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消失  作者: あき
9/21

第Ⅲ部 聴覚の消失(Ⅰ)

第十五章 警告音が、鳴らなかった


それは、帰り道だった。


特別な日ではない。

残業もなく、雨も降っていない。

透はいつもの時間に、いつもの駅へ向かっていた。


ホームに人は多くなかった。

電車を待つには、ちょうどいい静けさだった。


透は、スマホで時刻を確認した。

次の電車まで、あと二分。


そのとき、

ホームの端で、何かが起きた。


正確には、

起きたはずだった。


周囲の人間が、同時に顔を上げた。

一斉に、音のする方を見る。


透だけが、

その理由を理解できなかった。


「……?」


遅れて、構内放送が流れ始める。


――電車が、接近しています。


その声は、

透の耳に薄く届いた。


薄い、というより、

意味が剥がれている。


透は、ホームの白線の内側に立っていた。

位置は正しい。

行動も、正しい。


なのに、

胸の奥が冷えた。


これは、

今聞こえなかった音がある

という確信だった。


透は、ホームの表示を見た。


「危険 列車接近中」


赤い文字が点滅している。


――警告音は?


透は、無意識に耳に意識を集中させた。


風の音。

遠くの話し声。

電車の走行音。


全部、ある。


だが、

警告音だけが、存在しない。


一瞬、

自分が間違っている可能性を考えた。


この駅は、

音を鳴らさない仕様なのかもしれない。


だが、その考えは、

すぐに否定された。


隣に立っていた女性が、

耳を押さえたからだ。


「うるさ……」


はっきりとした反応だった。


透の背中に、

冷たいものが走った。


電車が入ってくる。


風圧。

振動。

轟音。


そのすべてが、

ワンテンポ遅れて届く。


遅れた音は、

情報としては成立する。


だが、

行動を促すには、

致命的に遅い。


透は、

白線から半歩下がった。


理由は、音ではない。

周囲の人間の動きだった。


人が一斉に下がる。

その“視覚的判断”で、

透は身を守った。


電車が止まり、

風が落ち着く。


透は、

自分の呼吸が乱れていることに気づいた。


――今のは、

危なかった。


電車に乗ってからも、

違和感は消えなかった。


ドアが閉まる音。

発車ベル。


すべてが、

「知っている音」なのに、

世界との接点が薄い。


透は、吊り革を握りながら考えた。


嗅覚のときも、

味覚のときも、

最初は「不便」だった。


だが、これは違う。


これは、

危険だ。


その夜、透は病院に電話をかけた。


「至急、再診をお願いします」


声は、落ち着いていた。


説明も、簡潔だった。


「警告音が、聞こえませんでした」


電話口の看護師は、

一瞬、言葉を失った。


「……それは、いつですか」


「今日です」


「今、聞こえない状態ですか?」


透は、答えた。


「聞こえています。

ただ、必要な音が、必要なタイミングで届かない」


沈黙。


「明日、来てください」


その一言で、

透は理解した。


これは、偶然の範囲を超えた。


夜、ノートを開く。


今日の記録。


・駅ホームにて警告音を認識できず

・周囲の反応と視覚情報で回避

・危険性:高


透は、ペンを置いた。


この項目に、

「経過観察」とは書けなかった。


代わりに、

一行、付け足した。


聴覚は、

私を守らなくなり始めている。


凪は、隣の部屋で眠っている。


透は、

彼女の寝息を聞こうとした。


……聞こえる。


だが、

その音が本当に“今”のものか、

自信が持てなかった。


透は目を閉じた。


消失は、

次の段階に入った。

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