序章 ロールド・ザ・ワールド(0)
運転席に座ると、眼下には光を呑むような闇が広がっていた。このただでさえ暗い車内を、運転手の男が吸う煙草の煙がなお視界を狭める。ついに助手席の女が、
「……あの、タバコはやめてもえませんか?」
と言った。もっとも男の方に返事はないが。それから数分余りの沈黙を挟み、
「お客さんは、何のお仕事をされてるんですか?」
と、女がまた尋ねた。聞こえているのかいないのか、何ら反応はない。
そもそも、先程から部屋を満たす濃い煙のせいで、互いの顔さえよく確認し切れない。
「……えぇと……あとどれくらいで着きますか?……ご自宅に着いたら、これ、とってくれますか?」
そう言う彼女を見れば、目隠しをされ、両手も背中の後ろで縛られているらしい。
必死に笑いかけているが、その表情は目隠しをされていても分かるぐらいの愛想笑いであった。
「……こういう、プレイがお好きなんですか?私、この仕事はもう三年目なんですけど、あんまり、そういう要望のお客さんとの経験がなくて……」
楽しげに話しかけているが、それでも男からの返事はない。
「ご満足いただけなかったときは、その……」
と言いかけたとき、ここまで沈黙を貫いていた男が一言、
「……着いたぞ」
と言ったのである。
それで、目隠しされて見えない女がキョロキョロと辺りを見渡す素振りを見せる。男は女の首の後ろに自身の左手を回して、結んだ目隠しの布をほどいていく。すると、
「…………え?」
女の視界に入ったのは、公園か空き地か、電灯のひとつもない真っ暗がりに、車のヘッドライトが照らし出すのはただ生い茂った雑草だけだった。見渡したところで、どこにも民家のようなものは見当たらない。
「……ここは、どこですか?」
「……俺の車で、俺が何しようと関係ないだろうが。タバコを吸おうが、何しようが」
男は漏らすように言った。
「あっ、あの……」
女の呼びかけに返事もせず、男はただ草木の他に何もない先をじっと見つめている。
「……俺は奥都城 倫敦。葬儀屋だ」
そう言うと、やっと男は女の方を見た。その顔に表情などなく、ただ真顔で女の顔を注視しているのである。
「……結構かかったな、小1時間ぐらいか……意外だよな、こんな場所が都内にあるなんて」
チラッと車の時計を確認し、また女の方へと向き直る。続いて、タバコを備え付けの灰皿に押し潰し、急に女の側まで顔を近付けると、
「……これはプレイじゃない」
と言った。そして、その右手は尻ポケットの方へと伸びている。
「最後の質問は、『ここはどこか?』だったな?……教えてやる」
男は尻ポケットから引っ張り出してきた。見ればそれは、刃渡り10センチ程のジャックナイフである。
「……オマエの墓場だ」
そう言った瞬間、どこからともなく鈴の音が鳴り、それに合わせるように助手席の後ろから6本もの腕が伸びてきたかと思うと、1本が女の髪を引っ張り、1本が女の口を封じ、2本は右手を、また2本は左手を押さえている。
「……ンンッ」
とでも表記したものか。
女は声にならない声で叫んだが、その声はほとんど漏れることはなく、また無慈悲にも、刃が彼女の首に突き立てられるのである。飛び散った血は、車のフロントガラスを赤黒く汚した。
……4つ数えると、息を止める。左手は、軽く胸骨を圧迫する程度に添えている。
次の4つを数え、息を吸う。心なしか、左手の位置が移動したように見える。
更に4つ数えながら、息を止める。左手の位置はそのまま。
最後に4つ数えて、息を吐く。左手は一気に胸を押すように。
そんな特異な呼吸を終えると、
「……俺は間違ってない。間違ってないんだ」
言い聞かせるように、そう言い残す男。
まもなく車が動き出すと、助手席のドアが開いて、何かがそこから落ちて、転がっていく音がする。そうして車は、闇の中に消えていった。
─8月31日未明。
巡回中の警官が路上で仰向けに倒れた “彼女” を見つけたとき、その身は喉を切り裂かれ、腸は流れ出、性器にすら傷が残っていた。
彼女の死は、劇的な事件として連日報道されるのであったが、これは後の彼にとってすれば、
(相手の娼婦という身の上を考慮すれば、何とも皮肉めいた文言ではあるが)
ほんの“処女作”に過ぎなかった……
(To Be Continued……)