第Ⅳ部 視覚の消失(Ⅱ)
第二十六章 読めないところに、名前を書く
それは、
ただの書類だった。
市役所から届いた封筒。
白くて、厚みがあって、
他の郵便物と変わらない。
凪が、
テーブルに置いた。
「これ、
開けておいてくれる?」
透は、
何気なく頷いた。
封筒を開ける。
紙が数枚。
透は、
一枚目に視線を落とした。
文字は、
そこにある。
形も、
分かる。
だが、
意味が、
一斉に入ってこない。
透は、
視線を滑らせた。
上から下へ。
左から右へ。
読んでいるはずなのに、
文章が、
まとまらない。
――長いな。
それが、
最初の感想だった。
「どう?」
凪が、
キッチンから声をかける。
「……ちょっと待って」
透は答えた。
“ちょっと”は、
便利な言葉だ。
時間も、
理由も、
隠せる。
透は、
指で行をなぞった。
子どもじみた行為だと、
自分でも分かっている。
だが、
そうしないと、
どこを読んでいるか
分からなくなる。
文字が、
平面に散らばっている。
立体感がない。
どこが重要で、
どこが注釈なのか、
区別がつかない。
「署名、いるって」
凪が、
紙を覗き込んだ。
「ここ」
指で、
下の方を示す。
透は、
その指先を追った。
確かに、
枠がある。
名前を書く欄。
「……内容は?」
透は聞いた。
「住所変更の確認と、
同意書」
凪は、
自然に答えた。
透は、
一瞬、
ペンを持つ手を止めた。
同意書。
「確認した?」
凪は、
透の顔を見た。
その視線に、
問いが含まれている。
「……だいたい」
透は言った。
嘘だった。
凪は、
一歩、距離を詰めた。
「読む?」
その一言で、
透は理解した。
これは、
誤魔化せない。
「……いい」
透は、
短く答えた。
凪は、
静かに紙を持ち上げた。
「じゃあ、
私が読むね」
凪の声が、
淡々と続く。
内容は、
複雑ではない。
だが透は、
あることに気づいた。
自分は、
聞いて理解している。
読むことを、
放棄している。
それは、
嗅覚や聴覚のときと、
決定的に違った。
読むことは、
透の得意分野だった。
仕事の核だった。
「……ここでいい?」
凪が言う。
「うん」
透は、
署名欄に名前を書いた。
文字は、
歪まなかった。
だが、
中身を知らない名前だった。
ペンを置いたあと、
凪は何も言わなかった。
言わない、
という選択。
それが、
透には重かった。
「ごめん」
透は、
理由もなく言った。
凪は、
首を振った。
「大丈夫」
その声は、
優しかった。
優しすぎた。
その夜、
透はノートを開いた。
今日の記録。
・公的書類の読解困難
・行の把握ができない
・署名:内容を把握せず実施
書き終えたあと、
ペンが止まる。
ここに、
本当は書くべき一文がある。
だが、
透は書かなかった。
書いたら、
自分で自分を
決定づけてしまう。
凪は、
ベッドの脇で言った。
「ねえ」
「なに」
「次から、
一緒に確認しよう」
透は、
一瞬、
反射で断りそうになった。
だが、
その言葉は出なかった。
「……うん」
それは、
同意だった。
そして同時に、
一人で判断する権利を
手放す合図だった。
透は、
目を閉じた。
見えているはずの世界が、
もう、
信用できない。
視覚は、
まだある。
だが、
世界を読む力は、
確実に削られている。
次に失われるのは、
「見える」ことではない。
「任せられる」ことだ。




