第Ⅲ部 聴覚の消失(Ⅹ)
第二十四章 見えているはずのもの
違和感は、
本当に些細だった。
文字が、
少しだけ遅れて頭に入る。
スマホの画面。
ニュースの見出し。
読めている。
意味も分かる。
だが、
視線を合わせるまでに、
ほんの一拍かかる。
透は、
画面を一度閉じた。
疲れている。
そう結論づけた。
翌日、
会社で資料を読んでいるとき。
「そこ、見てる?」
香澄が言った。
「見てる」
透は答えた。
「……今?」
その言葉で、
透は自分の視線が
少しズレていることに気づいた。
文字ではなく、
行間を見ていた。
透は、
視線を戻した。
「ごめん」
香澄は、
何も言わなかった。
だが、
その沈黙は、
前にも経験している。
嗅覚。
味覚。
聴覚。
すべて、
こうやって始まった。
帰宅後、
凪が言った。
「電気、つけ忘れてたよ」
透は、
部屋を見回した。
薄暗い。
確かに。
だが、
暗いと“感じていなかった”。
「……そうだっけ」
凪は、
一瞬だけ透を見た。
「最近、
明るさ、気にしなくなったよね」
透は、
笑おうとした。
「慣れただけ」
その言葉を口にした瞬間、
胸の奥が、
ひどく冷えた。
その夜、
ノートを開く。
今日の記録。
・視線の遅れ
・明暗への反応低下
・読解速度の違和感
透は、
ペンを持ったまま止まった。
この項目を、
どこに書くか。
嗅覚でもない。
味覚でもない。
聴覚でもない。
透は、
新しいページを開いた。
そして、
ページの上に
小さく書いた。
視覚?
疑問符を、
消さなかった。
消したら、
現実になる気がしたからだ。
凪が、
背後から声をかける。
「透」
透は、
少し遅れて振り向いた。
「なに?」
凪は、
何か言いかけて、
やめた。
その“やめた”が、
透にははっきり見えた。
――次は、
ここだ。
透は、
まだ見えている世界を見つめながら、
その確信だけを
静かに受け取っていた。




