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消失  作者: あき
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第Ⅰ部 嗅覚の消失(Ⅱ)

第四章 検査という言葉の安全圏


再診は、初診から二週間後だった。

その二週間で、匂いは一度も戻らなかった。


私は生活を「確認」で固めた。

火は必ず目で見る。

食材は消費期限と見た目で判断する。

換気は時間で管理する。


感覚の代わりに、手順を置いた。


耳鼻科の待合室には、人が多かった。

子ども、老人、花粉症の季節外れの患者。

誰もが「治る前提」で座っている。


私は、治る前提を置けなかった。


名前を呼ばれて診察室に入る。

医師は前回と同じ中年の男性だった。

カルテを見ながら、淡々と話す。


「まだ戻らないですか」


「戻りません」


「完全に、ですか?」


この“完全に”という言葉に、私は引っかかった。

嗅覚があるかないかは、グラデーションではない。

あるか、ないかだ。


「完全に、ありません」


医師は軽く頷いた。


「じゃあ、嗅覚検査しましょう」


検査室は白かった。

白い机、白い壁、白い容器。


いくつかの小瓶を順番に嗅がされる。

バラ、カレー、汗、腐敗臭――

本来なら、名前を当てる検査だ。


私は、何も答えられなかった。


「分かりません」

「無臭です」

「刺激はありますが、匂いではないです」


医師はチェックを入れていく。

そのペンの音だけが、やけに規則正しかった。


「反応は、かなり低いですね」


「低い、ですか」


「ゼロではない、という判定です」


私は息を吸った。

その説明は、安心させるための言葉だった。


「でも、私は匂いを感じていません」


「主観と検査結果は、必ずしも一致しません」


主観。

この瞬間、私の体験は“参考意見”に格下げされた。


医師は言葉を選びながら続ける。


「脳の問題の可能性も、完全には否定できません。ただ、嗅覚だけだと……」


「様子見、ですか」


「そうですね。MRIを撮るほどではないと思います」


撮らない理由は明確だった。

コスト、時間、前例の少なさ。

そして、緊急性が低いという判断。


私は論理的に理解できた。

理解できるからこそ、反論しづらい。


「何か、気をつけることは?」


「ガスとか、火元ですね。あとは周囲の人に相談するとか」


私はその場で笑いそうになった。

“相談”という言葉は、感覚の代わりにならない。


診察室を出るとき、私は医師に聞いた。


「もし、これが進行したらどうなりますか」


医師は一瞬だけ、視線を上げた。


「進行するとは、限りません」


それは答えではなかった。

だが、これ以上は踏み込めない空気があった。


私は診察室を出た。

背中に残ったのは、「重大ではない」という扱いだった。


第五章 説明義務の外側


その日の午後、私は総合病院へ行った。

紹介状はない。

自分で選んだ行動だった。


総合病院の空気は、耳鼻科とは違った。

広く、冷たく、匿名性が高い。

人は多いのに、誰もこちらを見ていない。


受付で症状を伝える。


「嗅覚が、完全にありません」


看護師は入力しながら、顔を上げずに言った。


「いつからですか」


「三週間前から」


「急性ではないですね」


その一言で、緊急度は下がる。


診察室で出てきた医師は、若かった。

白衣が新しく、言葉が丁寧だった。


「嗅覚だけ、ですか?」


「はい」


「味覚は?」


「今のところ、あります」


「頭痛、めまいは?」


「ありません」


質問は正確だった。

だから私は、余計な説明を挟めなかった。


医師はモニターを見ながら言った。


「この場合、画像検査をしても、所見が出ない可能性が高いです」


「でも、原因が分からないままなのは――」


「不安ですよね」


その“不安”という言葉で、話は終わる。

不安は感情で、病変ではない。


「現時点では、経過観察が妥当です」


私は確認した。


「進行性の可能性は?」


医師は少し間を置いた。


「文献上、極めて稀ですが……否定はできません」


その“稀”という言葉が、私を宙に浮かせた。

稀だから、対策はない。

稀だから、説明は省略される。


「もし進行したら、次は何が起きますか」


医師は言葉を選んだ。


「仮定の話になりますが……味覚、聴覚などに影響が出ることも、理論上は」


理論上。


私はその言葉を、頭の中で何度も反芻した。

理論上、という安全な距離。

現実から一歩引いた位置。


診察はそれで終わった。

追加検査はなし。

処方もなし。


私は病院を出た。

何も得ていないのに、妙に疲れていた。


病院の前で立ち止まる。

排気ガスの匂いがするはずだった。

アスファルトが焼ける匂いがするはずだった。


やはり、何もない。


私は理解した。


この段階での私は、

「病人」ではなく、

「異常を訴えるが、異常が証明できない人」だ。


その立場は、社会の中でとても弱い。


第六章 記録しないと、消える


その夜、私はノートを開いた。

三章で書き始めたノートだ。


今日の出来事を、事実だけで書く。


・嗅覚検査:ほぼ無反応

・医師の判断:緊急性なし

・追加検査:不要

・進行性:否定できないが稀


私は感情を書かなかった。

感情を書くと、「主観」になるからだ。


代わりに、気づいたことを書く。


・“稀”は、備えを不要にする言葉

・“様子見”は、責任を未来に送る言葉

・説明されない部分が、恐怖になる


書きながら、私ははっきり理解した。


この病気が本当に怖いのは、

匂いが消えることではない。


匂いが消えたことを、誰も重要だと思わないことだ。


私はノートの最後に、一行だけ書いた。


記録しないと、私は消える。


それは決意ではなく、事実だった。

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