序章 ロールド・ザ・ワールド(1)
その晩、俺は夢を見ていた。奇異な夢だった。
四方八方どこを見渡せどただ暗闇が広がる世界にあって俺は、ただ女の背中を見つめていたのである。
彼女は何か白いオーラのようなものをまとい、奇妙なことにその姿だけはこの暗黒の中で克明に映っていた。
金髪にも茶髪にも見える長い髪をなびかせながら、彼女はどこかへと歩いていく。
ただ、その動きは少々不自然で、足音はしているものの、足を上げたり下げたりという動きは見られず、まるで地面を滑っていくようで、それでいて動きは存外緩慢なものだったのである。
この夢が始まったときから、既にその後ろ姿は随分と遠くに見えていたが、俺は一目で分かった。
彼女を俺は知っていた。
「……待ってくれ」
と呼びかける。
あまり大きな声ではなかったから、あるいは聞こえなかったのかもしれない。相手は返事もしなければ、振り返る素振りさえ見せない。
「謝りに来た……ずっと……言いたかった……」
今度は声を張って喋ったが、状況に変化はなく、ただ広さも定かではないこの暗がりの部屋にその声がむなしく響くだけだった。
「俺は君がいなきゃダメなんだ……側に、俺の側に……」
そう言う俺の叫びは、ただ声を上げたからだけではない震えを持っていた。両目に溜まった涙のせいで、彼女の背中が歪んで見えている。
そんな俺の様子を知ってか知らずか、女はこちらに見向きもせず、何もなかったようにどこかへと歩みを進めるのである。ここまでと何らの違いもなく。
「ずっと考えてた…………ずっとだ。それでも、何もできなかった。ずっと、同じところを回ってるみたいだった……それで……」
小刻みに震え出す体。俺の両目はもう、背中を追ってはいなかった。俯き、口を閉じて、ただただ震えていた。
……涙を足下に落として。
「……もう、何も言っちゃくれないのか?」
返事はない。
「やり直したかった…………あの日に戻って」
自嘲気味な笑みを浮かべ、独り言みたく小さな声で。
それから先はもう、俺は一言も口にはしなかった……
そうしてしばらくの沈黙の後になって、私はあることに気が付いた。止んでいたのである、あの足音が。顔を上げると、あの女は確かに歩みを止めていた。そして、ゆっくりと、こちらを振り向こうとした。髪がなびいた。鼻先が見えた。そして、
……夢が醒めた。
目が覚めたとき、俺は、白い長袖のTシャツを着ていて、右腕をL字型に曲げて頭に添わせていた。
その格好のままに、ベッド横の机の上にあったデジタル式の置き時計の時間を見た。
午前5時11分だった。
後頭部をかきむしり、机があるのとは逆の側を向くと、しばらくぼんやりとその辺りを見つめていた。別段、そこに何かがあるというのではない。
……せいぜい、『ヤツ』が、俺がベッドに足を向ける側と壁との隙間を歩いていたぐらいのものである。
─この『ヤツ』というのは、人間ではないどころか、生き物であるかすら怪しい。
頭と足の先を切り落とされて羽をむしられた鶏肉に、胴に仮面がかけられた姿。何故か立派な尾羽こそ残されているが、役には立つまい。なお、その仮面は上部にカブトムシの角のような装飾、下部に白いクチバシがついており、横線のように空いた目の周囲にはそれぞれ3本ずつ縦線が入っている。
……ため息が漏れた。なお、この時点で俺の両目は『ヤツ』を捉えていたが、このときは気にも留めなかった。
洗面台に立ち、蛇口を捻って水を出しっぱなしにすると、両手ですくい、顔へと浴びせかけた。下のマットにいくらか水滴が落ちた。
それでも棚の鏡が映す男の顔は、目を細めていて、いかにも眠そうであった。
とはいえ、この寝惚け眼が洗面台のフチにあったタバコの箱を見つけるのである。
銘柄は、メビウス・インパクト・ワン。
試し中を覗いてみれば、4本入っていた。うちの1本をくわえた俺は、ライターへと手を伸ばした。ただ問題はその後。
ライターを引っ張り出す過程で、歯ブラシの入れ物を引き倒してしまい、流し台に転がってしまった。しかもそのときの俺というのが、こともあろうに歯ブラシを片付けるより一服することを優先してしまった。これがいけなかった。吸ったタバコの灰が1本の歯ブラシの上に落ちてしまったのである。
慌てて拾おうとしたが、その歯ブラシを確認して思わず躊躇した。燃えカスで手を焼くのが怖かったのではない。なお、件の歯ブラシはどぎついピンク色をしていた。
……少し思案したものの、結局は拾って洗った。ただし、灰色のシミは水洗いぐらいでは落ちなかったが。
俺の一服は寝室に戻ってからも続いた。それが『ヤツ』の冷ややかな視線に晒されながらも、なお。
「……わかってるよ、いいたいことは…………明日からは禁煙するさ」
プイッと身を翻した『ヤツ』の所作に、俺は鼻で笑われた思いがした……
(To Be Continued……)