第Ⅲ部 聴覚の消失(Ⅸ)
第二十三章 先に、決められる
最初は、
助かっていると思った。
凪が、
少し前を歩く。
横断歩道の手前で、
立ち止まる。
透は、
その背中を見て止まる。
理由は、
もう考えない。
駅までの道。
人の流れが変わると、
凪の歩幅が変わる。
それを、
透は見て判断する。
自分で判断している、
つもりだった。
「こっち」
凪が、
進行方向を変える。
透は、
何も聞かずに従う。
以前なら、
理由を聞いていた。
混んでいるのか。
工事か。
急ぐ必要があるのか。
今は、
聞かない。
聞けない、
ではない。
聞かなくて済む。
店に入る。
凪が、
先に店員と向き合う。
口が動く。
透は、
少し後ろで待つ。
会話は、
自分のためのものだと
分かっている。
だが、
自分は
参加していない。
「これでいい?」
凪が、
商品を差し出す。
透は、
見て頷く。
本当に、
それでいいかどうか。
確信は、
なかった。
だが、
異議を唱える材料も、
なかった。
帰り道。
凪が、
スマホを見る。
その表情で、
何かを判断しているのが分かる。
透は、
足を止めなかった。
立ち止まる理由が、
自分には分からないからだ。
家に着く。
凪が、
鍵を閉める。
その動作を、
透は黙って見ている。
「疲れた?」
凪の口が動く。
透は、
少し遅れて頷く。
「うん」
それは、
本当だった。
夜。
透は、
一日の出来事を
思い返そうとした。
だが、
思い出せるのは
自分が何をしたかではなく、
凪が何を決めたかだった。
進む道。
買うもの。
立ち止まる場所。
透は、
すべてに従っていた。
ノートを開く。
今日の記録。
・外出時の判断:同行者主導
・自分の判断回数:極少
・安全性:高
安全。
また、
その言葉だ。
透は、
一行、書き足した。
判断しないことに、
慣れ始めている。
その一文が、
一番、
怖かった。
凪は、
布団を敷きながら
振り向いた。
「明日さ」
透は、
顔を上げる。
凪は、
言葉を選ぶ。
「病院、
一緒に行こう」
透は、
すぐに返事をしなかった。
だが、
断る理由も
思いつかなかった。
「……うん」
その返事は、
自然だった。
自然すぎた。
透は、
目を閉じた。
音がない世界で、
判断を失うのは
とても簡単だ。
なぜなら、
代わりに決めてくれる人が
そばにいるから。
それは、
愛情だった。
同時に、
透から
静かに何かを
奪っていくものでもあった。




