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キャンバス  作者: ハナシ
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初まりの記憶

潮の香りを運ぶそよ風がとても気持ちいい。さざ波の音は聴こえなくとも、この香りだけで海がすぐ近くにあるのだろうと想像が出来る。

まだ四月を迎えていないのに、こうして大学の門を前にして立っている事は他の生徒に比べて、一足先に大人になれたようでなんだか嬉しい。


入学式を前に、これからの新たな学生生活を考えるといても立ってもいられず、大学に来てしまった…というのは気持ちの上ではあながち間違いでは無いのだが。

現在(いま)ここにいるもっともな理由は先程から背負っているこの縦長の箱にある。

僕は門をくぐり緑の若葉達が作るのアーケードの影に歓迎されながら、緩やかな坂を登った。


坂を少し歩くと正面に教えてもらった通り、時計塔のような建物があった。時計塔に近づくにつれ硝子の扉に映る自分の影が近くなる。相変わらず細い。

扉を押して中に入ると広い空間があった。天井は高く窓は一つだけだが教会のステンドグラスのよう。その窓から春らしい陽射しが射し込んでいる。さすが名門私立大学だけあって建物も無駄に立派にたててあるんだな。

と感心していると右目の端に映る大きな螺旋階段から優しい声が聴こえた。


「こんにちは。…えっと、城越君?」

ここの所の癖ですぐに訂正しそうになったが、まずは小走りで出迎えてくれたこの不安そうな顔の女性を少し安心させてあげたいと思った。

「そ、そうです!城越(しろこし) 八尋(やひろ)です!…その、はじめまして。その…宜しくお願いします。」


自分でも失礼だなとすぐ後悔する程の挨拶だったが、女性は表情を変え微笑んだ。


「はぁ、よかった。この学校広いから迷ってるんじゃ無いかと思って…まだ入学式前で人も少ないし。とりあえず練習部屋に行きませんか?みんなもう来てるから。」


そう言って螺旋階段の方へ歩き出した。

門から一直線、正面の建物を見つけられず素通りする程僕は重度の方向音痴ではないつもりだ。

そんな事を思いながら初めての校舎へ足を踏み入れた。



螺旋階段で六階まで登り教室へとむかう。とても辛い。時計塔の中は実際に歩いてみると外から見るよりも広く、幅広い廊下と沢山の部屋と教室が並んでいた。


廊下に窓はあるものの、この時間は少し傾いている太陽の光が廊下(ここ)には届かないらしく薄暗い。

この時期だからだろうか。人のいる気配もない。

先程から両者黙って歩いているがそろそろ気まずくなってきていたところ、一つの部屋の前で女性は止まり後ろを振り返る事もなく取手に手をかけた。


開いていく扉の隙間から、春らしい陽射しが薄暗い廊下に二つ影を映した。




一言で表すと気持ちがよかった。扉の奥の壁は全て枠のない硝子の窓。

大好きな春の陽射し、先程快く歓迎してくれた若葉達とその下にある坂。

その先にある時計塔。

この校舎の形は面白い形をしている事と、尚且つこの下の階にも出口がもう一つあればと瞬間的に思った。


「けーちゃん!ようこそ!」

そういってニヤついた顔で嬉しそうにしているのは幼き頃からの先輩。


小学校から高校まで同じ学校だという事だけで、漫画の主人公達になりそうな幼馴染の関係とは全然違う。しかしよく知った仲ではある。


「先輩、お元気そうで。」


僕は久しぶりに再会する挨拶の意味も込めて優しくそう言った。たまに連絡を取る程度で会うのは先輩が卒業して以来だ。


不意に先輩の隣にいた男性がこちらに向かってなにやら差し出してきた。


「初めまして、2ndを担当させてもらう村田です!よろしく!」

名刺を渡しながら爽やかに言い放った。


身長は僕よりも高く細過ぎない程度に体型を維持しているなかなかの男前だ。


「なんだか申し訳ないね…君の先輩が無理を言ったせいで、入学式もまだなのに授業の予習に呼んじゃって。」


とても申し訳なさそうに、そしてどこかわざとらしく話す村田先輩の言葉に反応して先輩が噛み付いた。


「ちょっと、人のせいにしないでよ!前期の室内楽の授業、成績次第で学校側の主催で私達の演奏会を開けるかも知れないって聞いて、授業が始まってから練習してたんじゃ遅い!なんて目の色変えて言い出したのは誰よ!」

「冬木さん…」

「ほう」


村田先輩は冗談で言ったつもりだったのだろうが、今の先輩には己に向けられた鉾にしか見えなかったようだ。

次の瞬間先輩はくるりと後ろを向いて、机の上のお皿に盛られていたお菓子を全部自分の鞄にゆっくりと片付けてしまった。

不本意にも鉾を向けてしまった本人は鞄に手を伸ばしうなだれていた。


「あーららー。むーは休憩のお菓子無しか。かわいそにー。それよりも城越君呆れてるよ?」


なんとも静かで軽くその茶番に幕を降ろしたのは、教卓の上で足を組んで黙々と楽譜に目を通していたあの女性(ひと)だった。

教卓から飛び降り窓の方へ、春の風を部屋に迎え入れようとしたのだろう。

幼き頃からの知人がこちらを少し横目で見た後口を開いた。


深山(みやま)さん…城越君じゃなくて、今は尾谷君に和谷(かずたに)君なんです。そう…だよね?」


首を傾げこちらに同意を求める。それと同時に深山先輩の驚いた顔もこちらを向いた。


そうなのだ。どこにでもあるちょっとした家の事情というやつだ。母方の旧姓が和谷だったので必然的にそうなったのである。

中学の頃、先輩が和谷をおけーと読み替えて僕の事をけーちゃんと呼ぶのはそこから由来する。


謝りながら何故か泣きそうになっている深山先輩をなだめていると、耳をこすっていた風の音とは違う、心地よい空気の揺れが耳の奥を撫でた。

村田先輩だった。

その奏でられた旋律に操られたかのように、三人は自分達の縦長の箱のもとへ。

それぞれの役割を手に彼の音に寄り添う。


もう言葉はいらない。



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