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5分11秒の回想  作者: 仁科学
第一部 ヴィクトリア朝の亡霊
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第3章 ゼン・ゼア・ワズ・レイン(5)

「……さようなら」


そんな一言と共に、頭上に降り下ろされたナイフではあったが、千秋には刺さらなかった。

降り下ろす正に直前に、まず千秋の体が横に動いたのが始まり。

次の瞬間、心臓を圧迫される感覚を覚えた千秋は、手を胸の方に伸ばそうとした。結局、それ自体は一連の麻痺反応のせいで叶わなかったが。

続けて、女の体に何かがぶつかった。右肩が後ろへ向かって押されたように動いた辺りから、視認できないが、それはどうやら人並みの大きさを持っているらしい。

そうして手を離したときには、軌道が反れて、ナイフは千秋を避けて地面の方へと落下した。


「ヒッ」


と笑う千秋。

このあとで、千秋は顔を動かして、笑顔を女に見せようとしたが、それはできはしなかった。理由はあえて語るまでもなかろう。

とはいえ、笑い声の方は女の耳に届いていた。


「ハァ?」


そう言うと共に女は、ゆっくりと足を上げ、サッカーボールを蹴るように、千秋の頭を蹴り上げた。

千秋の首から上が少し浮き、今度は顎から地面に叩きつけられた。


「イッッ、タァ……」


千秋からそんな声が漏れる。ごく小さな声ではあったが。


「何ィ?さっきの声……状況わかってんの?」


そう言いながら、女はもう1度踏みつけてきた。今度は首筋の辺りを。


「こんなッ……状態の……クセして……」


などと言いつつ、ほぼ同一のテンポでもって、3度ばかり踏んできた。

そうして、4度目に足を上げた瞬間、軸足の上に何かが乗っかる感覚に、女はバランスを崩し、尻餅をついた。そのときには、足首の上辺りの皮膚が、ヒールぐらいの大きさの丸い凹みを見せた。


「……ヒヒヒ」


千秋がまた笑っている。

その横で、女は鋭い視線を浴びせつつ、徐々に立ち上がっている。


「なんだよ……意外と大したことないじゃん……アンタ……」


と言った千秋。

目を反らしている上、はっきりしない発音ではあったが、その強い語調は相手を怒らせるには十分だった。

同時に千秋は、目の端で自身の方に伸びる女の影が見えていた。


「……今、何ていった?」


というのが、相手の応答。

千秋は何も言わず、ただゆっくり唾を飲んだ。


「何か言ったでしょ?いまさっき……もう1回言いなよ……」


言葉と共に、ナイフを振り上げる腕の影が見えた。

更に女は続けて、


「……言えるんなら」


とも。振り上げたナイフがゆっくりと下がっていくのが見える。

1度は目を反らした千秋が、勇気か興味か、恐る恐る目線を上げてみると、刃はもう彼のほんの数センチ上にあった。この、ほんの数センチの差が埋まろうものならば、刃は彼の首に切り貫くことであろう。

これには思わず、また目を伏せた千秋。


……しかし、実際にその刃が突き立てられることはなかった。


静電気を浴びたかのごとく、女の体に僅かに揺れた。

千秋はこれをやはり影で見た。

そして影の顔の向きが変わる。

あれから2、3秒が経った今、千秋は顔をひきつらせたままに、徐々に視線を上げていく。すると、


「……ちょっと待って、何で?」


と女は言ったが、これは彼の気持ちの代弁でもあった。


─目線の先には、一頭の『虎』がいた。

何かを虎に例えているのではなく、あの動物の虎が本当にそこにいたのである。

といっても、普通の虎とは多少訳が違う。

その皮膚は青みがかった鋼のような色味で、顔の右半分は、ネジに似た鼻が留め具の役割を果たしているのか、蓋らしき凹凸のない一枚板に覆われているが、左半分にはそれがなく、鼻より小さいネジやら歯車やらが剥き出しになった機械的な風貌なのである。

千秋は直感的にアンティークな機械時計の装飾を連想したが、自分でも何故それをイメージしたのかまでは説明できなかった。

……ただ、結果的に自分は正しかったと、千秋はこのあと、思うことになる。

この『虎』の歩く音が、丁度時計の針が動く際のあのカチッ、カチッという音によく似ていたのである。


この『虎』の登場から更に数秒後のこと。このひどく緩やかな時の流れる空間にあって、この個体だけはそれなりの速さでこちらに接近してきていた。

ただ、女もその間、動かずにいた訳ではない。

必然的に動きは遅くなってはいたが、千秋の体を起き上がらせ、『虎』と自身の間にその身を置いた。首の前にはナイフの刃をあてて。盾のつもりか。


『虎』は走ってはいないが、広いといっても玄関から門までは然程長さはない。

徐々に距離が詰まっていく中で、遂に『虎』の鋭い牙を見てしまった。

深い息を吐き、観念して目を閉じた千秋。


……ただ、千秋の予想はまたしても裏切られることとなった。

まず、女の体が揺れて、自身の肩に乗った手に彼女の体重がかかる。

ついで、2度目の揺れで、彼女の吐いた血が肩に飛び散った。

最後、3度目の揺れの結果、ナイフを首にあてていた手も、肩に置かれた手も、どちらも力を失って落ちた。また、彼女の首は千秋の肩の上に下りた。

振り返ろうと千秋が動けば、女の首が肩の上を外れて、脆くも地に倒れた。


彼の両目に色彩が戻ってきたとき、最初に見たのは、息絶えた女の姿であった。

丁度、先程までの自分がそうしていたように、今は彼女が仰向けに倒れている。左胸には、3本の矢が刺さっている。


このあとで、顔を上げた千秋の目に入ってきたのは、ドアポストから覗くボウガンだった……


(To Be Continued……)


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