周辺その二
「まあ、なんてすてき」
羊皮紙を手にしながら、エレンはうっとりとつぶやいた。
文字を追う淡紅の瞳は爛々と輝き、窓辺にたたずむ姿は、窓枠からまるでその場所だけを切り取った絵画のようである。
エレン――こと、エレン・ロイナー伯爵令嬢が手にしているのは、紛れもなく――王宮よりの書簡――その意味するところはひとつである。
「なんて、すてきな……」
それ以上は言葉にならないのであろうか。エレンは食い入るように手元の書簡を見つめている。
その様子をわずかに苦笑しながら見つめているのは、エレンの叔父、フレデリック・ロイナー伯爵である。なんとも夢見がちに育ってしまったものだ。純粋であるのは良いことだが、度が過ぎるとただの考えなしだ。
――まあ、それでも良いか。こうして息災でいてくれて、なおかつ誰もが羨む王太子妃にと望まれているのだ。他ならぬ、王太子御自ら――。
この穏やかな国のやがてトップとなる者に嫁ぐなど、これほど安泰なこともあるまい。手元において久しいが、エレンにとってこのうえなく栄誉な良縁を断る理由もない。亡き兄の面影を色濃く受け継いだ薔薇色の瞳は、今こんなにも煌めいているのだから。
エレンを養女として引き取ったのは、十一年前のことだ。エレンが五歳のとき彼女の両親はともに流行り病で亡くなり、兄に代わって爵位を継いだ。幼い姪は自分を厭うことなく素直に慕ってくれた。兄夫妻と同じ病で自らの妻も早くに亡くしたロイナーにとっては、エレンは唯一の希望だった。
「幸せになっておくれ」
喜色を表しては隠さない花のような笑顔の姪に、ロイナーは万感の思いをこめてつぶやいた。
――三ヵ月後――
叔父様聞いて! 殿下ったらひどいのよ。わたし、あの恋文は、殿下御自らお書きになったものだと思っていたの。でも、そうではなかったの! それどころか、恋文ですらなかったなんて! そんな事実を今更知って、わたしはもう王宮では暮らしていけないわ。わたしがあのとき抱いた恋心は、どこへ持ってゆけばよいの。
悲壮感ただよう姪に面会したのは、まだ彼女が嫁いで幾ばくもない頃。
「知らなかったの! ああいったものは普通、ご本人がお書きになるものではないって」
――確かに、王宮の公式書簡は王太子がしたためるものではない。然るべき地位にある大臣か文官かが国王や王太子に代わって、代筆するものである。
「知らなかったの! あれがただの婚姻依頼書だったなんて」
――仮にも未来の国王からの求婚の書簡を、ただ呼ばわり。しかも恋文と勘違いしていたとは。いや、勘違いなどという次元ではない。そもそも、あの書簡はエレン本人に宛てたものでもない。
「わたしは、わたしは、あの文の文字を見て、結婚しようと決めたのですもの!」
――痛恨の一撃。
「だってお父様がお母様に宛てられた恋文は、とっても素敵だったのだもの。お母様は恋文が素敵だったから結婚したと仰っていたもの!」
義姉が、兄との思い出を幼いエレンに都度語っていたのだろう。
当時の恋人同士のやりとりの手蹟を見せてもいたのだろう。
そしてエレンも、父親のような手蹟に多大な憧れを抱いていたのだろう。
まさかこんなところに、落とし穴があるなんて。
だからか。あんなにうっとりと書簡を見つめていたのは。
だがわたしは確かに言ったぞ。
「エレン、お前に婚姻の申し込みが来ている」と。
――純粋? 馬鹿? いや、壊滅的に阿呆だ。
っていうか、字かよ!!
壮年の伯爵は、年甲斐もなく突っ込んだのであった。
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