第Ⅲ部 聴覚の消失(Ⅷ)
第二十二章 一人で、しないでください
最初に言われたのは、
禁止ではなかった。
「できれば」
その一言が、
すべての前に置かれた。
再診の場で、
城戸はカルテを閉じたまま話し始めた。
「最近の状況を踏まえると」
透は、
その“踏まえる”という言葉に、
わずかな圧を感じた。
「単独行動は、
できるだけ控えてもらいたい」
控えてほしい。
禁止ではない。
だが、選択肢はほぼ一つだった。
「どの程度、でしょうか」
透は聞いた。
城戸は、即答しなかった。
「外出。
特に、交通量のある場所。
夜間」
透は、
自分の生活を思い浮かべた。
通勤。
買い物。
ゴミ出し。
どれも、
誰にも迷惑をかけていない行動だ。
「仕事には?」
「会社と相談してください」
また、未来に送られる。
「これは、命令ではありません」
城戸は、
念を押すように言った。
「ですが、
事故が起きた場合、
予測可能だったと判断される可能性があります」
その言葉で、
透は理解した。
何かあれば、
自己責任になる。
「分かりました」
透は、
それだけ答えた。
病院を出ると、
凪が待っていた。
今日は、
付き添いだった。
「どうだった?」
透は、
短く要点だけを伝えた。
「一人で出歩くな、って」
凪は、
言葉を失った。
「……そんなに?」
「命令じゃない」
透は、
すぐに付け足した。
「“できれば”だ」
凪は、
笑えなかった。
その日の夕方、
凪は言った。
「じゃあ、
一緒に行こう」
透は、
すぐには返事をしなかった。
一緒に、という言葉が、
重かった。
「スーパーも、
病院も」
凪は続けた。
「私がいれば、
音、分かるでしょ」
透は、
喉の奥が少し詰まるのを感じた。
それは、
感情だった。
「……ありがとう」
それしか、
言えなかった。
数日後。
透は、
一人でコンビニに行こうとして、
靴を履くところで立ち止まった。
時間は昼間。
道も静か。
大丈夫だ。
理屈では。
だが、
城戸の声が、
頭の中で再生される。
――予測可能だった。
透は、
靴を脱いだ。
その動作は、
とても静かだった。
夜、
凪が風呂に入っている間、
透は窓の外を見た。
人が歩いている。
車が通る。
音は、
ある。
だが、
それらはもう、
透の行動を支える情報ではない。
透は、
ノートを開いた。
今日の記録。
・単独外出:控える
・同行者:凪
・判断基準:安全性優先
ペンが、
少し止まった。
そして、
一行、書き足した。
自由は、
失われた感覚の数だけ、
静かに減っていく。
凪が、
風呂場から呼んだ。
「透?」
返事は、
少し遅れた。
「なに?」
凪は、
何も言わなかった。
それでも、
透には分かった。
これから先、
呼ばれるたびに、
誰かがそばにいる前提で
生きていくのだということを。
それは、
守られている、ということでもあり、
一人では許されない存在になる
ということでもあった。




