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消失  作者: あき
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第Ⅱ部 味覚の消失(Ⅵ)

第十四章 味が、消える日


その日は、珍しく外食だった。


凪が「たまには」と言った。

透も反対しなかった。

家で食べるより、条件が揃っている分、

“確認”には向いていると思った。


店は小さな定食屋だった。

昼時を外していたから、客は少ない。


透は席に着き、周囲を見た。

油の匂いは、もう分からない。

それでも、ここが飲食店だということは理解できる。


注文したのは、

一番分かりやすいと思ったものだった。


焼き魚定食。


塩味。

脂。

苦味。

本来なら、要素がはっきりしている。


料理が運ばれてくる。


「どう?」


凪が、いつものように聞いた。


「食べてから」


透はそう答え、箸を取った。


最初の一口。


……何も、来ない。


透は咀嚼を続けた。

舌は動いている。

歯応えはある。

温度も分かる。


だが、味の情報が一切入ってこない。


分類すら、できない。


塩味かどうかも分からない。

魚かどうかも、理屈で判断している。


「……」


透は箸を止めなかった。

止めたら、決定になってしまう気がした。


二口目。

三口目。


同じだった。


透は、ゆっくり息を吸った。


これは、薄いのではない。

遠いのでもない。


無い。


「……どう?」


凪の声が、少し慎重になる。


透は、はっきり言った。


「分からない」


凪は、言葉を失った。


「分からないって……」


「味がしない」


透は、補足しなかった。

それ以上説明する言葉が、もうない。


凪は、自分の魚を一口食べた。


「……ちゃんと、味するよ」


その言葉は、

透を否定するためのものじゃない。


確認だった。


それが、余計に現実だった。


透は、卓上の醤油を取った。


凪が止めようとした。


「ちょっと――」


だが、透は構わずかけた。

かなり多めに。


一口。


……同じ。


透は、唐辛子を振った。

刺激なら、分かるはずだ。


舌に、わずかな痛み。

それだけ。


味ではない。


「透……」


凪の声が震える。


透は、妙に冷静だった。


「ああ」


静かに言った。


「終わったな」


その言葉は、

悲鳴でも、絶望でもなかった。


事実確認だった。


店を出たあと、二人はしばらく無言だった。


歩道を歩きながら、

透は考えていた。


嗅覚が消えたときは、

代替があった。


味覚は、

嗅覚に依存している部分が多い。


だから、理屈では予想できていた。


――できていた、はずだった。


それでも、

完全に消えた瞬間の静けさは、

想定よりもずっと重い。


「ごめん」


凪が言った。


透は首を振った。


「謝る理由はない」


「でも……」


「これは、俺の問題だ」


その言い方が、

凪を傷つけることを、

透は分かっていなかった。


夜、透はノートを開いた。


今日の項目。


・味覚:反応なし

・刺激(塩・唐辛子)での判別不可

・外食でも再現


ペンが止まる。


これ以上、

「経過」と書けない。


透は、線を引いた。


そして、初めて

断定形で書いた。


味覚は、消失した。


書いた瞬間、

胸の奥が、わずかに軋んだ。


恐怖ではない。

悲しみでもない。


次が来るという理解だった。


透はノートを閉じた。


隣の部屋で、凪が食器を洗っている。

水の音がする。


……少し、遠い。


透は、その事実を、

まだ書かなかった。

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