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消失  作者: あき
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第Ⅱ部 味覚の消失(Ⅳ)

第十二章 少し、遅れる


最初は、時計のせいだと思った。


朝、目覚ましが鳴るより先に目が覚めた。

いつもより早い。

透はそう判断した。


ベッドから起き上がり、スマホを見る。

時刻は、いつも通りだった。


――鳴らなかった?


そう思った瞬間、

スマホが震えた。


画面には、スヌーズの表示。

音は、鳴っていたことになっている。


「……設定、変えたかな」


独り言は、部屋に落ちた。

静かすぎて、言葉が浮いている気がした。


透は気にしなかった。

気にするには、根拠が弱すぎる。


キッチンで、凪がフライパンを使っていた。

油が跳ねる、はずだった。


「おはよう」


凪の声がして、透は振り向いた。


「おはよう」


返事をしながら、透は違和感を探した。

油の音が、控えめだ。

だが、換気扇は回っている。

朝は静かだ。


説明は、いくらでもつく。


「今日はトースト?」


「うん」


凪はいつも通りだった。

声の高さも、速さも。


透は、耳に意識を向けた。

聞こえている。

問題はない。


――問題は、ないはずだ。


駅までの道。

車が通り過ぎる。

自転車のベルが鳴る。


音はある。

ただ、距離感が曖昧だった。


近いのか、遠いのか。

判断に、ほんの一拍、余計に時間がかかる。


透は足を止めた。


「気のせいだ」


そう結論づけるには、十分だった。


人は毎日、同じ感覚で生きていない。

疲労。睡眠。気圧。

誤差はいくらでもある。


嗅覚と味覚のことを、

すぐに別の感覚へ結びつけるのは、

過剰な一般化だ。


――そう、透は理解していた。


昼休み、編集部で会話があった。


「それでさ――」


誰かが話し始める。

透は、少し遅れて内容を掴んだ。


聞こえなかったわけじゃない。

聞こえて、理解するまでに、間がある。


会話は進んでいる。

透は、追いつく。


「……つまり、締切が前倒し?」


「あ、そうそう」


合っていた。

だから、問題はない。


香澄が、ちらりと透を見た。

気のせいかもしれない。

だが、彼女の視線は一瞬、止まった。


「大丈夫?」


その一言が、余計だった。


「なにが?」


「いや、ちょっと反応遅かったから」


透は、即座に答えた。


「考えてただけ」


嘘ではない。

実際、考えていた。


香澄はそれ以上聞かなかった。

その“引き下がり方”が、

透の胸に小さく引っかかった。


帰り道、踏切で遮断機が下りていた。


透は立ち止まった。

赤いランプが点滅している。


カン、カン、という音が、

少しだけ、遠い。


音量の問題ではない。

存在感の問題だ。


透は、無意識に周囲を見回した。

他の人は、何も気にしていない。


――自分だけだ。


その事実が、

透を妙に落ち着かせた。


個人的な誤差。

個人的な不調。


まだ、名前をつける段階じゃない。


夜、ノートを開いた。


今日の記録。


・目覚ましに違和感

・音の距離感が曖昧

・会話の理解に、わずかな遅れ


透は、しばらくペンを止めた。


この項目を、

嗅覚・味覚と同じページに書いていいのか

迷った。


迷った末、

ページの下に、線を引いて書いた。


※関連不明。経過観察。


その一文が、

透にとっての防波堤だった。


書き終えて、ノートを閉じる。


凪は先に寝ている。

寝息は、規則正しい。


……規則正しい、はずだ。


透は天井を見つめた。


聞こえている。

確かに、聞こえている。


それでも、

音が世界から一歩、

引いていく予感だけが、

はっきりと残っていた。


まだ、消えてはいない。


だが、

少し、遅れ始めている。

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