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消失  作者: あき
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第Ⅱ部 味覚の消失(Ⅱ)

第十章 凪


最初は、気のせいだと思っていた。


透はもともと、感情を大げさに出す人じゃない。

美味しいものを食べても、はしゃいだりしない。

でも、ちゃんと見ていれば分かるくらいには、反応があった。


それが、なくなった。


料理を出しても、

「ありがとう」

それだけ。


味の話をしない。

香りの話もしない。

会話が、そこだけ抜け落ちる。


私は自分を責めた。

忙しいから?

手抜きしてる?

マンネリ?


でも、ある日気づいた。

透は、食べるスピードが早すぎる。


まるで、作業みたいに。


「ねえ」


思い切って聞いた。


「美味しくない?」


透は少し驚いた顔をしてから、困ったように笑った。


「そうじゃない」


その“そうじゃない”が、答えになっていないことを、私は分かってしまった。


透が嗅覚を失ったと聞いたとき、私は怖かった。

でも同時に、どこかで安心もしていた。


目が見えなくなったわけじゃない。

耳が聞こえなくなったわけでもない。

――そう思ってしまった自分が、今は怖い。


味覚の話をされた夜、私は何も言えなかった。

治るの?

いつまで?

どうしたらいい?


質問は山ほどあるのに、どれも口に出せなかった。


だって、透は冷静だったから。


感情的に取り乱すでもなく、

怒るでもなく、

ただ、事実として話す。


その態度が、私を追い詰めた。


私だけが、感情的になっているみたいで。


料理をするのが、怖くなった。


今日は失敗したらどうしよう。

今日は何も感じてもらえなかったらどうしよう。


味見をしても、不安が消えない。

だって、私が感じている“美味しい”は、もう共有できない。


「一緒に食べる時間」が、

「評価される時間」になってしまった。


それが、いちばん苦しかった。


透は悪くない。

分かってる。


でも、私の中には、言葉にできない感情が溜まっていく。


寂しさ。

怒り。

置いていかれる感じ。


そして、いちばん認めたくない感情。


――この人を、支えきれないかもしれない、という恐怖。


ある夜、私は泣いた。


理由は、ほんの些細なことだった。

スーパーで買った惣菜。

透は何も言わずに食べ終えた。


「ねえ」


声が震えた。


「何も思わないの?」


透は、困ったように黙った。


その沈黙で、全部分かった。


私は泣きながら言ってしまった。


「私、必要?」


言った瞬間、後悔した。

これは病気への問いじゃない。

愛への問いだ。


透は、すぐに答えた。


「必要だよ」


迷いのない声だった。


でも――

その言葉を、感じる手段が、もう私にはなかった。


触れても、

抱きしめても、

味を共有しても、

確かめられない。


私は初めて思った。


病気って、

本人より先に、

周りの人を壊すことがあるんだ。


その夜、透はノートを書いていた。

机に向かう背中は、いつもと同じだった。


私は、声をかけられなかった。


彼は記録している。

理性で、自分を守っている。


でも私は――

どこにも記録できない感情を、抱えている。


それが、少しずつ、私を摩耗させていく。


私はこの先、

彼の「次の消失」に、

ついていけるだろうか。


答えは、まだ出せない。

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