第Ⅱ部 味覚の消失(Ⅰ)
第七章 味のない食卓
最初に気づいたのは、塩だった。
夕食の味噌汁が、妙に平坦だった。
薄いわけではない。水っぽくもない。
ただ、輪郭がない。
私は箸を止め、もう一口すすった。
温度は分かる。
舌に触れる液体の粘度も分かる。
だが、塩味が“主張”してこない。
「……味、薄い?」
向かいに座る凪が顔を上げた。
彼女は私と同じものを食べている。
「え? いつも通りだよ」
凪はそう言って、自分の味噌汁を一口飲んだ。
小さく頷く。
「うん、普通」
その“普通”が、私には分からなかった。
私は何も言わずに食べ続けた。
騒ぐほどの違和感ではない。
嗅覚のときも、最初はそうだった。
だが、食事が終わる頃には、はっきりしていた。
味が、遠い。
完全に消えてはいない。
甘い、しょっぱい、苦い――分類はできる。
けれど、どれも同じ距離にある。
凪が食器を片づけながら言った。
「最近さ、感想少なくない?」
責める口調ではなかった。
確認するような声だった。
「そう?」
「前はさ、『今日のは少し甘めだね』とか言ってたじゃん」
私は一瞬、言葉に詰まった。
事実だからだ。
「……気にしすぎじゃない?」
私は、医師と同じ言葉を使っていた。
凪は何も言わなかった。
その沈黙が、味噌汁よりも重かった。
第八章 共有できない
数日後、凪は新しい料理を作った。
レシピサイトで見つけたらしい。
「今日のは自信作」
そう言って、少しだけ照れた。
皿の上には、彩りのいい料理が並んでいる。
私は視覚的に「手がかかっている」と判断した。
一口食べる。
――分からない。
舌は反応している。
だが、評価に必要な情報が足りない。
「どう?」
凪が聞いた。
私は、即答できなかった。
この“間”は、料理の場では致命的だ。
「……食べやすい」
口に出した瞬間、失敗したと分かった。
「食べやすい、ってなに?」
凪の声が少し硬くなる。
「美味しくないってこと?」
「いや、そうじゃなくて」
私は説明しようとした。
だが、味覚の異常を言葉にすると、話が長くなる。
そして、証明できない。
「最近さ」
凪は箸を置いた。
「私が作っても、外で食べても、同じ反応だよね」
私は否定できなかった。
「前はさ、一緒に食べるの、楽しかった」
その言葉が、胸に刺さった。
食事は、栄養摂取じゃない。
体験の共有だ。
私は正直に言うことにした。
「……味、分かりにくくなってる」
凪は驚いた顔をした。
「え?」
「嗅覚、なくなっただろ。たぶん、その影響で」
凪はしばらく黙ったまま、私を見ていた。
同情と困惑が、同時に浮かんでいる。
「病院は?」
「様子見」
「また?」
その“また”に、凪の疲れが滲んだ。
「ねえ」
凪は静かに言った。
「それ、治るの?」
私は答えられなかった。
正確には、答えを持っていなかった。
第九章 作業になる
味覚が薄れると、食事は早く終わる。
迷わないからだ。
何を食べても、差がない。
なら、時間をかける意味がない。
私はコンビニで同じものを買うようになった。
カロリー、量、値段。
判断基準が数字に変わる。
凪は、それを嫌がった。
「たまには、ちゃんと食べようよ」
「栄養は足りてる」
「そういうことじゃない」
そう言われても、私には“そういうこと”が分からない。
ある夜、凪が泣いた。
理由は、料理だった。
「私さ……」
声が震える。
「あなたのために作ってるんだよ」
私は理解した。
凪は、味を通して、私と繋がろうとしている。
だが私は、もうそこにいない。
「ごめん」
謝罪は正しい。
だが、解決にはならない。
凪は首を振った。
「謝らないで」
それは、責められるよりも辛い言葉だった。
私はその夜、ノートを開いた。
・味覚の低下を自覚
・嗅覚消失との関連が強い
・食事が共有体験として成立しなくなっている
最後に、こう書いた。
感覚は、人間関係の接着剤だ。
それが剥がれると、正しさだけが残る。
正しさは、人を繋がない。
私は、次に失うものが何かを、
もう知り始めていた。




