第Ⅳ部 視覚の消失(Ⅰ)
第二十五章 先に、見えなくなる人
最初に気づいたのは、
凪だった。
理由は、
とても些細なことだった。
透が、
玄関で靴を履こうとしていた。
右。
左。
少しだけ、
迷う。
ほんの一拍。
誰もが持つ程度の、ためらい。
凪は、
それを見逃さなかった。
「どっち?」
何気なく聞く。
「……右」
透は答えた。
凪は、
黙って靴を差し出した。
正解は、
左だった。
「最近さ」
凪は、
帰り道に言った。
「段差、
避けるの遅くない?」
透は、
すぐに否定した。
「そんなことない」
声は、
いつも通りだった。
凪は、
それ以上言わなかった。
だが、
胸の奥で、
何かが静かに組み上がっていく。
夜、
テレビがついている。
ニュース番組。
字幕が流れている。
「今、
何の話?」
凪が聞く。
透は、
少し間を置いた。
「……災害の話」
嘘ではない。
だが、正確でもない。
凪は、
画面を見た。
特集は、
別の話題に移っている。
「ねえ」
凪は、
できるだけ普通の声で言った。
「今日、
スーパーで
あの表示、
見えてた?」
「どれ」
「値引きのシール」
透は、
即答できなかった。
「……見えてたよ」
凪は、
その“間”を覚えた。
凪は、
自分の視線を疑った。
疲れているのは、
自分かもしれない。
でも、
一つ一つは些細でも、
重なり方が、
以前と同じだった。
嗅覚のとき。
味覚のとき。
聴覚のとき。
いつも、
透より先に、
凪が気づいた。
その夜、
凪は眠れなかった。
隣で、
透は静かに寝ている。
顔は、
穏やかだ。
凪は、
暗闇の中で
透の目元を見つめた。
目は、
閉じている。
当たり前だ。
それでも、
凪は思ってしまった。
――この人は、
もう少ししたら、
目を開けていても、
世界を見失う。
その考えを、
振り払おうとした。
まだだ。
まだ、
そんな段階じゃない。
翌朝。
凪は、
テーブルに置いた
白い紙を指さした。
「これ、
何て書いてある?」
透は、
一瞬、紙を見る。
「……注意書き」
凪は、
息を止めた。
そこには、
大きく
「回収」
と書かれていた。
注意書きではない。
凪は、
何も言わなかった。
言えなかった。
言えば、
すべてが始まってしまう。
透は、
コーヒーを飲みながら言った。
「なんか、
最近さ」
凪は、
身構えた。
「目、
疲れやすい」
それだけだった。
凪は、
笑ってみせた。
「じゃあ、
今日は早く寝よう」
透は、
頷いた。
その頷きは、
正しかった。
だが凪は、
知ってしまった。
先に見えなくなるのは、
いつも、
支える側だ。
そしてそれは、
何よりも残酷だった。




