第Ⅳ部 視覚の消失(Ⅳ)
第二十七章 触れて、そこにいる
最初に起きた変化は、
暗闇の中の空気だった。
何かが、
近づいてくる。
音ではない。
床の振動でもない。
間合いが変わる。
透は、
立ち尽くしたままだった。
叫んだあとも、
叫ぶのをやめたあとも、
世界は同じだった。
そこに、
何かが入ってくる。
凪は、
声をかけなかった。
かけても、
届かないと
もう分かっていたからだ。
凪は、
一歩、
ゆっくり近づく。
透の正面に立つ。
影があるかどうかは、
透には分からない。
だが、
距離だけが縮む。
凪は、
透の手首に
そっと触れた。
強くはない。
逃げられる程度。
透の指先が、
ぴくりと動いた。
凪は、
その反応を待った。
引き戻さない。
掴まない。
触れたまま、待つ。
透は、
その接触を
遅れて理解した。
誰かが、
いる。
それだけで、
胸の奥が
少しだけ緩む。
凪は、
透の手のひらに
自分の指を
一つずつ置いた。
数えるみたいに。
透は、
その意味を
考えなかった。
考える前に、
指が
自然に閉じた。
握った。
凪は、
もう片方の手で
自分の胸を
軽く叩いた。
そして、
透の手を
そこへ導く。
透の掌に、
振動が伝わる。
速い。
確かだ。
生きている。
透は、
喉が震えた。
声を出そうとした。
凪は、
首を横に振った。
ゆっくり。
はっきり。
今は、出さなくていい。
その意味が、
視覚として伝わる。
凪は、
透の額に
自分の額を
そっと当てた。
距離が、
完全に消える。
息が触れる。
温度が混じる。
音は、
一切、必要なかった。
凪は、
透の背中に
手を回した。
一度だけ、
軽く叩く。
合図。
透は、
ようやく
力を抜いた。
膝が、
少し折れる。
凪は、
それを支えた。
床に座る。
透の呼吸が、
少しずつ
落ち着いてくる。
凪は、
その変化を
胸の振動で
確認した。
しばらくして、
凪は
透の手のひらに
文字を書いた。
ゆっくり。
「ここ」
透は、
その二文字を
確かに感じた。
次に、
もう一度。
「ひとりじゃない」
透の指が、
凪の手を
強く握り返した。
それが、
返事だった。
音のない世界で、
凪は思った。
言葉は、
もう主役じゃない。
声も、
意味を持たない。
それでも、
伝わる方法は
消えていない。
ただ、
触れて、
待って、
そこにいる。
それだけでいい。
透は、
凪の存在を
初めて
確信として受け取った。
聞こえなくても、
見えなくても、
世界は
まだ、
終わっていなかった。




