第2章 シンギング・ユー・アー(4)
その後、時任の姿は依然、書斎にあった。
『……let you murder it』
曲が間もなく終わるらしく、その手はもう停止ボタンの上に置かれいたが、それを待つ数十秒という時間は焦れったかったのか、彼はその下の棚へと手を移した。
その棚は本来鍵がかかっていたが、棚は簡単に空いた。
慌てて彼が一気に棚を引き抜くと、中には何も入っていない。思わず時任は立ち上がってしまった。
『You can't push it underground……』
そんなワンフレーズが耳に入る。
曲はまだ続いていたが、時任はもう停止ボタンを押した。
時任はしばらく右手の甲を鼻に当てたまま立ち尽くしていたが、そのうちに手を除け、
「平生か、それとも……」
と漏らすように言った……
─あの日の話の続きになる。
古びた一棟のアパートの前に停まった一代の車。車種は黄色のアウディ・S1。運転席に腰を下ろす男は、色白で柔和な顔立ちはまるで女性のようだが、
「うわ…………クモの巣張ってんだけど……」
などと漏らすその声は、不釣り合いなガラガラ声である。
「ムシ、ヘーキ?」
と彼が後方へと目をやれば、後部座席に女性。
赤いフチの眼鏡をかけた女性である。
「……えっ?」
うつ向いていた彼女は顔こそ上げたものの、その目は男の方を見てはいなかった。
一瞬ぐらいは目が合ったかもしれない。しかし、彼女の両目は自身でも制御できていないらしかった。
「ああ……ええと……」
女は両手の指を合わせている。その目線は依然泳いだまま。
「……あっ、そう」
と嘲笑するように吐き棄てると、男はまた正面へと向き直った。
それから彼は一度若干肩を上げて首を伸ばすと、広げた右の掌を手首がアゴを、小指が鼻の穴を覆うようにして当ててつつ、首を左へと傾ける。
そのままぼんやりとアパートの入り口を見つめていれば、一人の女が出てきた。
黒っぽいスキニーに、上は大きな緑の眼がペイントされたTシャツを着ている。
「……来たぞ?」
振り返りもせずに、そう一言。まもなく、この女は助手席へと駆け寄った。
「遅かったな……」
助手席へ腰を下ろす女。
後部座席の女が動いたのは、それからすぐだった。
助手席の女の首へと巻きついたロープ。女は助手席の背もたれの裏側に背を合わせると、体育座りのようにして助手席と後部座席の間の狭い空間へと身を押し込む。
声を上げる暇も与えなかった。
首元へと伸ばした両手は、肝心のロープに触れることもできないままに、助手席の両脇へと落ちた。
呆気ない幕切れであったが、それでもこれが彼女の最期だった。
「……早かったな」
と呟く男。
車の中には、小刻みに震える女の荒い息遣いだけでしばらく満たされていた。ただそのうちに男が、
「……部屋の様子は確認したのか?」
と口を開いた。女が横顔が見える程度に振り返って頷くと、
「んで?……アイツはどうなってる?」
と質問を続けた。女は今度は顔を逸らして、
「血を流して、仰向けに倒れたまま、でした……」
と答えた。
「死んでるか、生きてるかは……分かるか?」
女は首を横に振った。すると男は舌打ちをしたかと思えば、ベルトを外し、肘でドアを開けた。ドアの開く音に合わせて女が首を向け、
「難波さん?」
と言って呼び止めるも、男の方は、
「……確認してくる」
と言い残し、ドアを閉めた。
取り残された後部座席の女性が、おそるおそる前の席を覗き込めば、息絶えた女の膝の上に乗ったカバンへと目がいった。慌てていただろうか、彼女のバックは口が完全には閉まっておらず、その少しの隙間から血のついたコートの端が顔を出していた……
難波が部屋に入ってきたのは、それから間もなくのこと。
部屋にはキッチンをドタドタという進む荒っぽい足音が聞こえてくる。やがてキッチンからリビングへと抜ける戸の隙間にその姿が見えた。それは相手も同じで、拳銃─スイスのシグ社が出してるP230JPという種類の拳銃─片手に近付いてきて、
「おはよう」
と言い、部屋を見渡した後で、
「……はおかしいか?」
と笑いかけた……
(To Be Continued……)




