第Ⅲ部 聴覚の消失(Ⅸ)
第二十三章 連れて行かれる側
最初は、感謝のほうが先に来た。
凪が隣にいる。
横断歩道では、先に一歩出てくれる。
駅のホームでは、無意識に透の前に立つ。
それは、守る動きだった。
「次、右」
凪が言う。
透は、従う。
「今、車来てない」
透は、歩く。
安全だった。
合理的だった。
文句を言う理由は、なかった。
――なかった、はずだった。
ある日、二人で病院へ行った帰り。
エレベーターを待っていると、
後ろから人の気配がした。
「先、どうぞ」
凪が言う。
透は、反射的に一歩前に出た。
その瞬間、
凪の手が、
透の肘を掴んだ。
「ごめん」
小さな声。
「後ろ、子どもいる」
透は、
動きを止めた。
確かに、
子どもの声がする。
……はずだった。
透は、
自分が“確認できなかった”ことを
遅れて理解した。
エレベーターに乗り込むと、
親子が後ろに入ってくる。
透は、
一度もその存在を把握できていなかった。
「ありがとう」
透は言った。
凪は、少し困ったように笑った。
「当たり前でしょ」
その言葉が、
胸に小さく刺さった。
当たり前。
それは、
役割が固定されたという意味だった。
帰り道、
凪が電話を受けた。
「うん、今一緒。
……大丈夫、私がいるから」
その言葉を、
透は聞いてしまった。
“私がいるから”。
それは、
透がいなくても成立する文だった。
透は、
歩きながら考えた。
自分は今、
同行者ではない。
同行される側だ。
家に着いて、
透は靴を脱ぐ手を止めた。
「……なあ」
「なに?」
凪は、
いつも通りの声で答えた。
「俺、
一人じゃ何もできないみたいに
見えてる?」
凪は、
すぐに否定した。
「そんなことない」
早すぎる答えだった。
「ただ、安全なほうがいいだけ」
透は、
それ以上聞かなかった。
聞けば、
自分が壊れる気がした。
その夜、
透はノートを開いた。
今日の記録。
・外出時、常に同行
・判断の主導権:凪
・自分の確認行動:減少
最後に、
少し迷ってから書いた。
守られるとは、
選ぶ権利を
他人に渡すことだ。
書き終えたあと、
透はノートを閉じた。
凪は、
すぐそばにいる。
その距離が、
今日はいちばん遠かった。




