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消失  作者: あき
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第Ⅱ部 味覚の消失(Ⅲ)

第十一章 出口を探す


その日は、何も特別なことはなかった。


仕事は定時で終わり、帰りにスーパーに寄った。

特売のシールが貼られた肉。

いつもの野菜。

透が「食べやすい」と言うから、硬いものは避ける。


凪は、献立を考えながら歩いた。

考える、というより、外さないための選択だった。


家に帰ると、透は机に向かっていた。

ノートを開き、ペンを動かしている。


「おかえり」


振り返らずに言う声は、穏やかだった。


「ただいま」


凪はキッチンに立ち、袋を置いた。

包丁を握りながら、透の背中を見た。


姿勢は変わらない。

声も変わらない。

壊れているようには、まったく見えない。


それが、凪を疲れさせる。


夕食は、問題なく終わった。

透は黙々と食べ、食器を流しに運んだ。


「ありがとう」


その一言で、会話は終わる。


凪はソファに座り、スマホを手に取った。

通知がいくつか溜まっている。


何気なく、地図アプリを開いた。


理由は、分からない。

ただ、指が動いた。


現在地。

そこから少し離れた駅。

さらに先。


凪は、路線図を拡大した。


――ここから、離れたら。


その考えが、頭をよぎった瞬間、

胸がぎゅっと縮んだ。


「最低だ」


声に出さずに、凪は思った。


透は病気だ。

一人で抱えている。

逃げたいなんて、考える資格はない。


そう分かっているのに。


もし、

もしも今、

この家に帰らなくてよかったら。


料理を考えなくてよかったら。

「どう?」と聞かなくてよかったら。

「分からない」沈黙を、見なくてよかったら。


――楽になる。


その思考が、あまりにも自然に浮かんだことが、

凪を一番怖がらせた。


透がノートを閉じる音がした。


「凪」


呼ばれる。


「ちょっと、いい?」


凪は、心臓が跳ねるのを感じた。

何かを責められる気がした。

そんなはずはないのに。


「なに?」


透はソファの前に立った。


「最近さ」


少し、言葉を選んでいる。


「無理してない?」


凪は、笑いそうになった。


無理をしているのは、

透の方だ。


なのに、どうしてこの人は、

私の顔を見ているんだろう。


「してないよ」


凪は即答した。

早すぎる答えだった。


透は、それ以上聞かなかった。

その優しさが、凪を追い詰める。


「そっか」


透はそう言って、部屋に戻った。


凪は一人、ソファに残された。


その夜、凪は眠れなかった。


布団の中で、

地図アプリを開いたまま、画面を見つめる。


行き先は決めていない。

ただ、「今ここではない場所」を探している。


凪は、スマホを伏せた。


逃げない。

逃げないと決めている。


でも、

逃げたいと思ってしまった自分は、

もう消えない。


凪は、静かに涙を流した。


声は出さなかった。

透に聞こえたら、説明しなければならないから。


説明できない感情が、

この家には、もう増えすぎている。


凪は理解した。


自分は今、

透の病気から逃げたいのではない。


「強くあり続けなければならない自分」から、

逃げたいのだ。


それでも朝は来る。

朝が来たら、

凪はまた、何事もなかった顔で隣に立つ。


逃げなかった、という事実だけを残して。

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