第Ⅲ部 視覚の消失(Ⅰ)
第二十四章 目が、遅れる
最初は、
疲れのせいだと思った。
そう思える程度には、
まだ見えていた。
朝、
透はカーテンを開けた。
光が入る。
部屋が明るくなる。
それは、
理解できる。
だが、
どれくらい明るくなったのかが、
すぐには分からなかった。
眩しいのか。
十分なのか。
透は、
しばらく窓の前に立っていた。
洗面所の鏡。
顔が映る。
輪郭。
目。
口。
見えている。
なのに、
「自分だ」と判断するまでに
一拍かかる。
透は、
鏡の中の自分に
軽く手を振った。
像も、
同じ動きをした。
それでようやく、
納得する。
通勤路。
凪は、
少し前を歩いている。
透は、
その背中を見失わないように
意識を集中させる。
背中は、
見える。
だが、
背景と溶けやすい。
人混みの中で、
凪の輪郭が
一瞬、曖昧になる。
透は、
立ち止まった。
凪が、
振り返る。
口が動く。
透は、
その口の形を追いながら
距離を詰めた。
職場。
資料を開く。
文字は、
読める。
だが、
行と行の境目が
すぐに分からなくなる。
どこまで読んだのか。
今、どこを見ているのか。
透は、
指で行をなぞった。
子どもみたいだと
思った。
だが、
やめられなかった。
「そこ、見てる?」
同僚が言う。
透は、
即答できなかった。
見ている。
はずだ。
だが、
見ている“つもり”と
見えている“確信”が、
一致していない。
「……見てる」
その返事は、
少し遅れた。
昼休み。
外の光が、
強い。
目を細めるほどではない。
だが、
落ち着かない。
影と光の境目が
平坦だ。
立体感が、
薄い。
透は、
ベンチに座り、
しばらく動かなかった。
帰宅途中。
信号を見る。
赤。
……たぶん。
凪が、
立ち止まる。
透は、
その動きで
判断を修正した。
色より、
他人の行動を
信じている。
夜。
部屋の電気を消す。
暗くなる。
……はずだ。
だが、
暗さの変化が
以前ほどはっきりしない。
透は、
目を閉じてみた。
開けても、
大差がなかった。
ノートを開く。
今日の記録。
・視線の遅延
・距離感の不安定
・明暗判断の鈍化
・背景と対象の分離困難
透は、
ペンを止めた。
この書き方も、
もう見覚えがある。
嗅覚。
味覚。
聴覚。
すべて、
「まだ大丈夫」と
言えた時期があった。
凪が、
そばに来る。
透は、
その存在を
“見て”ではなく、
気配で理解した。
凪の口が動く。
透は、
一語ずつ
読み取る。
「……目、
疲れてる?」
透は、
少し考えてから
頷いた。
否定は、
しなかった。
布団に入る。
天井を見上げる。
白い。
……と思う。
だが、
白だと判断した理由を
説明できない。
透は、
目を閉じた。
閉じる理由が、
休むためなのか、
確認をやめるためなのか、
分からなかった。
この日、
透は理解した。
目は、
まだある。
だが、
見るという行為が、
即座に信じられなくなった。
それは、
消失の始まりとして
十分だった。




