第2章 シンギング・ユー・アー(5)
翌日。ここからは、昼下がり、時任宅での話。
時任の家は都内にある4LDKの一戸建てで、庭もそれなりに広く、借家だという事実に目を瞑ってしまって、ここに独り暮らしの男が根を下ろしているなどと聞けば、どんな金持ちかと想像することだろう。
時任の書斎は、ドアから廊下へと抜ける側に二つのソファーチェア、その向かい側に一つのソファーベッド、その間に挟まれるテーブルを含めてそれらが横幅がほぼ同じになるように配置されていた。
このときは、横に棚が置かれ、位置的に奥となる右側の椅子に時任自身が腰を下ろし、そしてソファーベッドの方に難波が座っている。
「そろそろ……帰るかねぇ……」
なんて言いながら立ち上がる難波に、時任は体を左斜め辺りに向けつつ、
「難波さん……お疲れさまでした」
と頭を垂れた。
「別に俺は何もしてねぇけどな」
そう言って笑う難波。
「いえいえ……そんなことは……」
などと言いかける時任の言葉を遮るように、
「……それよかよ」
と切り出した難波。
「……はい?」
聞き返した時任に、難波が続けて、
「……千秋がオマエを信用すると思うか?」
との問いを投げかけた。時任は数秒あまり黙ったあとで、
「努力は……しますよ」
と苦笑いで応じた。難波の方も少し口をつむんでから、
「……まあ、頑張れよ」
と言い残し、ドアへと歩いていく。
だが彼の座る椅子の横に差し掛かったタイミングでもって、
「難波さん」
と呼び止められた。横を向く難波に、時任は横にある棚のある段を右手で触り、
「この棚、何が入っているかご存知ですか?」
と尋ねた。
「さぁね……」
と難波が答えると、時任は、
「そうでしたか……前に、お話したかと思ったんですが……」
と返す。
「……何か大事なもんでも入ってるのか?」
と質問を返す難波に、時任は棚を開けることで答えを提示した。
「……何も入ってねぇじゃねぇか」
「あったんですよ……昨日の夜の時点では、確かにここに」
「……盗難か?」
「ええ」
サッと棚を元に戻す時任。
「警官から盗もうなんて……大したヤツだな、そりゃあ」
「……同時に、とても情けない話ですよ」
と苦笑する時任。
「……で、何が入ってたんだ?」
「時計です……腕時計」
「へー」
と応えた難波の声のトーンは最初だけ若干だが高かった。
「スイスのブライトリング社が出してるナビタイマーというモデルでして……“銀河鉄道999”の松本零士さんも愛用していたという逸品ですよ……」
「そりゃ残念だったな……鍵はかけてなかったのか?」
と難波が尋ねると、時任は真顔でただじっとその顔を見つめ返してきた。
難波が、
「何だよ?」
とまた聞けば、
「あ、いや……よく鍵のある棚だと分かったなぁ、と……思いまして」
と答える時任。
対して難波は、
「ただの直観だよ。別に深い意味はねぇ……んで、結局、鍵は閉まってたのか?どうなんだ?」
と次の質問を投げかけた。
「閉めてましたよ……もっとも、リビングのキーボックスに鍵がかけてあると知ってる人間なら、誰にでも出来る犯行です」
「……だとしたら、特定まで一苦労だな」
「全くです……」
そんな会話を終えて、難波が部屋を去る、その横で、ドンドンとガラス戸を叩く音が聞こえて……
若干、時間を戻すことになるだろう。
今、千秋がこの家の門の前に立っている。
インターホンを押してしまえばいいだけの話なのだが、このときの彼は、何となくそれを憚っていた。理由は生来の人見知りもあるだろうが、それだけではあるまい。
ひとまずは、柵の隙間より家の内容を覗いてみた。といっても昼間だ。カーテンが邪魔で部屋の様子が見えない上、電気もつけていないのだから、そこにいるのか否かも知り得ない。そうして見えたものは、広めの庭だけ。
ただ、結果的にはそれだけで十分だった。
庭には一匹の犬がいた。
光沢のある漆黒の毛を持ち、耳が垂れていて、顔は中央が白くて、目の上辺りや口周りは茶色い。犬種でいえば、バーニーズ・マウンテン・ドッグ。ちなみにメスなのだが、流石にそこまでは気付かなかったろう。
彼女は千秋と目を合わせると、身を翻してガラス戸を前足で何度か叩いた。そうすれば、飼い主が庭に出てくると知っていたのだ。事実、部屋の方から誰かが歩いてくるのを見て、すぐにやめて後退りしたのだから。
「……どうしたんだい?ウィルミーナ」
ガラス戸を開けて、時任が出てきた。
愛犬の頬に自身の両手を添えて、軽く揺すっている。千秋は思わず、
「あー」
と声を出した。聞こえた時任は当然、千秋の方を見た。目が合い、頭を下げる千秋。
「……よく、きてくれました」
そう笑いかける時任の表情は、微笑んでいたが、愛犬に向けられたものとは少し違うらしかった。
何より、千秋にはそう見えていたろう。
庭を向いた時任の傍らで、ドアを開けて、部屋を後にする難波。一歩を踏み出し、部屋を向いたノブから手を離すと、動きに合わせて手をドアに這わせつつも動かし、外向きのノブの横をドアには背を向けた体勢でもって押して閉めた。
その間、顔は進行方向とは逆に時任の側を向いていた。
ドアが閉まるまでのほんの数秒の中で、難波は飼い犬を愛でる時任の横顔を見ていた。ガラス戸の外へ声をかけるところまでは、辛うじて彼の目に入っていた。ただ、そうしてドアが閉じた一秒後になってから、
「運のないヤツだな……オマエは」
と呟いていた。
同じ頃、数十メートル先の物陰から、門をくぐる千秋の姿を確認し、
「そうよ、そう……千秋クン……愛してるわ」
と呟く女がいたが、この時点では本人の他に知るものはなかったであろう……
(To Be Continued……)




