第3章 ゼン・ゼア・ワズ・レイン(4)
─あの日。「ボルボン」でのこと。部屋の時計は、3時21分と明らかに見当違いな時間を指している。
店仕舞いの後で、ルビつきで「Reina」と書かれた白い紙が貼られたドアの前にいた。ドンドンと2度ばかりドアを叩けば、
「どうぞぉ~」
と返ってくる。猫なで声の返事が。
そうして開けてみれば、鏡台の前に一人の女性が座っていた。
白いブラウスの上に、黒のキャミソールを着ている。下は赤いチェックのスカート。
それは先程まで舞台で踊っていったダンサーであり、また後に時任宅へと来る女性である。
そんな彼女、振り返って部屋の外を見て一言、
「……アンタ、誰?」
と言った。
「奥都城という……平生さんからの伝言を伝えにきた……」
というのが、それへの返答だった。
それから5分後の、3時26分。奥都城が部屋の中にいて、まだ話は続いている。
「……えらく強調してるけど、そんなにヤバいヤツなの?その……千秋てのは?」
「あぁ……『ロスト』が殺られてる」
「あっそ……」
返事と同時に、女は組んだ両手を正面へ真っ直ぐ伸ばした。
自然、声色もいくらか乱れる。
「まぁ……その人を私、知らないんだけど」
と、女は続けてボソリ。
「何にせよ……警戒は怠らないように」
「……はいはい」
─あの場所に場面を戻そう。
悶える姿は、陸に上げられた魚か、はたまた生まれたての子馬か。ほぼ平であるハズの大地がひどく歪曲して感じられて、必死に身を起こそうと動くその両手は地面に対して平行を保てず、前方へと滑り、手のひらと手首の皮をいくらか削いだ。
そうしてだらしなく顔から地に叩きつけられた千秋は、地を這う今ですら、下が波を打つような違和感に晒されている。
「何か……拍子抜けなんですけど……」
などと呟く女。
見れば、右腕を肩の上で曲げている。手を見れば、やはりナイフが握られているらしい。
曲げた腕を伸ばし、その勢いままにナイフを手放す。投げるというよりは、降り下ろすとか、叩きつけるとかいうやり方で。
ただ、今度ばかりは千秋には命中せず、例の突風に弾かれ、落ちて、転がった。
それでも、2投目とはいくらか違う様相を呈しており、あちらが同一直線で互いが逆向きに進み、正面衝突を引き起こしたのに比べ、こちらは側面を突いた形の打ち落とし方であったが。
何にせよ、女が、
「……チッ」
と舌打ちしたのは事実である。
なおこのとき、千秋には心なしか、女の口の動きが遅いように感じた。
千秋は、這って逃げられないものかと思った。
まず、ほふく前進の要領で、両肘を支えに、体を少し持ち上げようとした。
しかし、自身の下にありもしない凹凸を感じ取ってしまった千秋には、ただ地に添って真っ直ぐに両肘を置くことさえ上手く出来ず、体と地面に隙間が出来たのも束の間に、脆くもまた倒れてしまった。
感覚の鈍りからか、千秋は顔から倒れるも、先に地面についたのは頬の側だった。
それを見て女は、小バカにしたように、
「フッ」
と鼻で笑うのであった……
─屋内に目を写す。
書斎のドアが開くと、立っていたのは、またあの女性。
相も変わらぬ髪の乱れ様で、やはりそれは波を思わせる。
「……外で何か、起こっているようですが」
とは、この彼女がの台詞である。
「……そうか」
息を漏らしつつ、そう答えた時任は尚も、古びた置時計の前に立っていた。
視線が時計の方にあるせいか、少し首を下げている。
「何か……見た?」
「いいえ……ただ……」
若干首を傾げると、女性は、
「……あそこは波長が違う」
と答えた。
「何か……特殊な空間が出現しているのかも……」
こう続けたが、この最後の言葉では心なしか声が小さくなった。
「……どちらだと思う?」
それは時任の言葉。
要領を得ない女が何も答えないでいれば、時任はこう続けた。
「今、千秋クンを襲っている輩は……千秋クンを追ってここに来たのか?それとも、最初からこことわかってやってきたのか?」
よくよく見れば、時任の目線は、時計がある位置より幾らか下を見ているらしい。
ところで女だが、そう説明はされたものの、しばらく何も答えなかった。
やっと口を開いたとき、ついて出た言葉がこう。
「どちらだとしても……関わらない方がよろしいのでは?」
─屋外に目をやれば、女の姿が今は、千秋のすぐ側にあった。
あと一歩踏み出せば千秋の手を踏むことになるだろう。それほどに近い。
「……さようなら」
相手を嘲笑するような笑みを顔に浮かべつつ、千秋の頭の上にナイフを落とした……
(To Be Continued……)




