第4章 オン・マイウェイ・ダウン(1)
─無機質な木目色の床が、赤黒く汚れていくのを見ていた。
いつかの日の弱く幼い俺がそこにはいた。フローリングの床へ頭から何度となく叩きつけられていた俺がいた。殴られ、蹴られ、タバコを押し当てられた俺がいた。
「やめてよ……痛いのは嫌だよ」
なんて言って泣いている俺がいた。震えている俺がいた。
「黙れ……殺すぞ」
なんて言っている母がいた。
我が子を殴る母だった。我が子を蹴る母だった。我が子に根性焼きをする母だった。我が子をフローリングの床へ何度も何度も叩きつけた母だった。
この母はいつも、この “教育” の最後をこんな言葉で終える。
「……オマエは一生、アタシの奴隷だ」
俺は思った。悪魔より悪魔みたいな母だ、と……
─今朝もフローリングの床で眠っていた。
そして今日も、またあの夢に侵される。
あの頃から何ら変わらない。あの悪魔を追い払ってくれるのはいつも、この濃い真っ青な空だけだった。
怯え震える夜の黒でも、眠れる夜明けの赤でもない。このひどく曖昧で、ごく短い世界。このときにだけは、あの恐ろしき魔女もまた、束の間の眠りにつく。同時に、夜通し折檻を受けた俺がやっと眠りにつくことのできる時間の到来を知らせる。
本当はブルーアワーというそうだ。だが、名前などはどうだっていい。
あの青い空が救いだった。祈りだった。
ネックレスにした半ソブリン金貨を握り、イスに腰掛け、テーブルを枕に、
「……おやすみなさい」
こうして俺の眠る横で、静かに日は昇っていくのだった……
─ごく短い睡眠時間を噛み締めて後、俺はある用件を済ますべく、駅へと向かって歩いていた。何ら意味はないが、ごく気まぐれに、いつもとは違う道を歩いた。改めて言うが、それに意味などはない。ただ、そんな最中で、あれに目がいった。
最初に聖歌が耳に入り、足を止める。
そうして俺の右手側に現れたのは、一軒の古びた教会だった。あちらこちらに、「聖ジョージ教会」との文言が刻まれ、また白地に赤でクロスが描かれた教会である。
少しの間、それもほんの数秒、ぼんやりと見つめていた。ネックレスに片手を伸ばそうとしていた。そんな折に、
「……あの」
なんて声が背後から俺を呼び止めた。
振り返ると、そこには一人の修道女がいた。
薄幸そうな細身の女性である。自ら呼び掛けたにも関わらず、どこか怯えたような表情を見せる。
「祈って……いかれますか?」
空気にさえ押し潰されてしまいそうな極めて小さな声で。不思議とその一言に、世界の時が止まってしまったかのごとき錯覚がした。
対して俺はただ、伏し目がちに、
「……いや」
と答えて、そそくさとその場を立ち去った……
─こうして辿り着いた目的地は、『セレモニーホール雁貝』。
ここは、左右をコンビニとファミレスに挟まれたこじんまりとした葬儀場であり、この日、その入り口には「故・仁科学 様」との文字が書かれた白い柱が建っていた。
時刻は4時26分。
男に親族はなかった。いや、あるいはいたのかもしれぬ。ただ、電話帳はおろか、彼の身の回りにはそういった方々と通じる情報がまるでなかったので、必然的にいないという扱いで葬儀を行わざるを得なかったのである。
加えて、『雁貝』は狭い。いくら今日の葬儀が彼だけだったとはいえ、例えば数十人もは入ってこれないだろう、と。
……それらの要因を鑑みても、随分と小さな葬儀だった。
入り口の隅に立ち、周囲を見渡す。
すると先に、一人ポツンと座る千秋の姿を見た……
(To Be Continued……)




