第5章 ウィア・ゴーナ・ラン(5)
─場面は同じ日の夜のホテルへ。
腰にタオルを巻いただけの格好で立つ難波が、浴室のドアを開け出てきた。これから彼は裸の足音を響かせながら女のいるベッドへと歩いて行くことになるのだが、その前に一度、振り返る拍子に自身の脇の辺りに鼻を向けた。それから、
「まあ……大丈夫だろ」
と呟いた。
そうして何歩と踏み出していけば、横にあった壁は途切れ、代わりにベッドの上でうつ伏せた女の後頭部が現れた。
目にしてから1秒ばかりは見下ろすようにして見た難波だったが、すぐにベッドの壁に面した固い板の部分に左肘を置いて前屈み、ゆっくりとその髪を撫でた。そうしていくらか揺れた髪の合間に難波は、乾きかけた涙のあとを見た。
そのとき、女は何か話していた。
といっても、それは独り言のように小さな声で、また寝言のように不明瞭で。ただ少なくとも難波は、
「……お嬢さん」
という一言だけは聞き逃さなかった。
……難波は、何も言わなかった。
彼がベッドの側から離れたのは、そう言ってまもなくのこと。
また、女がゆっくりと瞼を上げたのも、それからまもなくのことだった。
更に言うなら、難波の携帯が鳴り始めたのも、これまた、まもなくのことになる。
「……もしもし」
『もしもし……いつもお世話になっています』
電話から聞こえてきたのは、男性の声だった。
対する難波は、まず女の背中を一瞥する。それから後で、
「どうも、皆原さん……ご無沙汰してます」
と、多少不自然な程に大きな声で。
『今……お時間は?』
「大丈夫っすよ……」
電話口だというのに、作り笑いを浮かべた難波。
やはり心なしか、声が大きい。
『……やってもらえたいことがある』
この一言から更に数秒後、難波はこう答えるのであった……
「構いませんよぉ……平生さんの為ですから」
─時任との会談を終えた男のその後について。
こめかみの黒ずんだ彼であるが、先程までいた店の外で、電話をかけていた。
「……えぇ、時任はシロでした」
とは彼の弁。対して、
『言った通りだろうが?……あんな小心者にそんなマネができる訳がない。オマエの勘も今度ばかりはハズレたな』
冗談っぽく笑う電話の相手。
「いやぁ……平生さんには敵いませんなぁ」
『しかし、まあ、それで……』
相手の声のトーンが変わる。
『……ホシは割れてるのか?』
「まだ確信は持てませんが……おそらくは」
『……誰だ?』
「……難波配流がボクを殺そうとしている」
と時任は言った。
場所は式場で、少し前まで話していた相手が電話しているのと同じ頃。
その部屋というのが、今まで触れていなかったが、例の遺体が置かれていた部屋の奥にあり、座っている彼の目前にあったのは、仏壇だった。
「何を大袈裟な……」
とは、後ろに控えていた生嶋の弁。
「棚の中身を盗んだのは、恐らく彼だ」
そう話す時任の視線は仏壇の方にあり、後ろに立つ生嶋の方へは向けられていない。
「だとしても……何の目的で」
「そんなものは保身に決まっているよ……あとは、証拠を揃えられた時点で、ボクはおしまいだ。彼にはウソの情報を掴ませているが、そんなものは気休めにもならないだろうね……」
「……どうするんですか?」
深く息を吐いた時任。正座していた足を動かしてゆっくりと振り返ると、こう言ったのだ。
「あの人はきっと……こちらの目的を理解しているでしょう……話していてわかりましたよ。彼はボクとある人との交遊関係を指摘してきた。平生一派にとってその人の仲間といえば、そのまま敵という意味だと取っていいものでしょう。それをあえて言うのは……何でだと思いますか?」
「……何故?」
生嶋は2、3秒ばかりの沈黙を経て、
「……警告、ですか?」
と応じた。それに時任が頷くと、生嶋は更に、
「それって、かなりヤバいんじゃ……」
と漏らした。
「……もちろん、単に情報不足であるから揺さぶりをかけに来た可能性もあります。ありますが……おそらくは警告でしょう。同時に、ひどく非効率な判断だ」
「……はい?」
「何故……敵だと見なすなら、あの場でボクを始末しなかったのか。寄神クンが控えていたことは悟っていた、としても不自然です」
時任は再び深い息を吐いたかと思えば、
「あの場で戦いになったところで、こちらには何のメリットもなかったわけで……むしろ、ボク……時任達也を悪役に仕立てる口実としてはこれ以上ないものだった、といえるでしょう……あの人からすれば」
と。
このとき、時任の視線は生嶋の方へと向いていた、というよりは、もっと下の方に向いていた。目を伏せていた、とでも言うべきか。
「……つまり」
と言い出したのは生嶋。目線を上げる時任。
「あえて……泳がせている、と?」
生嶋がそう言えば、時任はまた頷いた。
「……何のために?」
「わかりません……わかりませんが、これだけは言えます。ボクがあの人の名前を教えた人物は……1人しかいない」
対して生嶋が答えた。
「それが……難波配流だと」
時任はゆっくりと瞼を下ろして、ゆっくりと首を縦に振った。
─時任の話が一段落する頃には、電話も終わっていた。
今、目の前には彼をここまで送ったあの赤いベンツがあった。自らドアを開け、後部座席に腰を下ろす。彼が座るとすぐに車は発進した。
車が出てすぐ、彼は自前のバックに手を伸ばした。引っ張り出したのは、水色のボイスレコーダー。
そうして、再生ボタンに手をかければ、流れてきたのは、以下の内容だった。
『 ……千秋がオマエを信用すると思うか? 』
『努力は……しますよ』
『……まあ、頑張れよ』
そこまで聞き終えて停止ボタンを押した。それらボソリと、
「どう努力するのか……見物だねぇ」
と呟いた……
(To Be Continued……)




