、頭は坊主にされている。父親は、手に裁縫道具を持ち、エリーゼの目を縫い付けた。針が刺さる度に、およそ人間らしからぬ咆哮が、暗い部屋に響く。私は思わず、吐き出しそうになる。辛い、苦しい、こんな事があっていいのか。許されるのか、いや、許してはならない。思わず、私は机の上のスタンドライトを持って、父親の頭を殴った。すると、父親は霧散し、無残な姿のエリーゼだけが取り残された。私は、彼女を抱きしめる。
「辛かったよね。苦しかったよね」
私の問いに、エリーゼは答えなかった。怪訝に思い、顔を見るとエリーゼの頰は不気味につり上がっていた。
「じゃあ、代わってくれる? 私の代わりに苦しんでくれる?」
私は、一切迷わなかった。
「いいよ、代わってあげる」
エリーゼは、そのまま真っ直ぐに腕を伸ばし、私の首を掴んだ。手形が残るくらいに強い力だったが、私の表情は穏やかだった。この程度の事で、彼女の痛みが少しでも軽くなるのなら、私の感じるものなど、もはや痛みではない。面食らったのは、エリーゼの方だった。彼女の瞳からは、大粒の涙が流れ出ていた。
「どうして?」
「わからないよ」
エリーゼの問いに、私は微笑んで返した。同情したから……違うな。友達だから……たぶん、惜しいな。好きだから……わからないな。でも、許してあげたいというのは本当だ。それもちょっと違うか、私はエリーゼを助けてあげたい。血を垂れ流して、怒りに打ち震える姿が本当の私ではないように、きっと、酷い目にあって同じように誰かが苦しめばいいと思うエリーゼも本当の姿ではないはず。彼女がこの狭い部屋で探しだせなかったものは、本当の自分だったんだ。痛みや苦しみで、目を潰されてしまった彼女の瞳をもう一度、開かせてあげなくてはならない。私がエリーゼを抱きしめると、今度は柔らかい抱擁で応えてくれた。
良かった。私が安堵すると、突然、黒い腕がエリーゼの肩を引いた。いつの間にか、背後には黒い球体がいた。私が慌てて、引っ張られたエリーゼの体を手繰り寄せようとするも、びくともしない。エリーゼは屈託なく笑った。
「私は、悪い子だったから、地獄に行くのかな。でもいいの、最後にいい思い出が出来たから。そういえば、あなたの名前を聞いてなかったわね」
エリーゼの腕を離さないまま、私は答えた。
「凛花、私の名前は、りんかっていうの。エリーゼ、諦めたら駄目だよ! 自分を強くもって!」
暗闇に引きずられながらも、エリーゼは言った。
「りんか。素敵な響きね」
完全に、その姿が消えてしまいそうな時だった。大きくて、柔らかくそれでいて無骨な手がエリーゼの体を引いた。うさぎだった。
「エリーゼに、凛花ね。二人とも隠れんぼが上手で探すのに手間取ったよ。間に合って良かった」
うさぎのマスコットはこともなげに、球体を追い払う。
「僕はね、奴らみたいに強引なのは嫌いなんだ。魂の管理、そんなのはわかってるよ。でも、成仏ってのは本人が納得してするべきだと思うんだ」
ようやく、話がわかってきた。薄々は感じていたけど、信じたくなかったこと。
「つまり私たちはもう、死んでるってことね」
私の問いにうさぎは頷いた。
お城から出て、談笑しながら私たち三人は遊園地を歩いた。うさぎは、前々から見かけるエリーゼの事を気にかけていて、早く成仏させようと説得していたが目の敵にされていた事などを聞いた。
「だって、突然現れて君はもう死んでいるんだよ。なんて、言われたら怪しむよね!?」
エリーゼの問いに、私が頷くとうさぎだけは納得いかなさそうだった。
「だって、本当の事なんだから。それ以上に上手く伝える方法なんてないだろう?」
うさぎが何者なのか、どうしてこんな事をしているのかは定かではないが、大変そうな仕事だなとは思った。しばらく歩いて、エリーゼのリクエストで観覧車に乗ることになった。私たちは手を繋いで並んで順番を待つ。いつの間にか、辺りは人で賑わい出して、私たちは本物の遊園地に遊びにきているようだった。いよいよ、乗る時になってエリーゼはうさぎを制した。
「二人きりになりたいの。あんたはちょっとここで待ってて」
エリーゼの言葉にうさぎは黙って頷いた。
ゆらり、ゆらりとゆっくり登っていく籠の中で、私たちは対面した。あれだけ歩き回った遊園地が今はちっぽけに見える。
「凛花。あなたの心残りってなに?」
エリーゼが、不意に私に問うてきた。首をかしげる、そういえば私は何で死んでこの世に残ったんだろう。そもそも、何で死んだんだっけ。何も思い出せないな。
「わからない、か。私の心残りは、多分、生まれてきた事を誰かに肯定して貰うことだったわ」
エリーゼは、笑みをたたえながらも此方を見つめて言った。
「ねえ、凛花。この世で最も美しいものって何だと思う?」
この世で最も美しいものか。例えば、今みたいに一面に広がるダイアモンドのような夜景だろうか。或いは、エリーゼみたいな絶世の美女とか。違うか。私が悩んでいると、目と鼻の先にまでエリーゼの端正な顔が迫っていた。両手で、私の頰を持ち上げ、それから軽くフレンチキスをされる。私はその時、この世で最も美しいものはエリーゼだよ、と思わず口をついて出そうになった。そうか、この世で一番美しいもの、あの日記に書いてあったな。
「愛?」
私の言葉に、エリーゼはにこりと頷いた。
「そう。私はね、世界で一番美しいものは大切な人に向けた愛情だと思うの。それは、他のどんなものとも交換できないわ」
ぼんやりと、輪郭が薄れて消えかかっていくエリーゼを私は抱きしめる。それが、どういう事か、私にはわかった。
「いかないで」
エリーゼはただ、私を優しく抱きしめた。
「泣かないで、私は幸せよ。だって世界で最も美しいものを手に入れたんだから。だからね、もう心残りはないの。ありがとう、凛花。あなたのおかげよ」
消えゆく、エリーゼの笑顔は、美しかった。それからの事は朧げにしか覚えていない。永久に思えるほどゆっくりと時間が過ぎて、観覧車は地上に降り立った。
律儀に佇立していたうさぎは、降りてきたのが私だけだったのを見て、全てを察したらしい。
「お疲れ様。後は、凛花だけだね。何か覚えている事とか、ない? 最期まで付き合うよ」
私は、さっき観覧車で降りる時に見かけたメリーゴーランドに行きたいと言った。まだ、幼い頃、デパートの屋上にある小さな遊び場で乗った事がある。お母さんが、まだ優しかった頃の事だ。そうだ、お母さんは元気かな。私が、家事をしてあげなくて困ってるんじゃないかな。勝手に死んじゃってごめんね。
キラキラとしたメリーゴーランドは、王子様の乗る白馬のようだった。珍しく、うさきが先に乗るので、私も一緒になって乗っかった。景色が目まぐるしく回転して行く。私の、心残りか。思い出そうとして、頭がズキズキとする。痛いのは、殴られたからだ。誰に……そう、母に。私がいけなかったのだ。学校帰りに疲れて、眠っちゃって洗濯の時間が遅れたから。そのせいで、お母さんの服が生乾きになってしまい、お母さんは仕事にいけなくなってしまった。母は、その事で怒り狂って、ビール瓶で私を殴ったのだ。
「あーあ。なんで、子供って殴ったら死んじゃうんだろう」
虚ろな目をしていた母を思い出す。でも、きっとあれはお母さんの本当の姿ではなかった筈なんだ。だって、お母さんは私の小さな頃はもっと良く笑っていたから。
「私は」
うさぎの大きな背中を抱きしめながら、嗚咽を漏らすように喋った。
「お母さんを助けてあげたかった」
「私なんてどうなってもいいから」
「お母さんには笑っていて欲しかった」
「だから、一生懸命頑張ったよ」
「なのに、ごめんね。ごめんね」
「凛花、君はとても優しい子だよ」
泣き疲れたころに聞こえた、うさぎの柔らかな声が、とても心地よかった。だんだんと眠たくなってきて、暖かい背中に頭をもたれてしまう。
「ゆっくりお休み。良い夢を見られるといいね」
うさぎは、背中にのしかかった感触が薄れていくのを感じてゆっくりと馬から降りた。
ホラーは本来、得意なジャンルではないのですが、夏で企画だということもあり書いてみました。最後まで読んでくださった皆様、ありがとうございました!