第Ⅱ部 味覚の消失(Ⅴ)
第十三章 偶然の範囲
再診は、予定より早くなった。
透が自分で予約を入れた。
「念のため」という理由を、受付には伝えた。
診察室は、前と同じだった。
机の位置、椅子の軋み、モニターの明るさ。
変わらない空間は、安心を装っている。
医師――城戸は、カルテを見ながら言った。
「味覚も、少し落ちてきているんですね」
「はい」
透は即答した。
迷いはなかった。
「完全ではありませんが、
食事の評価がほぼできません」
城戸はキーボードを叩いた。
乾いた音が、規則的に響く。
「嗅覚が先に落ちて、その後に味覚。
この順番自体は、理屈としては説明できます」
透は、そこで一息ついた。
理屈がある。
それは、まだ“世界が繋がっている”証拠だ。
「それで」
透は言葉を選んだ。
「最近、音に違和感があります」
城戸の指が、止まった。
「どういう違和感ですか」
「聞こえないわけではありません。
ただ、距離感が掴みにくい。
反応が、一拍遅れる感じです」
城戸は、椅子に深く座り直した。
これは、判断の姿勢だった。
「検査では、今のところ聴力に異常はありません」
「分かっています」
透は頷いた。
「でも、嗅覚のときも、
最初は検査に出ませんでした」
城戸は、少しだけ眉を動かした。
「……そうですね」
その“そうですね”は、
同意ではなく、記録上の確認だった。
「ただ」
城戸は続ける。
「複数の感覚に、
同時期に違和感が出ること自体は、
珍しくありません」
透は、嫌な予感を覚えた。
この言い回しは、境界線を引くときのものだ。
「ストレス、睡眠、生活リズム。
感覚は、意外と影響を受けやすい」
「つまり」
透は、先に言った。
「関連があるとは、言えない」
城戸は、はっきりとは否定しなかった。
「言えません」
その一言は、
“ある”とも“ない”とも言わない。
「嗅覚と味覚の件と、
今回の聴覚の違和感が、
同一の原因だと断定する材料は、ありません」
透は、静かに聞いていた。
感情は動かない。
理解は、追いついている。
「偶然、という可能性も?」
城戸は、ほんの一瞬、間を置いた。
「あります」
その言葉は、
この診察室でいちばん軽く、
いちばん重かった。
偶然。
それは、因果を切り離す言葉だ。
同時に、責任も切り離す。
「では」
透は確認した。
「もし、今後、
視覚や触覚にも違和感が出た場合でも、
それぞれ“偶然”として扱われますか」
城戸は、すぐには答えなかった。
「……状況次第です」
「何が揃えば、
“関連がある”と判断されますか」
城戸は、画面を見つめたまま言った。
「明確な検査所見。
あるいは、前例」
前例。
透は、その言葉を頭の中で転がした。
前例がないから、
今の自分は“まだ始まっていない”。
「分かりました」
透は、それ以上聞かなかった。
診察は、それで終わった。
病院を出ると、
外はいつも通りの午後だった。
車の音。
人の話し声。
工事の金属音。
全部、聞こえる。
聞こえるのに、
どこか薄い。
透は歩きながら考えた。
偶然とは、
説明を放棄するための言葉ではない。
だが、備えを遅らせるには十分な言葉だ。
自分は今、
「まだ病名がつかない状態」にいる。
それは、
患者としては、
最も不安定な位置だった。
夜、ノートを開く。
今日の記録。
・医師の見解:
嗅覚・味覚と聴覚違和感の関連は不明
・「偶然」の可能性あり
・現時点での追加検査なし
透は、ペンを止めた。
これ以上、
何を書けばいいのか分からなかった。
分からない、という事実だけが、
はっきりしている。
透は一行、付け足した。
偶然が重なるとき、
それは本当に偶然なのか。
答えは、
まだ、出ない。
だが読者だけは、
知っている。
偶然では、終わらないことを。




