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5分11秒の回想  作者: 仁科学
第一部 ヴィクトリア朝の亡霊
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第1章 セーブ・ザ・ナイトタイム(4)

それからの話になる。足取りは酔っ払いのようにおぼつかなく、歩く毎にカバンが右へ左へ揺れていた。


「……意外と遠いんだよな、駅から家まで」


ため息交じりにそう呟いた。

なお、余談となるが、駅から彼の自宅までの道のりは裏路地を通る道で、そこそこ遅い時間ともなれば、誰ともすれ違わずに帰り着くということも珍しくないという。

現に、この日の途中までがそうだったのだから。

そうして自身が住んでいるアパートが見えてきたとき、何気なく周囲の民家を見渡した。

灯りの消えた家が並ぶ中、その視線はある家の二階のベランダへと向けられた。


そこにいたのは、青ざめた顔の女。

星でも眺めているのか、その視線はどうも上の方を向いているらしかった。

こんな時間に人を見かけるのが珍しかったのか、見つめていると、彼女の家の前に差し掛かったときに、まさに狙ったような絶妙なタイミングでもって、彼女が視線を下げ、こちらを見たのである。目が合った。

……女の表情に特別な感情は見受けられなかったが、千秋は突然のことに驚き、不気味に思って駆け出していった。


ただ、この日はそれで終わりではなかった。

ある公園の角を曲がり、それから遠くに目をやれば、無灯火で、しかも結構なスピードを出して走ってくる自転車が見えたのである。丁度、千秋の直線方向に。

別にそこまでする必要はなかったかもしれないが、左右の端に白線が引いているだけの割に狭い道路で、加えて相手はライトを点けていないという状況に、危なっかしいと思ったのだろう。

千秋は道の逆側に寄った。

次第に近付いてくる自転車。

乗り手は自転車用のヘルメットを被っていて、これに隠れる形で顔は見えないが、大柄な体躯から男性らしかった。彼はそのまま横を通りすぎていく……

ハズだった。


自転車は彼の斜め数メートルという位置で進路を変えたのである。

向きは左斜め、千秋のいる方だ。

もう一度言うが、この道は白線が引いてあるだけ。ガードレールはない。そして、自転車も結構な速度を出して向かってくる。

咄嗟に飛び退いたお陰で千秋にはぶつからなかったが、自転車は壁へとまともにぶつかり、タイヤはパンク、乗っていた男は投げ出されて地面に倒れた。


千秋は地べたに尻餅をついたまま、動けないでいた。

すると、倒れていた例の男が突如起き上がった。

先程派手に転んだのがまるで嘘のように。ただ、立ち上がってすぐにフラりと立ちくらみ、その拍子にこめかみ辺りから流れる血が飛び散って、やはりこの男は転倒したのだと、その惨状を物語り始めるのであったが。男は自分がぶつかった壁の方を見ている。

千秋は数秒ばかり躊躇したが、結局、


「……大丈夫、ですか?」


と声をかけた。かけてしまった、というべきか。

男が千秋の方に向き直った。ごく自然に。

やがて月明かりがその容貌の一切を浮き彫りにした瞬間、千秋は言葉を失った……


男の顔は、横を向いたとき千秋に見えていた右半分は、右目があり、鼻があり、右耳があり、口があり、ヒゲを生やしている……別になんてことはない普通の男性の、人間の顔をしていた。

しかし、もう半分はそうではない。

この男の顔の左半分は皮膚に覆われてはおらず、左目は潰れ、左耳は切り裂かれ、人体模型よろしく筋肉と骨、血管などが剥き出しになっていた。血を流していたのもこちら側から。

男の顔は、笑っていた。痛みを感じている人間の表情ではない。

千秋は思った。

これは生きている人間ではない、と。理屈ではなく、直感的に、あるいは本能的に。悟ったといってもいいかもしれない。


千秋は尻餅をついたその姿勢のままに二、三歩ばかり後退りした。

あるいは、引き返すという選択肢もあったかもしれないが、彼の脳裏にはジロリとこちらを見下ろす二階にいたあの女の顔がよぎった。キョロキョロと周囲を見渡し、少し前に通った公園の方に目を止めた。

おそるおそる立ち上がると、男に背中を見せないようカニ歩き、そして白線をまたいだ辺りからは全力で走った。

逃げた。ただただ、逃げた。


公園を突っ切る。

生垣に囲まれた公園は開かれた場所は、その出入り口とでもいうべき、せいぜい二人ずつしか通れないような狭い道の先にあり、そこを過ぎて広場を横切ったなら、同じような小路に再び遭遇する。

道を走っているうちは、そこを出た先に何があるのかは見えない。更に悪いことに、千秋は然程目がよくないのである。

だから、踏むまで気付かなかった。広場に足を踏み入れるほんの二、三歩前に転がっていたそれを。

踏みつけた感触は最悪のものだった。ごく小さくブチッという音がした。

千秋本人は一瞬人体の一部かと錯覚したが、ゆっくりと足を上げてみれば、それは首に一本線の傷がある一匹のアカギツネの死骸であった。フゥと息を漏らす千秋。

後ろから足音はないが、警戒してか何度か振り返りつつ、今度はキツネの死骸を避けて、ゆっくりと広場の方へと進んだ。


そうして開けた場所まで来ると、自然と目に入ったのは、彼から見て右側、入り口の側の生垣に立つ一人の男性だった。ハンチングを被った壮年の男性で、先程見た自転車乗りに比べればまともな人間のようであるが、その顔は到底血が通っているとは思えない青ざめようである。

この男と目が合った千秋が、やはり背を向けないようにして、一歩、二歩と後退りする。すると……


(To Be Continued……)  

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